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因果律を超えるということ

なんだか脱線しがちなテーマなのですが、今日はレモン味のロールケーキ(写真)をお供にどうにか書き上げたいと思います。

前回は自分自身の常識をまずは疑ってみる、ということについて書き綴ってみました。常識は人それぞれ異なります。生まれた地域、育った環境や国、人種や民族によって大きく異なりますが、その集合意識(地域や国、人種・民族による)などをどの程度、大切なものとして扱っていくか、採用していくか、ということも人それぞれの価値観や育ってきた環境によって異なってきます。

インターネットという情報の世界を通じて、自分自身が意図すればですが、たやすく自分の常識外の世界に簡単に接することできるようになったと感じます。検索のアルゴリズムによって情報が偏ってしまいがちなときは、あえて異文化と言える英単語などを入力して「遠くに散歩してみる」というネットサーフィンも楽しいかもしれません。

あ、また話が逸れました。

QUANTAが提供している各種リトリートでは、参加者のみなさんの意識をリーディングした上で、魂がもっている願いを叶えるためにブロックとなっている意識、そろそろ手放してもいい信念体系などを浮き彫りにしていくお手伝いをしながら、参加者の方々がご自身のタイミングで深く気づいていく、ということの伴走をしています。

それは私たちがリアルに接しているときにブレイクスルーが起きることもあれば、数日後、もしくは数ヶ月後、数年後の大きな気づきに繋がっていくこともあります。そのタイミングは人それぞれ。焦る必要もないものです。

ただ確かに言えることは、私たちはそれぞれ生きる過程で、さまざまな因果律(「〇〇したら愛してもらえる」、「〇〇しないと〇〇が大変になる」、「〇〇なんてありえないこと」)を盾に自分自身を頑張って守ってきたんだということ。自らを守るために。けれど「守る」ということは「攻める」という相反する状態が存在するということでもあるのです。

私たちは、そろそろそんな二極化の幻想から解き放たれてもいい時がきていると感じます。ただ無条件に守られる。ただ無条件に愛される。ただ無条件に許される。

今まで自分自身に許していなかったこと。やらないといけないと感じてきたこと。目に見えない制限によって縛ってきたもの。目に見えない意識のレベルで、私たちはひとつずつ自分自身に課してきた、身体を緊張させて、力んでやってきたこと認め、今まではそうやるしかなかった自分自身を受容し、無条件に許されていい存在なのだということをただ思い出していく。そうやって私たちは、静かに、けれど確かに、意識レベルにおいて大きな変容を受け入れていくのではないでしょうか。

因果律を超えていくとは、そんな個々人レベルで起きる大きな変容のプロセス。そして気づいたときには、そんな個々人のバイブスに共振共鳴するように社会が変容している。人類の意識レベルでの大変容を迎える時代がくるとは。近未来が既に楽しみです。

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伝え切れたかわからないけれど、次回もエネルギーの話かもしれません。わからないけれど。ではでは!

いただいたエネルギーは大切に循環させていただきます🙏✨