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哲学・日記・メモ「かえらなかった時計屋さん」

「かえらなかった時計屋さん」

https://www.youtube.com/watch?v=lPTsudui3kI

「みんなの歌」1978年の楽曲です。私が子供の頃に聴いた「みんなの歌」で強く記憶に強く残っている曲です。

今にして振り返ってみれば、この歌詞は東西冷戦を暗示していたのだとも思えます。終盤の「大きなロボット」と「おじいさん」の決闘は、おじいさんがロボットを抱えて飛んで行って「二度と帰ってこなかった」事で幕を閉じます。これは冷戦の二項対立の克服に対する、醒めた期待の表れでもあったのかもしれない。何かが解決し、何かが実現したわけではないのです。ただただ対立図式が回避された、という消極性でしかないのです。つまりハッピーエンドではない。そしてしかし、そのアンハッピーな在り様を「二度と帰ってこなかった」と言う文言に落とし込んだ所に、私は作詞家の晴眼を見てしまいます。

東西冷戦が終わり、対立図式は解消されたけれども、それは二項対立の「克服」であったのか。おじいさんが「対立図式を抱えてそのまま飛んで行って二度と帰ってこなかった」様に、それは克服ではなく克服の先延ばしでしかなかったのではないのか。

その後、冷戦終結後の80年代は、高度資本主義あるいは今でいえば加速資本主義の独り勝ちの最中で「戯れ」の文化が席巻する事となるが、その「戯れ」とは「戯れ」であったとしても、果たして「あそび」であったのだろうか?

「あそび」と「戯れ」は微妙に意味合いが違うのだ。

それだから「戯れ」が席巻した80年代においては「あそび」は死んだも同然であったのだろう。

歌詞ではそれを予言的に「僕らのおもちゃは壊れたままさ」と語ってるのだろか・・・80年代という「おもちゃ」は「壊れたおもちゃ」でしかなかったのだとしたら。

「おもちゃ」とは何か。

それは「戯れ」の道具でも方法ではない。
それはあくまで「あそび」の道具であり「あそぶ」ための方法であり、おもちゃ」自体が「あそび」なのでは決してない。
この事はよくよく考えておいて良いと思う。

因みに。

この曲、おじいさんが時を司る時計屋(クロノス)であることも、何とも暗示的なのです。



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