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哲学・日記・メモ「音楽と絵画『タブローは自己批判しない』」

音楽と絵画「タブローは自己批判しない」

音楽は本質を志向する、と言うよりも本質を志向すること自体が音楽なのではないか。
それは属性をそぎ落とし原初へと遡及して、最後は音そのものも消失してしまうだろう。そこにかろうじて残るものがあるとすれば世界の始まりの「ゆらぎ」、もしくは「インフレーション」のような「はたらき」そのものである・・・とでも言えばよいのだろうか。
対して絵画は、そのような音楽の本質志向とは真逆に具体的な属性をどこまでも纏い続ける。
例えば・・・生命と言う属性を纏い、動物と言う属性を纏い、人間と言う属性を纏い、民俗と言う属性を纏い、時代の属性を纏い、家族の属性を纏い、個人の属性を纏う。これは音楽の本質志向とは真逆である。

ところで、かつて「タブローは自己批判しない」という名言をはいた画家がいる。中村宏である。これには複雑な裏事情があるのだが(六全共の事情)、簡単に言えば「タブローは描かれてしまった」のだ。だからそれは、切り捨てれば無くなるようなものではない、という事である。「絵画という属性」は本質から削ぎ落したとしても消えはしない。仮に消えたとしても、かつて在ってしまったという事実は残り続ける。だから絵画とは、属性の集積なのである。
中村はこの事を小説『フランケンシュタイン』になぞらえる。
フランケンシュタイン博士によって命を吹き込まれた「怪物」は、多数の生物の属性の集積として創られてしまった。博士がその創造を後悔したとしても、怪物は「怪物」として存在してしまったのだ。博士は怪物を「創らなければよかった」と後悔し自己批判する事は出来る。しかし・・・創られてしまった怪物は「生まれなければよかった」と自己批判する事は出来ない。彼が可能な事とは、創造主に対して創造の罪を突き付けるべく、怪物として在り続けようとする事だけである。怪物は自己批判できない・・・同様に・・・画家が描いてしまった絵画は自己批判出来ないのだ。それ故に絵画は、音楽がその本質志向の過程(まさに自己批判としての過程)で切り捨てていった属性を再回収して、その集積の中に物語を紡いでいく。この、物語を紡ぐという過程はまさに絵画的である。それは詩が音楽的である事と「対峙」している。
ならば、音楽に対して絵画が絵画として在らんとする、この「対峙」こそが絵画の役目であるとしたら・・・音楽の志向をグノーシスとするのならば、絵画は逆グノーシスと呼ぶべきものかもしれない。すると、画家とは、自らデミウルゴスであり続ける事に意義を見出すものであるのだろう。

追記。
音楽史では記譜法の発明は音の保存である共に音の再生であり、音楽の携帯化の端緒でもあった。しかし上記のように考えてみるとそれだけではないように思えてならない。つまり記譜法は音を書きつける。これは属性の付与であり、音楽が非本質を志向し絵画に歩み寄る為の、大きな転機であったのかもしれない。

2024年1月8日岡村


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