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【一首評】今しばし生きなむと思ふ寂光に園の薔薇のみな美しく 皇后美智子


今しばし生きなむと思ふ寂光に園(その)の薔薇(さうび)のみな美しく
皇后美智子

今年の歌会始に出された美智子さんの歌です。題は「光」

私の亡くなったお祖母ちゃんは美智子さんが好きで、よく「美智子さん」と呼んでいました。だからこの呼び方がしっくりきます。私は祖母みたいな皇室好きではないのですが、歌人としての美智子さん、特に歌会始に彼女が出す歌には注目しています。
短歌をやっている人と皇室好きな人には常識かもしれませんが、美智子さんは自分の歌集も出しているほどのガチの歌人です。

他の皇族の方々が歌会始に出す歌は、一般に受け入れやすそうな、公的な意識の強い印象を受けるものばかりです。行事の性質を考えればそれでいいと思いますが、美智子さんだけは違う。この人だけ「歌会」してます。新しい短歌を作ってやろう、自分だけにしか作れない短歌を作ってやろう、そしてそれを年に一回のこの場で発表してやろうという気概を感じさせる作品ばかりなのです。

というわけで、今年の歌を読んでいきましょう。

掲出歌は、おばあちゃんの「あたしもそろそろお迎えがくるねえ(しみじみ)」を「格調高い」に振り切った歌といえます。ポイントは「寂光」。安らかで静かな光という意味です。薔薇園の安穏とした雰囲気をどのような光が当たっているか述べることで描写しています。薔薇の美しさにしっかりと質感が加えられており、端正な作りの歌といえるでしょう。
しかし、これぐらいのテクニックはこの人にとっては序の口。

加えて、上句によって、死を近く感じ取る主体がいることがわかる。これによって「寂光」の由来であるところの仏教的なニュアンス(※)が強くなる。寂光が当たっているのは薔薇だけでなく、主体でもある。つまり主体は今、浄土の光に包まれているように感じているかもしれない。お迎えが近い。月の人がカグヤ姫を迎えに来るシーンを彷彿とさせます。
※寂光とは、寂静(悟り)と智慧の光とのこと。

これだけでもある死生観の表現として十分成立していますが、ガチ歌人なのでここで終わらない。さらに登場する「薔薇」が実は曲者です。
仏教と薔薇との間に深いつながりはあまり思い浮かびません。仏花としては棘があるので避けられることがあるぐらい。薔薇十字仏教というものもあるらしいですが、皇族として詠んでいる背景からして特定の宗派に関連するとは考えにくいです。
むしろ薔薇と宗教といったとき思い浮かべやすいのはキリスト教でしょう。そして、キリスト教でも神聖なものは光とともにやってくる。
つまりこの歌は仏教的な要素と、キリスト教的な要素のどちらも連想させる死生観の歌なのです。
ともすれば、宗教を超越したところで自らの生と死を捉えようとしている主体がいる。と、私は感じてしまいます。

仏教的要素とキリスト教的要素の混在なんて、普通にやれば意図がよくわからない歌になってしまうでしょう。しかしこの歌は成功しています。
聖なる光のイメージによって二つの宗教の要素をつなぎ調和させており、題「光」への応答としても完璧。

短歌としての仕上がりもさることながら、非常にユニークな味わいを持ち、かつ挑戦的な一首であることがわかります。
やはり美智子さんは今年も「歌会」してました。

[今しばし生きなむと思ふ寂光に園(その)の薔薇(さうび)のみな美しく
皇后美智子]

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