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【小説】海辺の町にて陽炎の告白

 息を吸うたびに、熱された潮と錆が肺の隙間を埋める。じわじわと茹でられていくような気怠さが始終まとわりつき、私はこの季節が最も苦手であった。
 それでも私は色濃い影をともに、とぼとぼと閑散とした海辺の町を歩く。切らした煙草を買いに行くという、或るひとによっては心底くだらぬ、また或るひとによっては切実で同情に値するであろう目的のためにである。

 ろくに日陰もない道を歩いていると、ふと鼻先を嗅ぎ慣れぬ空気が掠めた。
 湿った土と苔むした青いにおい。この町に染みついた潮の香とは対照的な、薄墨のような森閑としたにおい。

 驚き、自然と顔を向けた道の先には青年が立っていた。
 狭い町なので、たいていの人間とは顔見知りであったが、その青年にはまったく見覚えがなかった。旅の者であろうか。
 荷を背にし、身につけた衣服も靴も長く使っているのか遠目でも草臥れているのが見て取れた。首にかけた手拭いで滲む汗を拭きながら、途方に暮れた表情で視線を彷徨わしている様子がどうにも落ち着かぬ。

 つい、じいっと見つめていると、不意に青年と目があった。
 左の目許に泣き黒子のある彼は、少しの迷った素振りをしたのち、意を決したようにこちらへとやってくる。

「やあ。すまないが、俺の兄を見ていないだろうか」
「お兄さん、ですか」

 ああ、と青年が首肯する。
 またふわり、と森の香がした。青年からは海のねっとりしたにおいとは対照的な、清々しい冷たい土と草木の気配がする。

「我ら、兄弟で旅をしているのだが、途中ではぐれてしまって」
「申し訳ないが、それらしいひとは見ていないな」
「そうか……」

 あからさまに気落ちした彼に、こちらの罪悪感が刺激される。
 あまり他人に深入りするものではないが、かといってこのまま知らぬ存ぜぬと立ち去るのも気まずいものがあった。

「もしお兄さんを見かけたら、あなたが探していたとお伝えしよう」
「そうか、それは助かる。兄はここに黒子があるんだ」

 青年はそう言いながら、右目のしたを指さした。兄弟で逆の位置に黒子があるらしい。

「承知した。この町は小さいから、あなたのお兄さんがいたらきっとすぐにわかるだろう」

 私が約束すると、彼は先ほどよりも表情を明るくさせ、流れる汗を拭いながら去っていった。

 当初の目的通り、私は煙草を買った。
 だらだらと汗を垂らしながら、わざわざからだを害する嗜好品に金と時間を使うこの瞬間、私は最も詮なく愚かで高尚な感情を抱く。幼馴染などはなんと阿呆なことかと呆れてくれるが、私からすればあちらの古書収集癖も大概だと思う。集めた黴臭い古書のせいで己の寝る場所もないような人間に、こちらばかりが馬鹿にされるようないわれはないのだ。

 煙草屋の親父の日に焼けた手に小銭を渡しながら、私はあの泣き黒子の青年を思い出した。

「親父さん、このあたりで右目に泣き黒子のある男を見なかったか。どうやら旅の者らしいんだが、相方とはぐれてしまったらしい」

 親父は煙草の箱と釣りを差し出しながら、ううむと唸る。

「今朝がた、子供なら見たよ。右目に泣き黒子のある子供だ」
「子供か。私が会った弟のほうはもう成年なんだが」
「じゃあ違うなあ。このへんでは見かけん顔だったが、まだほんの子供だったから」

 私は親父に礼を言い、再び閑散とした町を歩き出した。
 潮風のせいで錆びた鉄がむっと薫る。
 頭上からも足元からもぎらぎらと熱されて、脳みそが蒸発してしまいそうだ。

 念のためいつもより周りに目をやりながら帰り道を行くが、それらしい人影はなかった。
 陽炎がゆらゆらと立ちのぼり、視界を霞ませる。

 ただそれだけ。それだけだったはずが、はっと深い常磐色の気配がした。
 あの左の目許に黒子のある青年がまとっていた薫りによく似ている。私はつられるようにその木漏れ日の気配を追った。

 次から次へと吹き出す汗を拭いつつ、堤防へと辿りつく。
 高さのある堤防のあちら側には、銀色に波立つ海が延々と広がっていた。
 建物で遮られていた潮の香が直接肌にはりつき、ざあぁん、ざあぁん、と波の音が鼓膜を震わせる。

 風雨に晒されて色を変えた堤防には子供がひとり、座っていた。
 大太鼓のような波音だけでも砕けてしまいそうなほどに華奢な体躯をしたその子は、ぼんやりと海を眺めている。

 もしかして、親父が言っていた子供であろうか。
 私は子供に近づいた。静謐な木々の気配はこの子供からしている。

 近づく私に気がついた子供が振り返る。想像した通り、その右の目許には黒子があった。

「もしかして、あなたには弟がいるのではないか。あなたによく似た、左目のしたに黒子のある」

 子供はゆっくりと瞬きをした。
 それから、やはりゆっくりとした動作で頷いた。その目は凪いでいて、まるで古木のような静けさを湛えていた。

「うん……きみの言う通り、私には弟がいる。賢くて可愛い、自慢の弟だ」
「その弟さんが、あなたを探していた。早く行っておやりなさい」

 すると彼は困ったように首を傾けた。その途方に暮れた表情は弟にとてもよく似ていた。

「あの子が望むから、私はあの子の兄になったのだけれど……私がいては、あの子はひとの世で普通に生きることができないんだ」

 ぬるくざらついた波の音の合間に、梢がささめくように彼は語った。

 もとは名のない妖ものか、はたまた亡者の残滓だったそれは、まだ幼かった青年に乞われた。己が兄になって欲しい、と。
 それは幼い願いを聞きいれた。彼の姿を真似て、望まれるままに兄になってやった。

「もはや、もとが何であったのか思い出せない。今の私は、あの子の兄でしかない」

 翳した手は陽炎のように揺蕩い、青い空が透けていた。

「あの子はとても寂しがりやで、憐れで、だから私はあの子の兄になってやったんだ。でも、それは間違いだった」

 いつまでも見目の変わらぬせいで、ひとところに留まることができない。
 自身がいては、あの子はひとの世で暮らせないのだ。

 弟より小さな兄は、そっと目を伏せた。

「可哀そうに。あんなに寂しがりやなのに、私のせいであの子はずっとひとりぼっちだ」

 だから、解放してやろうと思ったんだ。

 両手を握りしめて告白する彼は儚く、薄暗い森の木陰のようであった。
 灼けつくような太陽光に晒されても彼の肌は涼やかで、汗のひとつも滲まない。
 ただただ、憂いのある木々の香を漂わせ、伏せられた薄い瞼には青い血管が透けている。

「……でも」

 思わず私がこぼした言の葉を、彼は逃しはしなかった。視線だけで、何と問う。
 だから私は熱された酸素を吸い、意味をのせて吐き出す。

「あなただけが、あのひとにとって兄なのだろう」

 私のこめかみから、つう、と汗が伝い、地面に落ちた。
 見あげた子供は今にも真夏の日射しに溶けてしまいそうだった。

「私だけが……」

 そう呟くと、子供はすっかり黙りこんでしまった。
 むつかしい表情で祈るように組んだ手に目を落としている。

 私の頬を擦る髪はべたついた潮風にかき回されてごわついていたが、目の前にいる子供の髪はいつまでもさらさらとそよいでいた。
 まるで一枚の絵画を見ているような気分になって、私はその場から立ち去ることも、話しかけることもできなくなる。

 波の砕ける音だけが私たちの間に満ちていた。

「兄貴」

 潮騒ばかりの空に、青年のよく通る声が響き渡った。

 私たちが揃って振り向くと、左に泣き黒子のある青年がこちらへと駆け寄ってくるところであった。
 顔を赤く火照らせ、息を切らした青年はもう一度「兄貴」と呼ぶと、背伸びをして防波堤に座る子供に抱きつく。

「どこに行っていたんだ、兄貴。探したんだぞ」
「……それは手間をかけさせたね。少し、海が見てみたくて」
「ああ」

 兄の言い訳に、弟は納得したように頷く。

「俺たちは海を見るのははじめてだものな。でも、置いていくのは酷いぞ」
「そう……そうだね。そうだったね」

 小さな兄が、自分を覆うように抱く弟に腕を回した。汗の滲むその背の布地に、ぎゅっとしわが寄る。

 暫くそうして動かずにいたかと思うと、弟の肩越しに兄が私へと顔を向けた。

「きみも、すまなかったね」
「いいえ。ちゃんと再会できてよかった」

 兄はふっと両目を細めると「ありがとう」と言った。
 弟の背に添えられた手はもう透けてはいない。
 私は「よかった」と、もう一度繰り返した。

 手を繋いだ兄弟は、清い薄墨の香りを連れて去っていった。

 私は安堵の溜め息を吐きながら煙草を一本取り出す。火をつけるとくすんだ煙が空にたなびき、海では銀の波が誘うように光っていた。
 ざらざらと耳を撫でる潮騒に、ふうと煙を吹きかける。紫煙は忽ち潮風に紛れ、顎先を伝った汗が黒々とした影法師にぽつりと落ちた。

 あの清廉な告白は陽炎のように揺らめき、じきに私の記憶からも消えるのだろう。そう思うと、まとわりつくこの煮詰まった潮と錆のにおいも何だか切ないもののように勘違いしてしまいそうであった。

<終>


最後まで読んでいただきありがとうございました。
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