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【小説】ヒーローに口無し、白昼夢

 久しぶりに戻ってきた地元はよく見知っている風景でありながら、その実少しずつ変化しているので、パラレルワールドにでも紛れこんでしまったような心細さを覚える。肌で感じる初夏の陽気は当時と変わらないのに、目で見る情報が記憶と異なっていて噛みあわないのだ。

 柳沢やなぎさわは手持ちの定期券を兼ねたICカードを改札に当て、聞き慣れた電子音に少しだけ肩のちからを抜いた。

 建てなおされた駅舎にはもう根の錆びた鉄柱はなく、電光掲示板は発色のよいものになっていて、券売機はICカードに対応した最新機種に置き換わっている。駅から直結の総合スーパーのほか、メジャーな本屋、ファッションブランド、カラオケにファミレスと看板が並び、中学や高校当時の同級生たちはどれだけうらやましがるだろう。
 その一方で、ビルの空室が増えていたり、小さな商店が駐車場や空き地になっていたりする。もうどんな店があったのか思い出すことは難しく、テナント募集の広告は日に焼けて色褪せ、うら寂しさを演出していた。

 薄暗くのっぺりした空間の窓に、自分の姿がうっすらと映っている。
 夏の気配に負けて脱いだ漆黒のジャケットに、揃いのスラックスはまだ折り目がしっかりと刻まれている。ワイシャツはまじりけのない白だが、垂れさがるネクタイはやはり黒一色。窓に映る喪服を着た半透明の姿は、自身のほうが幽霊なのではないかと錯覚させるような非現実的な感覚を孕んでいた。

 大学進学を機にすべてを捨てるように出ていった故郷は久しぶりに降り立ったところで、柳沢に対してどこまでも無関心である。そしてまた、柳沢もそんな故郷に対して無関心であった。
 もう二度と戻ることはない。そう思っていた土地に柳沢が立っているのは、友人の葬式に出るためだった。

 滅多なことでは連絡をとらない実家から届いた訃報であった。就活と卒論作成の合間に捻出した時間、ということにして式にだけ出席し、実家には寄らずに帰る算段である。

 故郷という響きには鷹揚で静かな田舎のイメージがあるが、柳沢が中学の途中から高校までを過ごしたこの街は田舎すぎず、かといって都会とも言い切れない中途半端なところだった。今でこそ駅前だけは賑わいを見せているが、駅から離れればすぐに高い建造物は失せ、どこか泥臭いような雰囲気が漂う。
 とくに目的地である友人の家は古くからその土地に住むひとびとが集まる地域にあるため、立派な平屋や戸建てが多い。
 駅から閑散とした印象の商店街を抜け、住宅地に囲まれた四つ辻に出たら赤い郵便ポストのある道に曲がって、あとは道なりに進んでいく。目的地が近づくにつれ、静かなざわめきが肌に伝わってきた。

 古めかしく立派な平屋の門には故人の名前がはいった看板が立てかけられている。『紺野こんのまひる』としかつめらしい字体で書かれた友人の名前はひどく他人行儀であった。
 紺野の家は表から見るばかりで、なかにはいるのは今回がはじめてだった。そしてこれが最後になるのだろう。
 寂しい、と表すには物足りない感情をもて余しながらジャケットを正しく着なおした柳沢は門をくぐった。

 下校の道すがら、毛先の不揃いなざんばら頭に指定のジャージ姿で半歩前を歩いていた紺野。笑うと眩しいものでも見たときみたいに目を細めて、にっと口角をあげるその表情は身長差ゆえにいつも少し見おろした先にあった。そのせいか紺野のことを思い出そうとすると、自然と目線が斜め下を向く。

 犬のようなひと懐こさと猫のような身軽さが同居したような性格だった。
 そんなひと好きのする性格のため友達が多く、葬式にもかつての同級生たちが多く訪れていた。

 つつがなく、型通りに厳かな式が終わったあとも、彼らは帰りがたいのか紺野の家の周りをたむろしている。
 紺野家の庭に植えられた梔子は花をつけはじめた頃で、陶酔を誘う甘い香りが喪服の集団の間に広がっていた。染みついた抹香の匂いと混じりあい、風にのって空へと抜けていく。
 覚えがあるような、ないような、喪服の集団は仲の良かった組み合わせごとに、さらに小さな集まりを形成している。

 どこにも属さず、ひとり梔子の陰に佇んでいた柳沢がすすり泣きと葉擦れの音へ何となしに耳を澄ましていたときだった。

「お前、もしかしてヤナギか!」

 黒い太めのフレームの眼鏡をかけた男に声をかけられ、柳沢はびくりと肩を揺らした。あからさまに驚かれながらも男はかまわず親しげな笑みを浮かべ、迷いのない足取りで寄ってくる。その身を包む喪服は柳沢のものと同様、新品らしいかたさが残っていた。

「覚えてねえ? 中学でおんなじクラスだった、桝田ますだ
「えっと……、」

 中学の同級生だという男は眼鏡のブリッジを中指でクイ、とあげた。
 その後ろで八重咲の梔子の白い花弁が揺れていて、思わずそちらへ逃げようとする意識を何とか目の前の男へととどめる。

「……ますだ……あ、学級委員の……?」
「そうそう!」

 桝田のよく通る声を聞きつけ、ほかの喪服もわらわらと集まってくる。

「うそ、柳沢なん? また背ぇ伸びてんじゃん」
「桝田、よくわかったな、ヤナギって」
「えー、だってぽつんと立ってるとことか昔と全然変わらんて」

 なあ、と振られ、曖昧に笑う。
 元同級生たちが懐かしげに話を広げていくが、残念ながら柳沢には桝田以外の区別がつかなかった。

「眼鏡やめたん? コンタクト?」
「ああ、うん、一応……」
「すっかりシティボーイじゃん。めっちゃデカなってるし」
「桝田はぜんっぜん変わらんなあ。眼鏡くらい変えれば? ヤナギみたいにコンタクトにしなよ」
「やだよ、俺、あれ目にいれんの苦手なんだって。竹内もそんな派手な頭になっちゃってまあ……」

 女三人寄れば姦しいというが、男ばかりであってもそれなりの人数が集まれば騒がしくなる。
 しめやかな式のあとだというのに、よくそんなに楽しそうにできるなと思いながら、学校の休み時間のような雑然とした騒々しさのなか、柳沢はただひたすら笑顔に似せた表情を浮かべていた。この盛りあがりに水を差すことができるほど、柳沢は図太い神経の持ち主ではなかった。かといって、諸手を挙げて迎合できるほどの胆力もなく、場の空気を壊さない程度に態度を取り繕う。
 それに、彼らの目許は潤み、うっすらと赤らんでいた。からからに乾いたままの己の両目や心を思えば、賑やかな同級生たちのほうがよほど紺野の死を悼んでいるようだった。

 薄情で淡泊だという自覚はある。そもそも柳沢はろくに当時のことを覚えていないのだ。クラスメイトの顔も、名前も、教室で起こった出来事も、行事のことも。だから適当に、当たり障りのない相槌を打つしかなかった。

 柳沢は中学二年生のときにこの地区の公立学校へ転校した。
 個々の性格、相性、趣味嗜好に関係なく、指定された地域に暮らす同じ年代というだけで集められた不自然な閉鎖空間。
 そのうえ、このあたりでは通学区域の関係で小学校が同じだった子供は受験をしない場合、そのまま同じ中学に進む。昔馴染みばかりのなか、柳沢だけが完全な部外者であった。
 さいわい露骨に陰湿な嫌がらせをされることはなかったけれど、かといって解けこむこともできず、柳沢だけが遠巻きにされていた。

 子供にとって集団生活で浮くことは死活問題だ。最初のうちは柳沢も柳沢なりに努力はしたつもりだったけれど、それが実を結ぶことはなかった。難しいことなど考えられないような、ほとんど本能だけで生きているような小さな子供であればもっと気楽に輪へと加われたであろう。しかし、中学二年生ともなるとすでに形ができている集団に飛びこむには一種の無謀さが必要であったし、迎えいれる側にも新たな刺激に対する好奇心とそれを受け止めるだけの余裕というものがなければいけない。

 歯車が一個噛みあわなかっただけで、すべてがずれていく。柳沢の歯車は噛みあわなかった。だから柳沢はいつまでも窓の向こう側の景色を眺めるような学校生活を送っていたのだ。

「そういや、ヤナギはさ、」

 誰だったか、派手なメッシュをいれた男がくちを開いた。愛称で呼ばれるほど親しかった覚えはないが、柳沢は何でもないような顔で続きを待つ。

「紺野と仲良かったよな」
「……うん、ああ、そうだな」

 ややあってから、柳沢は頷いた。

「だよな! いっつもつるんでたもんな、ヤナギと紺野って」

 風向きが変わり、青く甘ったるい香気がけぶった喪服の男たちの頬を、髪を撫でていく。
 不鮮明な居心地の悪さや嫌悪感を一時忘れた柳沢はもう一度素直に肯定した。

 転校生の洗礼として、休み時間ごとに誰かが席までやってきて新入りがどんな人間であるか探っていく。そこでうまく歯車が噛みあえば晴れて仲間になれるが、柳沢の歯車ではあわなかったので皆寄るだけ寄って去っていった。
 そうしてクラスの大半が転校生への興味を失って、それでもまだ頻繁にやってきたのが紺野だった。クラスの中心にいながら、気がつくと柳沢の席へするりとやってきて他愛のない話題を振り、ぎこちなく反応すればさらにそれを打ち返してくる。
 あの頃、窓枠を乗り越え柳沢へと近づいてきたのは紺野だけだったのだ。

「じゃあさ、なんか、こう、聞いてない?」
「おい、竹内」

 桝田をはじめ、幾人かが咎めるように声をあげる。

「……何を?」
「何って……、」

 竹内と呼ばれた男がぐっと顔をしかめた。
 自分から語りはじめたくせに、厭うような気配で声を潜める。

「紺野ってさ、交通事故だったじゃん。でも、自分から飛び出したって噂があってさ……」

 柳沢はくちを開けたものの、何と言っていいかわからず、結局すぐに引き結んだ。

「それ、俺も聞いた」
「あー……赤信号なのに横断歩道渡ろうとしたんだっけ」
「は? 信号も横断歩道もない道突っ切ろうとしたんじゃなかった?」

 同級生たちが隠れるようにして交わす会話を、柳沢は窓の向こうから茫然と眺めていた。
 梔子のつるりと光る緑の葉だけが目に刺さるような鮮やかさで、思わず目を眇める。

 抹香の匂いを含んだ風景は遠く、どうにも他人事のような感覚が剥がれない。事実、柳沢が黙っていても口さがない会話は滞ることなく、ひそやかに進んでいく。

「でも、噂だろ?」

 桝田の声が思いのほか近くから聞こえ、柳沢はハッと目を見開いた。

「誰も現場見たわけじゃないしさあ……ヤナギはなんか聞いてねえーの? 仲良かったんだし、それに近くに住んでたんだろ?」
「……いや……俺も、高校卒業してからは会ってなかったから……、」

 そう返すと、集まった視線から逃げるように俯いた。そうすると、視界にはいるのは艶のない革靴と乾いた地面だけになる。

 水分を失って白っぽくなった土塊を見おろしながら、今は亡き友人の姿を思い出そうとする。
 二十三歳という若さで世を去った紺野は、柳沢の頭のなかでは高校生で時がとまっていた。

 特別頭がよいか、悪いかのどちらかでないかぎり大半の生徒が同じ高校にはいったので、例に漏れず柳沢と紺野も一緒の高校に通っていた。

 黒の詰襟やセーラーで構成された群れのなか、紺野がいつも来ていたジャージの目に沁みるような群青のシルエット。高校創立当時から変わらないという黒のセーラー服と詰襟に対し、ちょうど柳沢たちが入学する一年前にリニューアルされたというジャージはどこかのスポーツブランドの商品みたいに洗礼されたデザインだった。中学のジャージも青かったが、腕や体側に沿って白いラインのはいった典型的なデザインで、高校のがお金かかってそうだと紺野が笑っていた。あの眩しそうな顔で、笑っていた。

 毎日のように駅で落ちあい、同じ電車に乗って同じ学校へ向かい、ふたりとも帰宅部だったのでクラスが離れてもなんとなく下駄箱の前で合流して帰った。紺野のほうがいつも半歩先を歩く。中学のときからずっとそうだった。あの頃はまだ生々しい記憶でありながら、もう同じ道を歩いていた人間はこの世に存在しないのだと思うと夢でも見ていたかのように淡くなる。

 柳沢が県外の大学を選び、紺野は地元に残って就職したために物理的に離れ、気がつけば連絡も途絶えて久しい。

 紺野が就職したのは高校にはいってすぐにバイトをはじめたローカルチェーンの喫茶店だったはずだ。真面目な勤務態度が褒められ、このまま就職すればと声をかけられて、向こうは冗談だったかもしれないけどノッてやったよと得意げに話していたのだ。
 まさか、紺野まで県外に出て、それも柳沢の通う大学からそう遠くないところに住んでいたなんて知らなかった。

 紺野の事故現場の具体的な場所についても知らないが、聞きたいとも思わない。もしよく使う道だったらと思うとよけいに戸惑われる。きっと、歩くたびに高校生のままの紺野の幻覚が見えるし、自動車がわきを通り過ぎるたびに足をとめてしまう。
 とはいえ、あそこだろうか、ここだろうかと逆に神経を尖らせてしまっているのもまた事実であった。
 そのうえ、街中や駅で紺野に似た背格好の人間がやたら視界にはいって仕方がない。訃報を聞いてから今日まで、何度死んだ友人の面影に振り返っただろう。

 まるで紺野の気配につきまとわれているようだった。幽霊そのものではなく、もっと形のない残滓があちこちに漂っている。まるで空気に混じる白妙の花の香りのように、目に見えなくとも強く存在を訴えるのだ。

「ヤナギも知らないかあ……」

 残念そうな野次馬根性の裏に安堵が見え隠れする。

 不謹慎とわかっていても、好奇心を抑えるのは難しいものだ。人間は元来知りたいという欲望をもつ生き物であり、それは時として生き残るための武器にもなるのだから。
 だが同時に、知らなくてよいことというのも存在する。知ったところで過ぎ去った時間も、失われた命も戻らない。ならば事実など知らないまま、悪意のない噂としてほどほどに消費し、四十九日経ったあたりですっかり忘れてしまったほうがいい。少なくとも、事なかれ主義である柳沢はそういう考えであり、わかったような顔をして同級生たちの会話につきあった。

 彼らの会話は死んだ同級生から各々の近況へと緩やかに変わっていく。

 幻の窓枠の向こうであらゆる感情が渦巻き、ざわめいていた。
 取り残された柳沢の耳は内容をとらえることができず、香りを運ぶ風の音ばかりが耳朶を撫でていく。
 日差しを吸収した漆黒に包まれた身体に熱がこもり、ひどく不快だった。

* * *

 まだ語り足りない風情の同級生たちと別れ、柳沢はひとり駅へと向かっていた。

 当初の予定通り実家には寄らず、メッセージだけ送って端末の電源を落とす。スラックスのポケットに滑りこませた物体は、意図的につながりを絶たれたために少しだけ軽くなった気がした。
 母と祖母は顔くらい出しなさいと文句を言うかもしれないが、父やまだ実家に残っている末弟は柳沢に対して興味などないはずだ。差し迫った連絡が来るあてもない。

 湿り気を含んだ生暖かい空気を割りながら機械的に足を動かす。黒一色のジャケットはとうに脱いで腕にあり、緩めたネクタイはかろうじて首にぶらさがっていた。

 来た道を戻り、また十字路に出る。地味な色合いの住宅が並ぶなか、投函口がひとつだけの四角いポストのぽつんと立つ赤が目を引いた。

 紺野のバイトがない日はこの十字路まで、コンビニで買った中華まんやホットスナックを片手に宿題や昨日やっていたテレビのことなど他愛のない話をしながら帰ったものだった。駅前と商店街のそれぞれに系列の違うコンビニがあって、その日の気分で選んでいたことまで覚えている。
 このまま右手へ曲がれば実家に行けるが、見なかったふりをして商店街があるほうへと進む。

 休日にしては人出の少ない商店街はうらびれた雰囲気を漂わせていた。大半の人間が駅前の総合スーパーを使っているのだろう。こうして昔ながらの風景は失われていくというモデルケースのようだった。

 かつて立ち寄ったコンビニだけが色鮮やかでよく目立つが、それ以外の店は外から見ると妙に薄暗く、暇すぎて居眠りでもしているみたいだ。しかしよく窓へ目を凝らすと、半透明な自身の姿の向こう側にレジで待機する店員がいたり、棚と棚の間を回遊する人影があるのだった。
 見慣れない人間が歩いているせいか時折彼らの視線が飛んできたが、明確に目があうことも、会話が発生することもない。同じ次元にいながら柳沢はどこまでも異質であり、何とも交わらないのだった。

 前髪のしたにうっすらと汗をにじませ、ただ黙々と歩く。

 静かに立ち並ぶ精彩に欠けた店々。
 ひび割れたコンクリートの地面と、そこからしぶとく顔を出す名も知らぬ野草。
 チリンと鋭くベルを鳴らすと同時にわきを走り去っていくママチャリ。
 反射的に視線だけで追いかけた自転車のさらにその先。

 はっと足がとまる。

「こ……、」

 軽やかに角へ消えていった群青のシルエット。

 馬鹿な、と冷静な自分が首を振る。あれは紺野じゃない。紺野の骸は焼かれ、今頃煙と骨になっている。よく似た姿の別人に懐かしさを重ねただけだ。

 チリン、とまた自転車のベルが鳴った。

 胸がざわつき、柳沢は地面を勢いよく蹴って駆け出した。

 ちがう、ちがう、ちがう。
 あれは紺野ではない。もう何度も勘違いをして、ほっとして、傷ついて、それでもまだ面影を追いかけてしまう。

 心臓が期待と不安で脈を打つ。

 木漏れ日のような淡いひかりが音もなく弾け、視界のあちこちでハレーションが起きる。

 どこを走っているのか、頭で考えるより早くからだが動く。
 重力は月となり、ただひたすら飛ぶように群青を追いかける。
 きっとあれも紺野ではない。でもとまることができない。
 今度こそ紺野かもしれない。

 群青に包まれた背、日光によって描かれた髪の艶、しなやかな若木のような四肢。
 あれは、ずっと見てきた、友人の姿だ。

 急に地面が硬さを取り戻し、重力が地球のものとなって、柳沢はつんのめるようにしてとまった。

 はっ、はっ、と熱く乱れた呼気がこぼれ、膝に手をつく。心臓が酸素を巡らせようと躍起になって、からだがバラバラになりそうなほどに痛み、柳沢はその姿勢のまま荒い呼吸を繰り返した。汗が吹き出し、肌をつうと流れ落ちる。

 しばらくそうしていた柳沢は呼吸を整えると、そろそろと周りを見回した。

 閑静な住宅街はざらついた灰色の塀に囲まれ、一切ひと気がない。やわらかいひかりがちらちらと瞬き、まるで知らない場所にでも迷いこんでしまった気がしたが、よくよく観察してみればどことなく見覚えがある。
 塀より高く覗いたくすんだ朱や暗い浅葱の屋根は、いつかの帰り道で見た色だ。
 まだはっきりとは思い出せないが、たしかに通ったことのある道だった。

 車道と歩道の白い境界線が剥げかけた道を、からだが動くのに任せて歩いていく。
 代わり映えのしない住宅街を進み、角をひとつ右に曲がる。
 そして現れた景色に、柳沢は言葉をなくした。

 視線の先、道の突き当りに建つ小さな駄菓子屋。
 昔ながらの飴色の外観に、店の入口の左手には古いデザインの四角いガチャガチャが二台並び、右手にはアイスケースが置いてある。ガチャガチャの隣に設置されているのは真っ赤なベンチだ。よくそこに並んで座り、コーラを飲んだり、アイスを食べた。

 誰と?
 紺野と。

 いつ?
 学校の帰りに。

 せりあがる懐かしさに、柳沢はゆっくりと駄菓子屋へ近づいた。

 駄菓子屋を囲むように生えた梔子が歓迎するように甘い香気を漂わせる。
 入口の引戸はぴたりと閉じられ、店内は明かりもついておらず、誰もいないようだった。窓越しにカラフルなお菓子の影がぼんやりと浮いている。
 仲良く並んだガチャガチャの中身は両方とも空で、片方の取手を回しても最後まで回らなかった。金をいれていないせいか、壊れているせいか、柳沢にはわからない。ただ、コインの投入口は錆びていて、もう長らく使われた形跡はなかった。
 アイスケースを覗きこんだが、ガラス戸は霜で曇っている。側面には広告がプリントされているが摩擦と日焼けによって判読不可能であった。

 どっと疲労を感じ、柳沢はベンチへ腰をおろした。こちらもぱっと見ただけではわからなかったが、経年劣化で赤い塗装がところどころ剥げている。

 ささくれが腿の裏に引っかかり、そういえばここに座るときは気をつけなければならなかったのだと思い出す。
 柳沢はささくれの存在を忘れて適当に座っては痛いと声をあげ、紺野はそのたびに笑っていた。

 白い花から打ち薫る甘さが疲れたからだを労わるようにまとわりつき、緑に輝く葉が影となって落ちる。
 重い溜め息が漏れ、柳沢は両手で顔を覆った。瞼を閉じると朱い視界でひかりが拍動するように点滅する。

 これまでの己の行動がひどく馬鹿らしく思えた。あんなに必死になって、ありもしない幻影を追いかけて──そもそも、死んだ友人の幻を見ている時点ですべてがおかしいのだ。

 帰ろう。

 そう思って目を開いたが、重たい泥が絡みついたように動けない。
 頭の芯が痺れてぼんやりとしたまま、かすかな葉擦れの音だけをともに項垂れる。

 どれだけそうしていたか、ふっと大きな影が差した。
 人間ひとりぶんの体温が立っている。

「ヤナギ」

 懐かしいアルトの響き。そうだ、自分をヤナギと親しく呼ぶのはこの声だった。

 ばっと勢いよく顔をあげると思った通り、紺野が眩しそうに目を細め、口角をにっとあげた表情で柳沢を見おろしている。

「……こ……コンちゃん……」

 紺野はスーツを着ていた。黒のシングルスーツに明るいグレーを基調としたストライプのネクタイを締めていて、だから群青の背を探しても見つからなかったのだと気づく。

「久しぶりだね、ヤナギ。変わりなさそうで何より。あ、でも眼鏡はやめたんだね」

 言葉のわりに、まるで昨日ぶりに会ったような気軽さで紺野は笑った。
 そしてアイスケースのほうへ移動すると、ガラス戸を開けて手をつっこんだ。がさがさとなかを漁りながら、「ヤナギは何食べる?」などと訊いてくる。

「コンちゃん!」

 慌てて立ちあがった柳沢が背後に近づいても、紺野はアイスの吟味をやめない。

「ソーダとミルク、どっちがいい?」
「それどころじゃ、」
「ヤナギはソーダが好きだったよね」

 一本ずつ包みにはいったアイスキャンディーを手にし、青いほうを柳沢へと押しつける。紺野は昔からそうやってアイスキャンディーや駄菓子を柳沢のぶんまで選んでいた。これといってこだわりのなかった柳沢は毎回それを素直に受け取っていて、今もつい癖で青い袋を受け取ってしまう。
 紺野は手早く自分のぶんである包みを破り、白いアイスキャンディーの先に噛みついた。

「コンちゃん!」
「何?」

 しゃく、と冷たい白をくちのなかで転がしながら紺野が首を傾げる。
 平然とアイスを食べる友人と片手にもった袋に対し、柳沢は眩暈を覚えた。

「お金! お金払ってないのに、」
「ああ……大丈夫だよ。だって払う先なんてないんだし」
「──え、」

 しっかりと閉じられた駄菓子屋の扉を見やり、あ、と間の抜けた声を漏らす。

 ここの店主は物静かなおばあちゃんで、子供たちはトネさんと呼んでいた。本名は知らないが、紺野なら知っているかもしれない。紺野はトネさんとも子供たちとも仲が良く、駄菓子屋の景色に馴染んでいた。

 たいていの子供たちは中学にあがる頃には離れていったが、紺野は週に二、三度は通い、柳沢も毎回律儀につきあってすっかり常連となっていた。ベンチを占領する大きな子供はさぞかし邪魔だったろうが、腰の悪いトネさんに代わって荷物を運んだり、金の数えられない小さな子供を手助けしてやったおかげが咎められることもなく、放課後はふたりでいりびたっていたものだ。
 柳沢は当時から背が高く、電灯の交換を手伝った覚えがある。それも、店のではなくトネさんの住居のだ。随分信用されていたのだと、大人になった今、しみじみと思う。

 柳沢はくらくらとした酩酊感に額をおさえながら、飴色のこじんまりとした建物を見つめた。

 高校になっても部活にはいっていないふたりはこの駄菓子屋で放課後を過ごしていたが、とうとう二年生の春、体調を崩したトネさんが娘夫婦のもとに居を移すことになって店を閉めることになったのだ。
 継ぐ者もいない店は解体され、柳沢の知る限りでは駐車場になったはずだ。梔子の木もすべて切られてしまった。

「夢だよ、夢」

 昔ながらのアイスキャンディーを片手に紺野がうたう。
 ひかりがちらついて、その表情は笑っているようにも泣く寸前のようにも見えた。

「難しいことはなしだよ、ヤナギ。だってこれはヤナギの夢なんだから」

 そうか、夢なのか。
 だからなくなった駄菓子屋の前で、なくなった友人とのんびりアイスを食べようがおかしなことではないのだ。

 柳沢はふっと頬を緩めた。夢であるなら、意固地になる必要はないじゃないか。

 いつかのようにふたり並んでベンチに座る。今度はちゃんとささくれを避けて座り、アイスキャンディーの包みを開けた。ひやり、と冷気が漂う。

「あ、うま」

 しゃくり、と淡い青を噛み砕くと想像通りの爽やかな甘さが広がった。新鮮さはないけれど、安心感がある。

「久しぶりに食べると美味しいよね」

 紺野はひとくち食べるごとに口内でゆっくりと溶かすようにして食べる。一方の柳沢はしゃくしゃくと景気よく食べるので、先に食べはじめた紺野より早くアイスが減っていく。飲み物も食べ物も、いつも柳沢のほうが食べ終わるのが早かった。

 背もたれに寄りかかると、ぎっと抗議の音を立てる。
 裸になったアイスの棒には『はずれ』と印刷されていた。

「残念」

 まだ半分残ったミルク味のアイスを舐めながら紺野が言う。

 夢なのだから、都合よくあたりが出てもいいだろうに。でも、当時もあたりなどほとんど出なかった気がする。紺野はしばしばあたりを引いていたが、アイスは一本食べたら十分と言って居合わせた子供にあげてしまうか、柳沢に押しつけるかしていた。

「あたりは出ないものって思ってるから出ないんだよ」

 得意げな紺野は冷たく濡れた唇を自身の舌でなぞった。

「行儀わる」
「もう注意するひともいないよ」
「……俺がいる」

 応答はなく、沈黙と梔子の香りが場に満ちる。
 さわさわと葉が揺れ、日射しがゆらゆらとひかりの絵を描く。
 気まずさに柳沢がはずれの棒に目を落とした。

「ヤナギは、大学どう? ちゃんと友達できた?」

 何でもないように尋ねる紺野を、前髪の隙間から覗う。赤い舌と白いアイスのコントラストが鮮明で、柳沢はすぐにまた視線をさげた。

「……ぼちぼち」
「それって、いいほうに受け取って大丈夫なやつ?」
「まあ……いいんじゃない」
「ヤナギのそういう適当なとこ、変わんないなあ」

 紺野の白い歯がアイスの先端を齧り取る。

 そうかな、と柳沢は首をひねる。

 少なくとも頭の出来も得意不得意もばらばらな人間が機械的にひとつの箱に閉じこめられていたときよりも、同じものを学ぼうと自ら選択した者たちの集まりである大学のほうが息がしやすかった。

「中学や高校ほど集団で行動することを強制されないし、楽かな」

 各々が好きなことをしているので、ぼんやりと窓の向こう側を眺めていたとしても悪目立ちしない。
 第一、大半の学生がまっさらな人間関係からスタートするのだ。友人をつくろうと積極的な人間は多かったし、一年次の授業はディベートやグループ学習が中心だったため学生間の交流も自然と盛んになる。そのおかげで夏休みになる前には、一緒に昼食をとったり、課題について相談するくらいに親しい同期生ができていた。それを友達と称するには若干の気恥ずかしさがあるのだが。

 コンちゃんは、と返そうとしてくちを噤む。

 今さら何を聞けばいいというのだろう。隣にあるのは柳沢が想う残像に過ぎないのに。

 幻覚と片づけるには生々しい胸の疼きを払うようにベンチの後ろを振り返った。そこには記憶の通りゴミ箱があり、アイスの棒を投げいれる。
 するともう手持無沙汰になってしまい、柳沢はジャケットのポケットを探って煙草を取り出した。

「いい?」
「どうぞ」

 好きに吸えばいいのに、と紺野が笑い交じりに融けてきたアイスを舐める。

 どうせ柳沢の夢なのだから彼の好きにして問題ないのに、近くに誰かがいると習慣的に伺いを立ててしまう。

 自嘲を咥えた煙草で誤魔化し、使い捨てのライターで火をつける。最初のうちは情けなく咽ていたものだが、今ではすっかり手馴れてしまった。
 備え付けの家具しかないワンルームでひとり、長い夜をやり過ごすために手を出してから惰性で吸い続けている。重すぎなければ銘柄にこれといったこだわりはなく、煙を吸って吐くという行為さえできればよかった。喫煙の頻度はまだ低く、ひと前で吸うことも滅多にないために、大学でも柳沢が喫煙者であることを知らない人間のほうが多い。
 金はかかるし、健康にもよくないとわかってはいるが、やめる理由もなかった。そうやってやめどきを得られないまま、漠然とした心細さを紫煙に紛らわせるために煙草をくゆらす。

 ふう、とくちから空へとのぼる煙を紺野が視線だけで追いかける。

「いっちょまえに煙草なんて吸っちゃって、似合わないの」
「ほっとけ」

 自分でもうっすらそう思っているからこそ、柳沢はむっとした表情で灰を携帯灰皿へと落とす。

「でも、喪服は似合うね」
「喪服が似合うって、たぶん褒め言葉じゃないよ」
「だって黒が似合うんだもの。喪服も似合うよ」

 高校のときも、紺野は黒一色の詰襟姿の柳沢を「黒だから似合うね」とことあるごとに誉めそやしていた。今でも柳沢の私服に黒が多いのは紺野の影響があるのかもしれない。

 棒に残った最後のひと欠片が、紺野のくちのなかへと消える。細い喉を通り、もうないはずのからだへと氷菓子が落ちていく。
 紺野は食べ終えたアイスの棒をもとの包みに戻し、以前ならぽきりとまっぷたつに折る癖があったのにそうはせず、手のなかでいじっていた。

「……何だったの?」
「何が?」

 はぐらかすように紺野がわざとらしくすましてみせる。

「コンちゃんのくじ」
「あたりだったよ」
「ほんとに? 見せてよ」
「やーだよ」

 まるきりいたずらっ子の顔でにやりと笑い、柳沢もつられて口角をあげた。

 しばしふたりはまだ制服とジャージを着ていた頃のようにじゃれあっていたが、当時はなかった煙の焦げた臭いにふっと我に返る。

 浮かんでいた笑みを沈め、柳沢は煙草を吸った。先がちりちりと緋色に燃え、毒煙を肺へと迎える。

「……コンちゃん」
「うん?」
「なんで……死んじゃったんだよ」

 紺野は例の眩しそうな表情で笑うばかりで何も答えない。

「こっちに残ってたんじゃないのかよ。なんで近くにいたって教えてくれなかったんだよ」

 指に挟んだ煙草の煙が細く空へ逃げていく。

 紺野は笑って答えない。答えられない。だってこれは柳沢の夢なのだから、彼の知らないことなんて答えられるわけがないのだ。

 純白の甘い香りが頬をさすり、紫煙の苦みがちくちくと目を、鼻を、喉を、胸を刺す。

「コンちゃん……どうして近くにいるって、教えてくれなかったんだよ……言ってくれたら、俺は──」

 会いに行ったのに、という言葉は喉の奥で詰まってしまった。もし紺野から近くに越してきたと言われたとして、自分は本当に会いに行けただろうか。
 それでも──

「……近くにいるって、教えてほしかった」
「うん」
「死んじゃう前に会いたかった」
「うん」
「まだ、話したいことがあったのに」
「うん」
「死なないで、ほしかった」
「うん」

 柳沢の声が湿っていく。
 紺野が死んでから、はじめて目の奥に熱が灯った。もてあました火照りをさまそうと瞬きをする。

 それを見た紺野は困ったように眉をさげ、黒目勝ちの瞳をふらりと彷徨わせた。

 ひと呼吸ぶん、蝶が飛ぶ軌道をなぞるように漂った視線は正しく柳沢のもとへと戻り、紺野は真剣な面持ちとなってくちを開く。

「ヤナギのほうから連絡してくれればよかったじゃん」

 今度は柳沢の瞳が揺らぐ番だった。
 紺野は責めるというには優しく、慰めるというには厳しく言葉を続ける。

「僕を置いていったのはヤナギのほうだよ。ヤナギが好きにしたように、僕だって自分の好きなようにするよ。ねえ、」

 じりじりと煙草が端から灰になっていく。

「待ってただけじゃだめだって」

 わかってたでしょ?

「──うん」

 子供のように柳沢が頷き、紺野はすう、と微笑む。

 この紺野は柳沢のつくった幻影だから、彼が思ったことしか言わない。突き放しきれない口調に自分の弱さをいやというほど感じさせられる。

 馥郁とした甘さが喉に詰まり、息苦しくて背筋に震えが走った。
 目許だけが熾火を据えたように熱かったけれど、それをこぼすまいとまた幾度も瞼を動かす。するとひかりが火花となって柳沢の目を灼いた。

「ヤナギ」

 凪いだ声の背後に咲く大振りの花の白さが、目に沁みるほど目映い。

「僕のために悲しむのはやめてくれ」

 残酷なまでに穏やかに、それは柳沢の鼓膜を震わせた。
 体温を失った指先から短くなった煙草が落ちる。

「死んだあとまで、誰かの悲劇の舞台装置にされるのはごめんなんだ」

 微笑を浮かべた紺野は淡々と告げた。

 柳沢は何も言い返せなかった。聞こえた言葉の意味を理解しようと、何度も頭のなかで繰り返す。

 混乱していた。どれだけ繰り返しても、紺野の告白は空回りして理解できない。

 風車がからからと回る。子供たちが店先で息を吹きかけていた色とりどりの羽がからからと回る。楽しげな吐息を伴わない幻聴は虚しいばかりで心のやわらかいところに傷をつける。

 これは柳沢の夢なのだから、紺野がこんなことを言うはずがない。柳沢の知る紺野はこんなこと言わないはずなのだ。

「……ヤナギ。僕はね、ヒーローになりたかったんだ」

 指揮を振るようにしなやかな指先が示した駄菓子屋の壁に、お面がいくつも並んでいた。祭りの屋台でも売っているようなチープな塩化ビニル製のヒーローのお面がふたりをずらりと見おろしている。

 現実で売られていたお面は店内の壁にくくりつけられていたし、アニメやゲームのキャラクターがあったはずだが、そこに並んでいるのはとうに放送の終わったヒーローたちだけだった。

「ヒーローに憧れてたんだ。誰かのピンチに駆けつけて、命がけで救ってくれるヒーローって、格好いいでしょ?」

 でも、と紺野は言葉を切って目を伏せた。

「現実では、そう都合よくヒーローなんて現れない」

 テレビのなかでは脚本通りにハッピーエンドが訪れるが、実際の世界はほとんどの場合、ひとりで乗り越えるか、耐えしのぐしかない。長く生きれば生きるほど思い知らされる。

 でも、と今度は柳沢のほうが声をあげた。

「俺がひとりだったとき、コンちゃんは来てくれたじゃないか……!」
「そうだよ。僕はヒーローになりたかったから」

 誰もヒーローにならないというのなら、自分がなればいい。
 何者にも負けない、正義の味方。誰より強い、憧れのヒーロー。

「まあ、綺麗ごとだけどね」

 ひときわ強いひかりがひらめき、目が眩む。

 ひかりと影が交錯して紺野の表情を窺うことはできず、場違いなほどに濃厚な甘い香りは胸をざわつかせた。

「皆が決めた枠組みにはいれないと、幸せになれないと思ってたんだ」

 氷のように冷えきった柳沢の手に、紺野の繊細なつくりの指先がかさねられる。

「ヤナギも、僕と同じに見えたから」

 幻のくせに、ひだまりのようにあたたかく、それでいて透けるように白い。からだが弱いからと体育の授業は毎回日陰で見学していて、ろくに日焼けを知らない肌は生前から怖いほどに色がなかった。

「自分の心配をするより、他人の心配をするほうが楽だったんだ。ひとの世話を焼いているときは、自分の不幸が目にはいらなくなるから」
「……コンちゃんは、不幸だったのか?」

 不幸とは己の意思や行動に関係なく降り注ぐ災厄だ。
 昔の柳沢は周りにうまく解けこめないのはそういう性格だからと諦めて、環境が悪かった、タイミングも悪かったと何かのせいにして、全部自分ではどうにもできないものだから仕方がないのだと努力を放棄した。窓辺から世界を眺めることを自ら選び、だから不幸だとしても大丈夫だと己に言い聞かせた。
 そこに手を差し伸べたのが紺野だったのだ。

 どこにいても笑顔に囲まれていた群青の小柄はいつだって自ら発光するように輝いていて、北極星より明るいしるべに導かれたら柳沢でも窓枠をのりこえることができた。虚勢を張らずとも息をすることができるようになった。
 紺野がいたから、柳沢は不幸ではなくなったのだ。

「コンちゃん、」

 知らず縋るような響きがにじみ、紺野がきゅっと眉を寄せる。

「……幸せでは、なかったかも」

 囁きのような返事は一直線に心臓を貫いた。深く突き刺さり血の流れる隙きもない。

 そんなつもりなどないのに泣きそうだった。泣く資格なんてないのだと歯を食いしばると、声帯が不自然に痙攣する。

「コンちゃんは……少しも楽しいとか、思わなかった……? 一緒に帰ったり……放課後ここで過ごしたときも……」

 駄菓子屋にたむろする子供にねだられ、紙風船を膨らましてやったり、ソフトグライダーを飛ばすのを手伝ってやったりしていたじゃないか。柳沢よりもずっと愛想がよくて、トネさんとおすすめのお菓子なんかについて話しこんでいたじゃないか。あんなに無邪気に遊びながら、それでも幸せではなかったのか。

 紺野はまた、ひかりと影の交わるしたで眉をさげ、困ったように笑った。

「僕はヤナギを助けて優越感に浸っていたんだよ。ヤナギがすごいって言ってくれるから、すごいふりをしてただけ」

 かすかに首を傾げた紺野の頬も指と同様にどこまでも白く、ひかりに融けて消えてしまいそうだった。

「嫌なやつでごめんね」
「やめてくれ、コンちゃんはこんなこと言わない」

 かぶりを振って否定すれば、紺野は投げやりな笑い声を立てた。

「どうしてそう思うのさ。別にいいけどね」
「だってもう死んでるじゃないか……もうコンちゃんの言葉は聞こえないんだ。コンちゃんが何を考えてたなんかわからないんだ、俺には……!」
「そうだね、僕はもうくちがきけないものね。だってヤナギの言う通り、死んでるんだもの」

 役目を終えたヒーローのお面は虚ろな目でふたりを見つめ、落ちた煙草は灰となって最後の煙がひと筋、空へたなびく。

 かさねられたままの手は驚くほど薄く、不安になるほどに軽い。
 これまで紺野と手を触れあわせたことなど一度もなかったから、友人の指がこんなに儚く、あたたかいなんて知らなかった。
 そんなこと知らなくてよかったのに。一生知らなくていいから、どこかで元気に生きているのだと思っていたかった。

「こんなやつのために悲しまなくていいんだよ、ヤナギ」
「なんでそんなこと言うんだよ……俺の夢なら、俺に都合のいいこと言ってくれよ!」

 最初に県外の大学を受けると告げたとき、紺野は驚きに目を丸くしたあと、「そんな学校行けるのか」と鼻で笑ったけれど、その日の帰りの別れ道で「頑張れよ」と背を押してくれた。
 次に、卒業式の翌日には家を出ると告げたときはやはり驚きにぽかんとくちを開けたあと、そっけなく「あっそ」とだけ言い、その日はバイトがあるからと駅で早々に別れたのだった。

 その後も、卒業式の日も、特別なことは何もなかった。ほかのクラスメイトたちに交じって互いの未来を応援しあい、また会おうなんて曖昧な約束をして学び舎をあとにし、普段通りに十字路で「またね」と言って、それきりだ。

 紺野の背筋はいつもしゃんと伸びていて、最後に見たスーツの背もまっすぐで清々しかった。遠くなっていくその背中に名残惜しさは見受けられず、後ろ髪を引かれるのは自分だけかとささくれだった胸の痛みがよみがえる。

「俺はずっと、俺だけが傷ついてると思ってたんだ……!」

 眩しそうに笑うそのひと自身が眩しく、時折目が眩んだ。
 ひかりが強ければそのぶん影の色が濃くなるのは道理である。

「コンちゃんといると楽だった。楽しかったし……寂しくなかったんだ、本当に……でも、すごく自分が情けないような気持ちにもなって……」

 怖くなったのだ。

 あのままだと、自分の足で立てなくなる気がして。
 いつか、強すぎるひかりに目が潰れてしまうような気がして。

「全部リセットしたら、うまくやれるかと思ったんだ……大学進学はいい機会だと思って……コンちゃんなら、俺がいなくても平気だろうし……何かあれば、また、コンちゃんのほうから来てくれるって……」

 自己憐憫に酔った臆病者は自分のことしか考えず、甘えてばかりで、そうして招いた結果がこれである。

 一方的に怖くなって逃げた身勝手なやつだとなじってほしかった。
 他人任せをよしとした怠惰を、友達ひとり大切にできない愚かさを恨んでほしかった。
 ごめんと、ひと言謝ることすらできなかった弱さを責めてほしかった。

「おまえのせいで傷ついたって……許さないって言ってくれよ……!」
「それは無理だよ」

 目を細めた紺野は、しがみつくような切望をはっきりと断った。

「なんで……なんでだよ、」
「だって──ヤナギはまだ、生きてるから」

 艶やかな緑の梢から、ほろほろとひかりがこぼれる。
 喉が詰まって呼吸もままならないけれど、必死に声を絞り出す。

「コンちゃん、」

 謝罪の言葉を吐こうとした瞬間、かさなっていただけの紺野の手がぎゅっと柳沢の手を包んだ。
 ハッとしてくちを閉じると、紺野は切なげに表情を歪める。

「早く忘れてね、ヤナギ」

 ひかりの帯が甘くほろ苦い香気をのせてゆらめき、紺野の輪郭を融かしていく。

 棺に横たわる星のない夜空のように冷たい無表情を、引き攣るような罪悪感と恐怖がないまぜになった柳沢は直視することができなかった。だが今は、眩しそうに細められた黒目勝ちの目を、にっとあがった口角を網膜に焼きつけるように一心に見つめる。

 ほのかなひかりが音もなく弾け、はらはらと舞い散る。
 世界の輪郭は淡く融けていき、やわらかで鮮明な白にすべてが覆いつくされた。

* * *

 ふっと目を開いた柳沢はゆっくりとあたりを見回した。

 住宅街にぽかりと開いた敷地は砂利が敷き詰められ、数台の車が停められている。屋根や電信柱のかさなる午後の空はぼやけた灰青色をしていて、初夏の気配を孕んだ風が寝惚けた瞼をくすぐった。

 縁石に浅く腰かけた姿勢のまま、身の回りを確認する。ネクタイは首に緩く引っかかり、ジャケットは足元に落ちていた。すんと吸った空気に混じるのは排ガスのかすかな燻りと草いきれで、白妙の香りはおろか、煙草特有の残り香すらない。

 スラックスのポケットから出した端末の電源をいれてしばらく待つと、現在時刻とメッセージの着信通知が画面に浮かびあがる。表示された時刻によると、紺野の家を出てから一時間も経っていないようだ。メッセージは母親からで、案の定実家に寄らないことを非難するものである。すぐに返信する気にはなれなず、つらつらと並ぶ文字を見るともなしに見ていると、ふつりと画面が暗くなる。

 端末を再びポケットへしまった柳沢は目許を覆うように片手をあて、深い溜め息を吐いた。氷のようだった手はすっかり平熱に戻っている。

「……コンちゃん……」

 かつて駄菓子屋だった駐車場に座りこむ男の譫言を聞く者はおらず、体重をかけた靴底で石ころがざり、と軋むように鳴いた。

 あれは己の願望が見せた夢だったのだろうか。それとも、手間のかかる友人を見かねた幽霊があの世に行く前にわざわざ立ち寄ったのだろうか。どちらにせよ、ひとの気持ちなどそう簡単に推し量れるものではなく、まして死んだ人間の本音を知るなど不可能なのだから、それこそ柳沢の都合のいいように受け取るしかなかった。

 ジャケットを拾いあげて砂埃で白茶けた布地をはたいていると、くしゃりと硬いビニール袋を潰したような音がした。心当たりのない音を訝しく思いながら内ポケットを探り、指が触れたものに呼吸がとまるほどの衝撃を受ける。
 おそるおそる取り出したそれはアイスキャンディーの包みだった。乳白色のパッケージが示すのはミルクの味だ。開いたくちからなかを覗くと裸の棒がはいっている。

「そんな……まさか……、」

 震える指でつまんだ棒には『あたり』と印字されていた。

「──うそじゃなかったのか」

 あたりの棒をひとに押しつける癖は健在だったらしい。

 棒をもったまま、柳沢は崩れるように笑った。笑い過ぎて目尻に涙がにじみ、また痙攣するように笑う。

「こんな、困るよ……──捨てられないだろ」

 忘れて、と大事な友人は願ったが、それはきっと無理だ。

 街中で似たような背格好のひとを見かけたとき、ミルク味のアイスキャンディーを食べたとき、梔子の甘い芳香が鼻先を掠めたとき、紺野のことを思い出す。そのたびに、心臓が絞めつけられるような淡い痛みを抱くのだ。十年、二十年経つうちにその痛みは消えてしまうかもしれない。しかし、痛みを感じなくなったとしても、紺野の存在は傷痕となって一生残るだろう。

 傷痕として残すことを紺野は怒るだろうか。

 許すという代わりに、忘れてと言った優しく残酷で、大切な友人。
 自分勝手で不器用な者同士、似合いの相棒だったのかもしれないなんて、何もかもが今さら過ぎる。

 ず、と子供みたいに鼻をすすって立ちあがった。ずっと窮屈な状態だった足腰がぎしりと鈍く痛み、薄曇りの空へと思い切り腕を伸ばす。

 大きく一歩を踏み出すごとに、足のしたで砂利が擦れて音を立てた。

 ひとりぶんの足音をともとし、柳沢は故郷をあとにする。
 拾いなおした思い出をもって。

<終>


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