【小説】青年よ、可愛いを抱け!
扉の向こう、ひとの気配。荷物をおろしたり、玄関を入ってすぐにあるシンクで手を洗ったりする物音がしたかと思えば、気配が近づいてくる。
リビングを仕切る扉が開き、ひやりとした空気とともに帰ってきた同居人は正樹を見ると、ただいま、と言った。吐く息は夜の冷たさを宿したようにひんやりとしていたが、鼻先をほんのりと赤くして目許をほころばす姿にはぬくもりが滲んでいる。
「おかえり、シュンちゃん」
正樹は化粧水を染みこんだ使用済みのコットンをゴミ箱に放り、前髪をもちあげていたヘアバンドを外しながら春司を出迎えた。
年齢も学年もひとつしたである正樹の馴れ馴れしい態度にも鷹揚な春司は、ああ寒かったとこぼす。テーブルに広げていた化粧水やら乳液やらを正樹が一旦端に寄せると、空いた場所へポストにはいっていたチラシを置いた。
「夕飯はもう食べたのか?」
「うん。シュンちゃんは?」
「俺も、バイト先でまかない食べてきた」
「今日は何だったの?」
「今日は鯖の切れ端を集めたどんぶり」
春司が働くのは大学と家の中間にある創作和風料理店である。
いいなあ、と言いながら正樹はチラシに目を通した。
デリバリーピザとファミリーレストランのチラシが一枚ずつに、水道修理のマグネット式の広告も一枚。本当にこの水道修理に世話になることなんてあるのだろうかと思いつつ、ピザとファミレスのチラシにクーポンがついていることを確認する。十分な夕飯を食べたにもかかわらず、鮮やかなメニュー写真は魅力的であった。
「あ、そうだ。シュンちゃん、荷物来てる」
「荷物?」
壁際に置いていた、ひと抱えほどある段ボールを指差すと、ジャケットを脱ぎかけた春司は首を傾げた。
「ほら、こないだのクレーンゲームのやつじゃん?」
一週間ほど前、オンラインのクレーンゲームでゲットした特大のぬいぐるみだ。スマホのアプリを使って遠隔操作でクレーンを操作し景品を手にいれるというゲームで春司がプレイしていたのだが、あまりにも覚束ない操作のために途中で正樹が交代して取ったのがこの荷物だった。アプリを勧めた正樹としては、プレイの過程は勿論、結果も楽しんでもらいたかったのだ。
ああ、と合点がいった春司は忙しない瞬きを繰り返し、段ボールと正樹を交互に見やった。
苦笑まじりに正樹が頷くと、ジャケットを中途半端に脱いだ状態でいそいそと段ボールを開ける。
なかから出てきたぬいぐるみはビニール袋に封じられ、心なしか息苦しそうだった。
もたもたしている春司に代わり、正樹がビニールから救出してもにもにと揉んでやると、圧縮されて歪になっていたぬいぐるみが本来の愛らしい姿を取り戻す。
大きく抱きしめがいのある最近流行りのウサギのキャラクターを前に、春司は引き攣れた表情で向きあった。
「そんな顔すんなって。はい」
最終的に取ったのは正樹とはいえ、金もアカウントも春司のものだし、そもそも欲しがったのも彼である。
綿の詰まったぬいぐるみを押しつけると、春司はそろそろと抱きしめた。まだ頬やくちもとが緊張しているが、目はきらきらと子供みたいに輝いている。
「かわいい……」
噛みしめるようにそう呟くと、やわらかさを堪能するように改めてぬいぐるみを抱き締める。
その腕は高校まで野球をやっていた名残ですっきりとした筋肉がついていた。両親ともに骨格が華奢で筋肉がつきにくく、そんな体質をしっかり受け継いでしまった正樹としては羨ましいかぎりである。
「うんうん、かわいいな」
「うん……ほんとに……」
ぬいぐるみの腹に顔を埋めながらも、どこか肩や腕が妙にりきんでいた。加減ができずに壊してしまったりしないように、恐る恐る抱いているのだ。
いくら元球児で多少体格に恵まれているといえど怪物や超人ではないのだから、ぬいぐるみくらいちからいっぱい抱き締めても大丈夫だと言ってやっても、春司が抱擁に慣れる気配はまだ遠い。
平気なのにねえ、と正樹はテレビの横に座るマスコットキーホルダーに目をやった。毛足の長い犬だか猫だかの小さなぬいぐるみは、つぶらな瞳で見返すだけだ。
もとは正樹の友人が飲み会帰りに立ち寄ったゲームセンターで取った景品だった。なかなか取れずに躍起になって取ったくせに、酔いがさめてみたら何があんなに魅力的だったのか不思議なくらいにもてあまし、正樹に押しつけてきたのだ。
正樹は普段からバッグや鍵に小さなマスコットキーホルダーをいくつもぶらさげているのでちょうどいいと思われたのだろう。たしかに正樹はそういう可愛いものが好きだが、押しつけられたマスコットは残念ながら彼の好みから若干外れていた。可愛ければ何でもいいというわけではないのだ。
大した場所も取らない程度のささやかなものだが、どうしたものかとリビングで眺めているところに春司が大学から帰ってきた。マスコットを手のなかで揉みながら「お帰り」と言えば、「ただいま」と朗らかな調子で返事がある。
手を洗い、上着を脱ぎ、はぁとひと息つくまでのルーチンの間、春司の視線はされるがままのマスコットに注がれていた。
「シュンちゃん、これ、いる?」
「えっ、いや、えっと、」
随分と注目するものだから、つい訊いてみれば、春司は途端におたおたと動揺した。普段は正樹が料理中に炭を錬成しても寛容に笑っているような呑気さであるのに、急にそんなリアクションをするものだから正樹も驚く。
「あーあー、ごめん。こんなのもらっても困るよね」
「いや、そんな、そういう意味じゃ……ごめん……」
「いやいやいや、こっちこそごめんなさい……」
ふたりそろってマスコットを挟み、互いにしゅんと視線を落とす。
「……えっと、」
居心地の悪い沈黙を破ったのは、春司のほうだった。
「……それ、捨てるのか?」
「えっ、うーん……捨てるのはなあ……シュンちゃんが嫌じゃなければ、そのテレビのわきに置いたりとか──」
「全然かまわないぞ!」
たった数秒前までしょぼくれた仔犬のようだったのに、がばりと前のめりになって何度も頷く。
「わ、わかった、わかったから……」
その食い気味ですらある反応に圧され、手乗りサイズのマスコットは共用スペースにあるテレビの横が定位置となった。
気がつくと、犬か猫か、下手したらネズミかもしれないぬいぐるみに春司の視線は釘付けになっている。そういうときの彼は困ったような緊張したような面持ちでいながら、新しい玩具を前にした子供のような目の色をしていた。
「シュンちゃん、それ、そんなに気になる?」
我慢しきれず、そう声をかけたら、春司は大袈裟に肩を跳ねさせた。
いつかみたいにおろおろと「いや」とか「うん」とか曖昧な言葉を繰り返し、正樹のほうがいたたまれなくなってくる。
「シュンちゃんが嫌なら俺の部屋に置くけど」
「いや、あの、嫌なわけじゃなくて……」
視線が忙しなく部屋のあちこちを走り回ったかと思うと、床に落ち着き、ごそごそと正座する。相手のあらたまった気配に正樹も姿勢を正したが、春司は変わらず床に目を落としたままだった。
「嫌な、わけじゃなくて……落ち着かないが……」
どういうこと、と正樹が首を傾げると、春司も鏡のように首を傾げた。
「うちの実家には、そういうものがなくて……違和感があるというか……不思議な感じがして……」
言葉を手繰るようにゆっくりと話す春司に、正樹は促すように相槌を打つ。
「気を悪くさせるつもりはないんだが、マサがああいうお洒落をするのも物珍しくてつい見てしまう……」
訥々と話しながら項垂れていく春司に対し、正樹こそなんだか申し訳ないような気持ちになってくる。
確かに正樹がスキンケアをしていたり、レディースものを着ていると興味深そうに視線をよこすことは多かった。今時男だってメイクするし、ファッションだってジェンダーレスは珍しくないと伝えれば、そういうものなのか……と不思議そうにしていた。
「そんな恐縮しないでよ、別に気にしてないし」
途端、春司ははっとしたように首を振った。
「その、化粧や格好そのものが珍しいんだ! マサが変わってるという意味では……いや変わってるかもしれないが……」
「どっちなの」
ふはっと吹き出した正樹はそのまま暫く肩を震わせて笑っていた。
昨今、男の化粧もジェンダーレスなファッションも増えてきたとはいえ、好奇の目を向けられることはまだまだある。誰に何を言われようと正樹は自分のファッションをやめようとは思わないし、春司の視線を不快に感じたこともなかった。
困ったように眉をさげる春司に向ってぐいと例のマスコットを突き出すと、彼は声もなく仰け反った。
「噛みつきゃしないって。まさか怖いの?」
「いや……うーん、怖い……怖いのか……? 実家にいた頃はそういうものに触れる機会がなかったから……どうしていいかわからないというか……」
「そんなに馴染みがないの?」
アニメの可愛いキャラクターとか、興味なかったのかと尋ねれば、春司は笑おうとして失敗したような表情を浮かべた。
「興味がないというより、興味をもつと、男がそんなものに現を抜かすなと怒られたんだ」
仰天した正樹が「えーっ」と声をあげれば、春司はうんうんと頷く。
聞くところによると、男らしくあれ、という昭和もかくやという父親の教育方針のもと育ってきたらしい。高校までは勉強と部活ばかりの生活だったそうだ。
息子が母の服や化粧品に興味を持とうが、はじめてお小遣いを貯めて買ったものが子供向けのコスメだろうが、世間さまに迷惑をかけなきゃ好きにしなさいという親に育てられた正樹には衝撃的だった。あまりにも生きてきた世界が違う。
天文部で茶菓子片手にのんびり過ごしてきた正樹に対し、春司は部活は父親の指示で野球部にはいっていたが、ずっと二軍だったそうだ。見せてもらった当時の写真には、日に焼けた坊主の春司が同じように坊主のチームメイトたちとはにかんだ笑みで写っていた。体格こそ恵まれているが、おおらかで争いごとが苦手な彼には苦痛のほうが大きかったのではないだろうか。そう尋ねたところで、春司は困ったような笑みを浮かべるだけだろうが。
「怒った父はまさに雷親父でな……家には一切ぬいぐるみの類はなかったし、外でもあんまり目にいれないようにしていたんだ」
女きょうだいでもいたら違ったかもしれないが、あいにく春司には三つうえの兄がひとりいるだけだった。
「男らしいって?」
つい、そう問えば、春司もなんだろうなぁと首をひねった。
「たくましさとか、強さのことかなあ」
アニメや漫画も小さなうちしか許されなかったし、見ていいものも父が選んでいたのだとか。もはや正樹には想像もつかない世界だったので、ひたすら単調な相槌を打つことしかできない。
「本当は汗水たらして戦うヒーローモノより、メイク道具で変身するお洒落な女の子たちの出てくるアニメのほうが気になってたんだ」
そう微笑んだ春司は、困惑と羨望の混ざった子供の顔でテレビ横のマスコットを見た。そこに潜む寂しさを感じ取った正樹は眉根を寄せる。
最近は男性向けコスメも増え、ファンシーで可愛らしいキャラクターグッズを身につける男だって珍しくはない。もう手を伸ばしたって誰もとめやしないのに、春司は後ろ手を組み、離れたところから羨望の眼差しを向けるばかりだ。
そもそも、手の伸ばし方を知らないのかもしれない。
マスコットの蛍光灯を反射して光るビーズの瞳より輝く双眸をしながら、決して触れようとしない同居人を、正樹はやるせない気持ちで眺めた。
正樹はやると決めたらやるタイプだ。
手始めに渡したのは、ゲームセンターで取った片手サイズのぬいぐるみだった。何気なくリビングに置いておくと、やはり春司はよく見つめていたし、わざと邪魔になるようなところにおいておけば、退かすついでに指先でそっと頭を撫でたりした。
次はぬいぐるみ型のクッション。ふたり分買って、プレゼントだと言って渡せばひとの厚意を無下にできない春司は恐る恐るといったようすで正樹の真似ながら使ってくれた。大雑把な正樹よりずっと大切に使うので、同じ時期に使い始めたにもかかわらず正樹のクッションのほうがくたびれて形がふにゃふにゃしている。
キャラクターのぬいぐるみがスリッパになっているやつは失敗だった。踏むのに抵抗があるらしく、正樹が履いているのを見るだけで悲しそうな顔をする。正樹の胸まで痛むため、スリッパは現在、部屋の隅でインテリアとなっている。
服も駄目だった。正樹が自分用に買ってきた洋服を整理しているのに居合わせた春司が「可愛いデザインだな」と褒めてくれたので、一着いるかと訊けば、丁寧に辞退されたのだった。でも戸惑うことなく自然に「可愛い」と言えるようになったのは大きな進歩である。
そうやって手を変え品を変え、失敗と成功を繰り返しながら、可愛いと思うものを増やしていった。最初は眩しそうに見つめるばかりだったのが、今では可愛いと呟きながら抱きしめるまでになったのだ。警戒心の強い野良猫を慣らしていくような地道な努力だったが、目や口元をとろかして可愛いものを抱きしめる春司を見ていると感慨深いものがある。
春司がのろのろとぬいぐるみに埋めていた顔をあげて、はあ、と深く息を吐いた。
満足そうな表情のまま、中途半端になっていたジャケットを脱ぐ。
ふと正樹と目が合うと、照れくさそうに眉をさげる。
「風呂、行ってくる」
「ん。ごゆっくりー」
そそくさとリビングを出ていく背中を見送り、置いていかれたぬいぐるみに手を伸ばす。
ずっと抱きしめられていたウサギはほんのりとあたたかく、腹にはへこんだ跡が残っていた。ぐにぐにと揉みしだくとまた丸いフォルムへと戻ったが、春司から移ったぬくもりはまだ残されている。
ウサギを抱え、頭に顎をのせると柔らかな弾力に受けとめられる。
正樹は可愛いものや綺麗なものが好きだ。好きなものを好きだと言い、気の赴くままに楽しみたい。そうすると胸が浮つくような、ささやかだけれど幸せな気持ちになる。
そして正樹はそういう気持ちを誰かと共有したいタイプだった。嬉しいとか、楽しいとか、なんなら悲しいも悔しいも、他人と話して盛りあげて昇華させたい。
それはSNSでもいいけれど、せっかく目の前に友人がいるのだ。当然、春司にもそういう幸せな気持ちを味わってもらいたいと思う。押しつけになってしまわないか少し不安だけれど、可愛いとぬいぐるみを愛でる彼は幸せそうだから、きっと大丈夫。どうせ本当に嫌だと思えば丁寧な口調でもってしっかり断ってくるひとなのだし。
シャワーのざあざあと降り注ぐ音が聞こえてくる。壁が薄いのですぐにシャワーを使っているのも、湯船に浸かったタイミングもわかってしまうのだ。
部屋をぐるりと見渡せば、これまでにそろえた可愛いものに囲まれている。きらきら、ふわふわしたものたち。正樹にとって、楽しさや幸せの象徴たち。それらをおそるおそる抱き締め、ふにゃんと笑顔を浮かべる同居人。
彼が好きなものを好きだと胸を張って言える日が来ればいい。
「お前たちもそう思うだろ?」
白々とした蛍光灯のした、ぬいぐるみたちはただ愛らしくそこにいる。
<終>
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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