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『友達』とは何かを考えた、そんな話。

『友達』とはどういうものだろうか?

なんでこんなことをいきなり書こうと思ったのかというと、去年の暮れに『友達』と言うものの認識の違いにより友人と仲違いしたことがあったのです。その人とはもう赤の他人になってしまいました。その出来事の自分なりの答えがやっとでたので吐き出そうとおもったからです。

「こんなの誰でも知ってることだろう。」とバカにされるかもしれないなと思う。

とも‐だち【友達】

 互いに心を許し合って、対等に交わっている人。一緒に遊んだりしゃべったりする親しい人。友人。朋友 (ほうゆう) 。友。「友達になる」「遊び友達」「飲み友達」

             ━━Google国語辞典より

わかりやすく、みんなこの通りだろうと言うと思う。私もそう思う。気兼ねなく付き合える人、そんなごく当たり前のことを言っている。だが、一部の人は「友達」にギブアンドテイクを無意識(ときには意識的)に求める人がいる。そしてその利益より自分が与えた(と思ってる)利益が主観的に釣り合っていないと感じたとき、今までの態度を一変させて攻撃してくる。そのような人の主張を聞いていると、友達だと言っていたのに、どこか相手を見下していたりする。

それは本当に『友達』なのだろうか?

『友達』なら、いつも相手が求める利益のある何かを提供しなければならないのだろうか??

『友達』なら、常に自分の求めるものを提供し続けてくれるのだろうか?

それは「心を許し合って対等な関係」なのかな?

結論から言えばそんな人は『友達』なんかではない、と私は思う。(そう言う友情もあるのかも知れませんし、それまで否定する気はないです。)

そもそも、行為に見返りを求めるのはなんか変じゃない?

自分の自発的行為に、相手からの見返りを求めるのは、なんか、追い剥ぎじみてませんか?相手が好きだからなんとなく何かしてあげようと思うわけで、そして相手も同じ気持ちだからそれが結果として自分に帰ってくるわけです。『〜してあげたのに』と相手に思うのなら初めからやらなければ良いんです。その方が嫌な気持ちになりません。自発的行為は自発的行為で返ってくるのでは?そう私は思うわけです。

それに『友達』になるのに理由なんて要らなくないですか。

友達って、もっと自由で気持ちのいいものじゃないのかなあと思うわけです。自分の気持ちを率直に伝え合える、受け入れられるそんな関係じゃないのかなあ。友達付き合いに損得を考えてるのは、なんだか生きづらそうだなあと思っちゃうんですよね。

私は人との付き合いを損得で考えてなかったから、この違和感に気づくのにこんなにかかってしまった。けれども、こう、良くはないんだけれど、この違和感を感じるキッカケを得られたのはとても良かった気がします。(出来るならあんな事は体験したくないですけど)

今回、『友達』の捉え方が人によって違ったことを学んだけど、できるなら捉え方の同じ人と関わって生きていきたいなあ。

『友達』になるのに損得で考えて人を選ぶ

それってなんだか寂しいし視野が狭いなあと感じた話でした。

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