見出し画像

死から始まるストーリー

その日は、ある方のお葬式だった。

さき始めた桃の花に囲まれた葬儀ホールに入ると
案内係りの人が尋ねてきた。

「親族の方ですか?
 それとも
 お知り合いの方ですか?」

あれ?
私、どっちになるんだろう?

私の立場って
どこか中途半端なのだ。

通帳とかを預かって
お金の支払いを代わりにしたり

空き家になってるその方の家の草取りをお願いしたり

それだけじゃない。

延命治療をどうしますか?って
お医者さんから聞かれることもある。

え?
そう言われても、

私、他人ですけど?


他人がそんな大事なこと
決められないですよね。

同じセリフを
この数ヶ月の間に繰り返した。

一人じゃなく
何人もの人に対して。


この方の時もそうだった。


ある日、突然電話がかかってきた。
それは、いつもその人を見守っていた医師からの電話だった。


今ですね、脈が落ちてきていましてね。
そろそろ、危ない感じなんですよ。


あぁ・・・・
今、お亡くなりになりました。

・・・・・・・

血の繋がってる家族よりも
親しかったはずの知り合いよりも
誰よりも早く
その人の亡くなったことを
伝えられる。

一体、私って何なんだろう。。

家族でも
知り合いでもないアカの他人の私が
何でこんなことをしているのか。

それは私が成年後見人をしているから。

成年後見人って何かと言うと。

wikiによると
成年後見人は成年被後見人について広範な代理権859条1項)と取消権120条1項)、財産管理権(859条)、療養看護義務(858条)をもつ。


つまり、法律でやることが決められている。

9年前、司法書士になった時に
成年後見のことを知った。


専業主婦を経て
15年ぶりに社会復帰した私にとって
司法書士らしい仕事は
できないと思っていた。

司法書士と言えば、不動産や会社の登記を
不動産屋や、銀行から
いかにたくさんの仕事をもらい、
どれだけこなすか?


そう言った仕事が主な仕事を言われている。

そもそも
そんな業界の内情なんて全く知らず

ただ資格を取りたいという気持ちばかりで
なった私にとって、


どれだけ、たくさんの仕事をこなすか?よりも
困っている方の役に立つ仕事の方が
自分には合ってるかもしれない。と
何となく思った。


本人が認知症とか障害者の方で
色々な手続きができないんだから
代わりにやってあげればいいのね。

それで
月に幾らかのお金がもらえるんだったら
私もうれしいし。

そんな風に
なんとなーくなイメージのまま
後見人になるための研修を受けた。


だけど、私は気づかなかった。

法律には、その人の生きている間のことは書いてある。

だけど
その人は最後には亡くなってしまうということを。

人は死ぬのは当たり前。


だけど
人間不思議なもので
人って、実際にそういう場面に立ち会わなくては
実感として持つことができなかったりする。

そして、
私は、後見人をしている方が
亡くなっていく度に
こうして死と向き合うことになった。


家族でも
介護や医療、葬儀屋のような専門家でもなく

家族的であり
専門家的である
なんとも中途半端な形で向きあう死。


だからこそ、
いろんなことを
感じられるのかもしれない。

この仕事をやっていると
一人一人の人生のストーリーに出会う。


成年後見人の仕事として
法律には書かれていない
死という場面に出会うことによって
たくさんのことを教えてもらった。

人は、死を終わりだと思い、
死を恐れる。

できれば考えたくないと思う。


だけど死から始まるものもある。


祭壇には、
最近写したらしい遺影が飾ってあった。


明るくどこか優雅な笑顔に
ホッとした。


結局、私は知人の席に座った。


周りは
その人との思い出話に花が咲いているようだった。
だけど、私の中にあるのは
過去の記憶を失ったその人。


知り合いを忘れてしまった後に出会った私は
その人の人間関係をほとんど知らない。


知っているのは、
その人の頭の中にあった
遠い昔の風景だけだ。


人が亡くなると、
その人との思い出を思い出す。


亡くならなければ
その思い出は動き出さない。


亡くなった後は
肉体はなくとも
生きている人の中に
ストーリーとして生き続けるのだろう。


遺影を見ながら
生前の姿を思い出し、
こみ上げてくる気持ちを抑えきれず。

思わず涙が滲んだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?