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【小説】神さまだった頃のこと

「おれは昔、神さまだったんだ」

 カフェーで相席になった男が唐突にそう言うので、私はたまごサンドを呑み込むのに失敗した。まだ年若い青年は肉体労働とは縁遠く、書生のような風情である。ナプキンを口許にあて向かいに座る男を睨めつけるが、彼の眼差しはこちらの不信感など跳ね返すほどにまっすぐで、ぞうっと背筋を冷たいものが駆けおりていった。反射的に顎を引きくちを引き結ぶと、私の怖気を悟った彼が、張り詰めた糸を緩めるように表情を和らげた。

「そんなに怖がらないでくれ。何せもう、昔の話なのだから」

 狂人というには知的な面立ちに浮かべた微笑には人懐こさすら滲む。幼く無防備な子供のようでもあり、数多の経験を得た老人のようでもあるその雰囲気に私は戸惑った。我々の間に居心地の悪い空気が流れる。いや、居心地が悪いと思っているのは私だけであろう。彼は変わらず見透かすような目でもって私を見つめていた。
 花と白粉の甘い香りと共に、失礼いたします、と割りこんできた女給の声がまるで救いのようであった。楚々とした所作で青年の前にアイスクリームソーダ水が置かれ、彼は有り難うの言葉を添えつつも流れるように心付を渡す。ごゆっくりどうぞと返して去っていく女給の蝶のような白いエプロンから再び青年のほうへ視線を向ければ、彼はじいっとグラスを見ていた。控えめな照明のしたで発光する琥珀色は眩しく、そのなかでは小さな気泡が生まれては弾けを繰り返す。てっぺんに盛られたアイスクリームはすでに縁が滲みはじめていた。

「もし」

 つい私まで琥珀で弾ける泡に見入っていると、小さく声がした。はっとして顔をあげると、青年はソーダ水を見つめたままもう一度、もし、と言う。薄く開いた唇の隙間から、健やかな白い歯と艶めいた紅い舌がちろと覗いた。途端、見てはいけないものを見てしまったような気分になり、私は誤魔化すように彼に続きを促す。すると、青年は今度こそ琥珀色に満ちたグラスから私へと視線を移した。人懐こさと遠慮が入り混じった双眸が星の如く瞬く。

「あなたさえよければ、少しだけあなたの時間と耳を貸していただけないだろうか」

 最初と比べ、随分と殊勝な態度である。私は胸にくすぶる後ろめたさもあり、このサンドウィッチを食べ終わるまでならば、と答えた。それだけでも彼はほっとしたようにまた淡く微笑み、細く長い匙をアイスクリームの丸みに向ける。青年は雪にも似た白を匙で掬うとゆっくりとした動作でくちへと運んだ。微かに匙の銀と歯の白がぶつかる澄んだ音がして、あの紅い舌のうえで冷たい甘味が蕩けていく。美味しい、と小さく声を溢した彼は頬を緩め、そしてそのまま顔をあげるといよいよ話はじめた。

「おれが生まれたのは、北の山奥にある小さな村だったんだ。あまりに山深いせいで、外との交流は殆どない。すべての生活は村のなかではじまり、村のなかで終わるんだ。あなたのような都会の人間からしたら張りあいのない暮らしだろうけれど。慎ましくて、悪くはない暮らしだったんだ。ところで、おれはよその子供より言葉が遅かったらしい。喋るどころか唸りもしないものだから、周りはおれのことをくちが利けない木偶の坊だと思っていたそうだ。ところがおれは五ツになると急に喋り出した。そのうえ、話す内容ときたら奇妙なものばかりときた」

 彼は言葉を切ると、甘い炭酸で喉を湿らせた。カラン、と氷が鳴り、幾つもの気泡が水面を目指して泳ぐ。彼の動作はいちいち緩慢としていて、私は我慢できずに、奇妙とは、と問いかけた。青年は驚いたように僅かに両目を見張り、それからふうっと細くした。カラン、また彼の手元で氷が鳴る。

「最初は失せ物の有り処だった。母が手拭いを失くしたんだ。多分猫か何かが持っていってしまったんだろう、普段は誰も近づかないような物陰にあった。次に天気。一刻もしないうちに雨が降るってね。それから、今日は川でよく魚が獲れるだとか、山から熊が降りてくるから気をつけろだとか……そう、おれの言葉はよく当たった。最初は直近の些細なことが、それからさらに先のことがわかるようになっていったんだ。はじめこそ皆信じやしなかったけれど、次第におれの言うことは当たるのだと気がついた。七ツになる頃にはおれは普通の子供のように喋られるようになっていたけれど、皆が求めるのはそういう予言じみた言葉のほうだった」

 荒唐無稽な語りに耳を傾けながら、私は珈琲を啜った。眉間に皺を寄せた辛気臭い顔が、黒々とした水面に映る。この皺の深さは珈琲の苦みのせいだけではない。察しのよい青年は私の反応を見やり、形のよい眉をさげた。だが、喋ることをやめようとはしなかった。

「誰もがおれの言葉を求め、おれはそれに答え、気がつけば、皆から神さまと呼ばれるようになっていた。いったい何処から聴いたのか、わざわざ村の外からやってくる人間までいたんだ。もうおれを、木偶の坊などと思う奴はいなかった。毎日毎日、誰かが何某かの貢物なんかを持って、おれに言葉を乞うんだ。何処に罠を仕掛ければ獲物がかかるのか、今年の田畑の実りは豊作か、結婚するならどちらの家の男がよいのか。おれは万物全てのことがわかるわけではなかったけれど、村人たちが知りたいことくらいであれば答えてやれた。答えれば答えるほど、彼らはおれの言葉を有り難がった」

 彼はまた言葉を切ると、小さく息を吐いた。私はその隙にたまごサンドをくちに詰めこむ。たまごとバターの絶妙な風味を楽しむ余裕もない。彼の不可思議な語りはこのたまごサンドを食べ終えるまで続くのだから。青年は私の焦燥に気づいているのか、いないのか、再びくちを開いた。

「そんなふうに毎日訪れる者たちのなかに、ひとりの少年がいた。彼はおれとそう変わらない年頃の少年で、だけどおれとは違い、よく日に焼けて健康的な子供だった。彼にも他と同じように、何を知りたいのか尋ねると、そいつはこう言ったんだ……ぼくだけの神さまになって欲しい、と。おれは、出来ない、と答えた。おれは皆の神さまだったし、何よりおれが彼だけの神さまになることはないとわかっていたから。でも、彼が何度もおれのもとを訪れて、同じことを言うのはわかった。その度おれも、同じように出来ないと答えることも。不毛だと、子供ながらに思ったよ。大人たちも幼い戯言だと考えたんだろう、彼を本気で咎める者はいなかった」

 また、彼の語りがとまる。私の反応を窺っているのではなく、当時のことを思い出しているのだろう。ぱちぱちと、炭酸の弾ける囁きが鼓膜をつつく。青年は笑みの失せた表情で消えいく気泡たちを見るともなしに見ていたが、ややあって、おもむろに続きを語り出した。

「おれは未来のことがわかっていた。だから、いつか、おれのこのちからが失われることもわかっていた。だけどおれは、それを誰にも言わなかった。だって、言ったところでどうしようもないだろう。ただひたすら求められるままに答え続け、そしてとうとう答えられない日がやってきた。おれは十七になっていた。あなたは目が見えなくなったことはあるだろうか。今まで普通に出来ていたことが出来なくなるのは、存外怖いものだ……おれが予言できないと知ると村人たちはやってこなくなり、家族もおれを持て余した。十七にもなって、野良仕事のひとつまともにできないんだから仕方がない。神さまじゃなくなったんだ、おれは」

 ソーダ水の氷は彼が話している間にも小さくなり、アイスクリームは歪に形を変えていく。透き通った琥珀を乳白色がじわじわと侵食し、気泡たちの勢いは衰えていった。私はどう反応すればよいのかわからず、ただひらたすらにたまごサンドをくちに詰めこんだ。
 不気味な沈黙を遮るよう、青年がグラスの中身を銀色の匙でぐるりと一回、掻き混ぜた。カラコロと角のなくなった氷たちがさざめきあい、宝石のような煌めきが細かな気泡を飲みこみながら甘く白濁する。私はどうにもサンドウィッチが喉を通らず、苦くぬるい珈琲を啜った。恐る恐る青年のほうを窺うと笑みこそ失せていたが、思いの外静かな表情をしている。伏せた睫毛が頬に仄かな陰影を描き、神ではなくなったという彼の憂いに満ちた醇美を助長していた。カラコロと氷が鳴る合間に、でも、と彼の声がする。

「そんなおれのもとに、やってきたもの好きがいた」

 息継ぎのためか、彼の言葉が途切れたときだった。不意に我々のテーブルに影が落ちる。何事かと目をやれば、背の高く、身綺麗な青年が立っていた。まるで夜更けを思わせる濃紺の背広を着た彼は低くあたたかな音で、すまない、遅くなってしまった、と私が相席する青年へ告げる。残り少ないアイスクリームの表面を匙で削いでいた青年はぱっと顔をあげると、構わないよ、と答えた。穢れを知らぬような稚さと世を悟ったような老成の色がいりまじっていた眼差しは、ただただ長らく待っていた想い人を迎える喜びに染まっている。

「彼が話し相手になってくれたんだ」
「それは、それは。連れが世話になりました」

 丁寧な所作で紹介され、これまた丁寧な身のこなしで礼を言われる。反射的に恐縮しながら頭をさげたものの、彼らのような優雅さには遠く及ばない。目の前に座る青年はアイスクリームを匙で完全に沈め溶かすと、炭酸が抜け入道雲が広がったような琥珀をするりと飲み干してしまった。先程とは打って変わって乱雑な振る舞いであったが、それもしっくり馴染んでいる。そう急がずともよいのに、と脇に立つ青年が言い、ナプキンを差し出した。優美な振る舞いに反し、その指の皮は硬そうだった。肉体を使った労働を知る手である。

「おれはもう行くよ。話を聴いてくれて有り難う」

 書生風の青年はそう言うと席を立ち、気持ちの良い姿勢でつかつかと歩き出した。背広の青年はすぐには去らず、彼の後姿をどこか眩しそうに眺めており、私は思わず問うてしまった。あのひとは、あなただけの神さまになったのですか、と。彼の目がきょとりと丸くなり、それから三日月の形に弛んだ。

「あれはただの、人間ですよ」

 長い人差し指を己の唇に添え、ゆるりと笑む。妙にさまになったその仕草に、先日観たショーの奇術師などを思い出した。そうやって私が呆気にとられていると、それでは、と別れの言葉を唱えて踵を返す。先に去った青年に負けず劣らずしゃんと伸びた背筋であった。残された私は呆然としながら、青年が語る間に食べきれなかったたまごサンドをのろのろと食む。彼の昔話が空想の産物にすぎぬのか、はたまた真のことであったのか私には判断など出来ず、ぼやけた熱さの珈琲を飲みくだす。あれが嘘であれ、事実であれ、私にはもう関係のないことだ。
 何とかすべての食事を終え精算しようとしたところ、代金はすでに支払われているとのことだった。店員の表情ですら何かを含んでいるように視えてしまい、まるで狐狸の類に化かされたような心地でカフェーを出る。扉の外には人々が行き交う街の景色が広がり、見慣れた賑やかさに安堵を憶えずにはいられなかった。つい通り過ぎるひとの顔をひとつひとつ追うも、あのカフェーで出会った彼らは気配すらない。きっともう、会うこともないだろう。私は幻の残り香を払うようにして錯雑とした人波へと加わるのであった。

<終>


最後まで読んでいただきありがとうございました。
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