【感想】明日死ぬかもしれない自分、そしてあなたたち/山田詠美



最近、図書館に行くという行動を28歳にして日常づけようとし始めた。とは言っても、今まで図書館どころか本を読む習慣も中学生だかの「朝読時間」ぶりだから、何から読めばいいのか正直分からなかった。


「図書館 借りるべき本」とかで検索して見つけたこのタイトル。

私は28歳だけど、この歳ではやや早いんじゃないかと自他共に思うだろう大切な人との死を経験した。親友の死で、もうすぐ三年が経とうとしている。
何か、何でもいい、私にヒントや答えをくれないかと縋る思いでこの本を手に取ることを決めたのだろう。タイトルの通り、最初から最後まで「死」と向き合わされる作品だった。





創太が付き合っていた女に「かわいそう」と言われたシーン。
「かつて、ママの大事大事と呼ばれたことがある。おれは、そういう思い出も持っている。」


私は親友が亡くなったことについてあまり人に話すべきではないと思っているから、誰かに「かわいそう」だとか言われたこと記憶はない。
親友の死を知る人=共通の知人か友人でもあるから、彼らもまた彼女を失った「かわいそう」な人たちである。よってそういう目でお互いを見ることはない。




だからか、私は自分を自分で「かわいそう」だと思っている。
恥ずかしいけれど、私は彼女のことを「一番の」親友だと思っていたし、思っている。
彼女がいなくなって、その席が埋まらなくてずっと孤独である。
私の把握している限りでは彼女以上に私のことを必要としてくれる友人はいなかったし今もいない。
彼女の中で、私が一番に必要とまで言えた存在なのかは今では分からないけど、私の中では私を一番に必要としてくれていると感じられる友人は彼女だった。
もちろん他にも友人は幾名かいるけれども、たぶん私が居なくても生き方が変わらない人たちだ。これは失礼な意味では無く謙遜の意味も込めて言っている。

私は親友がいなくなってから、明らかに自分の生き方や人生の気分は変えられてしまったし、仮に死ぬのが反対で私であっても少なからず親友には同様の影響を与えるだろうと、おずおずながら言えるのだ。そんなことを言えるのは彼女だけだった。
そして私はそんな存在を思春期からずっと欲していた。ずっと欲して探して悩んで苦しんで生きていた気がする。だからやっと出会えたのに、どうして数年間しか時間をくれなかったのかと嘆きたくもなる。

そんな自分は、「かわいそう」だと。
でも、創太のこの台詞を読み思い出された。



親友が私のことを「宝物だよ」と言ってくれたこと。

今の私にそう言ってくれる人はいなくても、私はあの子に「宝物だ」と言われた人間なのだ、と思い出すことができた。その事実がこれからの人生一生変わらないことも理解できた。このことを何度でも思い出したいし、思い出していかなければいけないと思った。少し救われる気がしている。





そんな希望的な観測を与えてくれもしたけど、「これは男と女のことに限るけど、かけがえのない人を失った時の穴は、別のかけがえのない人でないと埋められない」
だそうで。


男と女じゃない場合の穴はどうやって埋めるのでしょうか。教えてほしかったです。その答えにいつか出会えたい。



もちろんこのシーンの他にも心に留めて置きたい言葉が幾つもあるお話。一日で一気に読み終えてしまった。私も何歳になっても誕生日をありがたがって、嬉しくなるような人間でいたいと思った。


「誰かが死ぬと、必ず誰かの新しい人生が始まるんだよ。それは、つらい始まりであることがほとんどだけど、そのうち、絶対に隠れていた希望が姿を現すんだから」



今日という日が残りの人生の最初の一日。
それを繰り返していたらいつか隠れている希望に出会えるのかな。

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