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「解釈戦略」というキーワードについて考えていたら短歌結社もありかなと思えてきた


『「短歌結社の再定義」 を読み論じる会』に行ってきました。

これは歌人の中島裕介さんが現代短歌評論賞に応募された評論の読書会です。作品はこちらで公開されています。
「短歌結社の再定義 ――解釈共同体としての短歌結社」
以下引用は全てこちらからとなります。

会の内容はあとでまとめて発表する予定とのことでしたので、気になる方はそちらを読んでいただくとして。
出席した私の感想というか、考えたことを備忘録的に書き留めておきます。



場所は新宿ルノアール区役所横通り店の貸会議室。
なぜか揚げものの油の臭いがうすくただよっていました(前に別の用事で来たときもこんな感じの臭いがしたんですが、あの店の構造はどうなってるんでしょう? 一階も喫茶店ですが?)

1 「解釈戦略」と「解釈共同体」

「短歌結社の再定義」について簡単にまとめると、結社とは本質的にどうあるべきかを中島さんなりに検討し、提言するものと言えばいいでしょうか。
どうあるべきか=再定義の結論は以下になります。

各短歌結社が持つ、短歌の読み書きに必要な解釈戦略を共有するために、一定の約束のもとに、基本的には平等な資格で、自発的に加入した成員によって運営される、生計を目的としない私的な集団

この定義については当日疑問が呈されていた点もあるのですが、ひとまず置いておきます。「解釈戦略」が重要なキーワードで、スタンリー・フィッシュという人の提唱した概念を中島さんは短歌の読みの場に応用しています。

歌人は破調を含む短歌や自由律短歌を、短歌だと受け止められる一方、短歌と俳句の区別も付かない人にとってはそう思えない。また、例えば眼前に「かなし」や「あたらし」という字句があったとしても、文脈に応じて、現代語における「かなしい」「あたらしい」とは異なる意味を持ちうることを歌人は看取できる。
そのような理解や意味を決定する仕組み・枠組みが解釈戦略であり、その解釈戦略を共有する人々のまとまりを解釈共同体という。

私なんかは「戦略」という言葉を聞くと、どうしても攻撃的というか、侵略的というか、特定の読み方を押し付けようととするイメージを勝手に持ってしまうのですが、そうではないですね。
もっとごく基本的な読み方の基盤、それこそ目の前の文字列を「短歌だと受け止める」ことができる前提、大勢の人が暗黙に了解している約束みたいなものも「解釈戦略」に含まれています。

かつて流行った「偶然短歌」はとても面白い事例です。本来は短歌として書かれていない文字列を、「短歌」として読み、楽しむことができるという発見。あのときに面白かったことの一つが、普段短歌を読まないという人たちも多く反応していたこと。その人たちの読みと、普段から短歌を読む人の読み方は少し違っていたのではないかと思います。
例えば、短歌に対して和歌的なイメージを強く持っている人は「アルメニア、アゼルバイジャン、ウクライナ、中央アジア、およびシベリア」に意外性と斬新さを感じたかもしれない。短歌に読み慣れている人は、単なる地名の羅列にそれを並べた語り手を想像し、その人物の人間性に面白みを読んだかもしれない。
一方で、「短歌として読む」こと自体は共有できていた。
各々の短歌の捉え方は異なり、そこから生まれる楽しみ方は違っていたかもしれませんが、共通する部分もあった。短歌を読み慣れていない人/読み慣れている人の解釈戦略は、部分的には共通点があったし、そうでない部分もあったと見ることができます。

2 同人誌

話を戻します。
中島さんは、結社が自らの文学的理念に照らし合わせ、その結社なりの解釈戦略を持ち、それを共有していくことが結社のありかたとして必須なのではないかと言いたい(のだと思いますが違ったらすみません)
会誌の発行とか歌会とかはそのための手段であって、それ自体が目的化してはいけないのではないかと。

この結論について否定するところはありません。というか、私はそもそも結社に入らずに活動してきたので、短歌結社があってもなくてもあまり関係がない。だから「結社がどうあるべきか、どうするべきか」という問いにそもそも興味が持てないところがあります。
でもこれは中島さんの責任ではなく、そもそも現代短歌評論賞のテーマが『「短歌結社のこれから」のために、いまなすべきこと』だったためです。(こんなビジネスコンクールみたいなテーマしか出せないならテーマ要らなくない?評論て何のためにあるんだっけ?と思いますが、それはまた別の話……)

とはいえ「短歌の読み書きに必要な解釈戦略を共有するため」の集団とはどんなところだろうと考えたとき、結社と名乗っていない集団でも当てはまる場合が多いのではないかと思ってしまいます。私が中島さんの定義に疑問を抱く箇所でもあります。
例えば私の所属する「かばん」は同人誌であり、また「歌人集団」と名乗っています。「結社」ではないとの認識は会員のなかではかなり徹底されています。メーリングリストや歌会などで「かばん」のことをうっかり「結社」と言ってしまい、やんわりと訂正される場面を何度か見たことがあります。
では解釈戦略があるか。「かばん」の命名の由来として「なんでも入る」というものがあります。公式HPにも「幅広い作風を包容し、多くの斬新な短歌作品が生まれる場となっています」とされており、多くの会員はこの方針を認識していると思います。
幅広い作風を受容するのは簡単なことではありません。ここでいう「受容」はなんでもかんでも褒めるという意味ではなく、ダメならダメと評価を下すことも含めます。その作品が短歌として何であるか、短歌というジャンルのどこに位置しているかを定めること。それが批評であり、受容することだと思います。
例えばかばんの歌会は外部の方でも参加できますし、会員だって常に新しく入った方がやってくる。で、どう読んだらいいかわからない作品に出会う機会は少なくないです。そういった作品を受容していくには訓練といいますか、頑張りは必要です。しかも他の人と意見が食い違うこともざらです。そこで議論を重ねて、いろいろな作品の妥当な読み方、そして評価を決めていく。そんなことを繰り返していくと、やはり「かばん」独特の読み方ができあがってきます。それはリアリズムを標榜する集団の読み方とは違うでしょうが、また一つの固有のものです。
そしてどう読まれるかが場によって違うということは、その場に提出される作品もおのずと変わってくることを意味する。だから「解釈戦略」は「読み」だけでなく「書き」にも必要なんですね。

「かばん」には「かばん」の解釈戦略はあるといえる。ちなみに論じる会に出て初めて知ったのですが、「己がじし」(めいめい思うがままに)という理念を掲げている結社もあるそうです。これなんかは「なんでも入る」に通じますよね。なおそういう結社は三つもあるらしい。

ということで、中島さんの定義だと、弾かれなくてはならないはずの同人誌「かばん」も含まれてしまうのではないか、と正直なところ思っています。

3 BL短歌

もっとも「かばん」の「なんでも入る」は、ワイルドカードみたいなものなので、特定的かつ限定的な指針をともなう文学理念を持つ組織とは同列に語れないところがあるかと思います。
では実際、限定的な文学理念を掲げて活動している結社ってどれぐらいあるんでしょうか? 私は結社の活動って本当に知らないので、わかりません。
ただ私の知る範囲で、同人誌でも限定的な指針を掲げているところは多いですね。今、文学フリマに行けば、短歌の同人誌はかなりの冊数が出ていることが分かります。これらの同人誌は、販売のためのコンセプトの明確化という要求もあるとは思いますが、どういう短歌をやる同人誌なのかはっきりしているものが多いです。
その中で、特定の文学理念を持ち、かつ大きな影響力があったものとして、真っ先に浮かぶのがBL短歌のムーブメントです。一応、同人誌「共有結晶」が大元と言えるとは思いますが、それ以外の本も出ていたのでもう少し広い共同体をふんわりと想定しています。もちろん参加者は、それぞれのスタンスで取り組んでいます。しかしその活動の一環として、「異性愛を標準的とする既存の読み方への異議」が唱えられ、また実際に作品を生産して評する実践が行われ、それまでの歌壇にはなかった読み方と評価が可能な場を作って示してみせた。
歌壇という大きな解釈共同体に対して、別の解釈共同体(BL)が接続し、衝突しつつも融和をはかったとの見方は可能だと思います。

「解釈戦略」の「戦略」について私はネガティブなイメージを述べましたが、もちろんポジティブなイメージもあって、それは自分たちが価値あると信じる解釈の在り方を多くの人にアピールしていくというものです。こちらは真っ当な文学運動です。BL短歌ムーブメントの中で示された読みの様式は、ポジティブな意味での「戦略」がよく当てはまる気がします。
この戦略の向いた先は実は二つあります。
一つは歌壇です。「異性愛を標準とする」と「異性愛も同性愛も等しく可能性がある」が並び立つ読みの場はあり得ませんから、どうしても衝突は避けられない部分がある。その結果は数年程度ではわからないと思いますが、少なくとも私にとっては、既に後者の可能性は排除できないものとなっています。
もう一つは、歌壇外の人たちですね。それまで短歌に興味はなかったがBLには興味のあった層を、「短歌」を読み書きする場に取り込みました。こちらは衝突が起きないのであまり目立たず、注目されることが少なかった面ですが、実は多くの短歌結社や同人誌があまりうまくできなかったことをやってのけてしまった点で、むしろ重要だと思っています。中島さんの評論の冒頭で、短歌結社の減少、その弱体化が述べられています。何もこれは結社に限らない話で、どんな組織も業界も新規参入を増やさなければ縮小衰退の道しかありません。BL短歌は「BL」という既に十分浸透していた様式をフックに、歌壇外の人を呼び込むことに成功しましたし、まだそれは続いています。

4 ヒエラルキー

私が「かばん」に入った理由として、もう一つ「先生がいない」を運営方針として明確に掲げていたのがあります。それは当時の私に、先生に認めらる作品を作らなければいけないことへのネガティブなイメージがつきまとっていたからです。いや、今も正直に言えば、選者制は自分には合わないと思っているので、今後も結社に入ることはないと思います。自分の作品を削られたくない、ただのわがままなんですが。
他の方が諸々のことを了承して結社に入ることを否定したいわけではありませんので悪しからず。
何より、論じる会に出ていて、結社形式も歌壇全体を構成する要素としては必要なのだなあと思えてきました。この心境の変化は自分でも驚きでした。

評論で中島さんはヒエラルキーは結社に必須ではないとまとめています。主張としては理解できるのですが、私にとって、「結社」ってやはり、解釈において指導的な立場と被指導的な立場のメンバーがいること、その意味でのヒエラルキーがあることが重要なのではないかと思えてしまいます。

SNSなどで結社に所属している方はよく「実際には上下関係はゆるい」「実質は対等な場面もある」とおっしゃいます。論じる会でもそのような話がありましたし、それは確かなのだと思います。
だから思ったのですが、結社はメンバー間の「対等性」と「ヒエラルキー」の両側面がある組織であり、それが重要なのではないか。同人誌は「対等性」しかない点において区別できる。

対等と上下の両面性がある解釈共同体は、対等しかない解釈共同体とどのような違いを生むか。一番大きな違いは、新しいメンバーが入ってきたときに、解釈戦略を新メンバーに浸透させる効率性、確実性が高いことです。教育があるから読み方・書き方を教えられるし、取りこぼしも少ない。少なくとも「かばん」は先輩からのアドバイスはありえても、あくまで一線引いているので、評価される作品を作ろうと思ったら自力でなんとかするしかない。サポートとかも特にないので、短期間であっさり辞めていってしまう人も多いです。
よって解釈共同体、ひいては解釈戦略を維持する確率を高める……と考えられます。このような小集団それぞれの存続の期待値が高まることは、歌壇全体の存続の期待値を高めることでもあるでしょう。

ただ最近の歌壇は同人誌のみ、それよりも緩いコミュニティ、あるいは無所属で活躍する人も増えている。もしかすると私のように(あるいはまた違う原因で)上下関係を避けようとする人が増えているのかもしれません。となると、ヒエラルキーはもはや、必ずしも解釈共同体の維持に効果があるとはいえないのかもしれません。
だとすると、これからの結社の再定義としてヒエラルキーを必須ではないとした中島さんの見解は、的を射ている気がします。


~~~~追記~~~~
・「戦略」という言葉に引きずられている気がする。解釈共同体の持つ解釈戦略は、その内部での慣習や枠組みのことを指しているのであって、対外的にアピールすることまでは含まれない(あるグループが自分たちの解釈の様式を対外的にアピールすることはもちろんあるが、解釈の仕方とは別の次元の話なので)
ただ、同じジャンルで相並び立たない解釈戦略を持つ解釈共同体があるとき、両者が衝突することはあり得るし、その結果どちらかが勝ったり、まじりあって新しい解釈戦略が生まれたり(たぶんこっちの方が多そう)するわけで、そこまで踏まえると「戦略」はずれた表現ではないのかもしれない。
・共同体って書くと結社とか同人誌とか組織化されたコミュニティやグループを想像しがちだけど、「歌壇」みたいにその関わりの深さも個々のスタンスがばらばらな範囲も指せる。「解釈共同体」=「ある解釈戦略の及ぶ範囲の人々」とでも書き下してみると自分なりには理解できる気がします(「共有する」って書くと少し能動的な感じがありますが、無意識に解釈戦略を身につけるようなイメージ)

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