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125番・普天間空港線の中城経由の歴史を調べてみた
125番・普天間空港線は、那覇空港と普天間またはイオンモール沖縄ライカムを、首里(儀保)、西原入口、我如古、普天間経由で結ぶ路線である。
宜野湾市我如古以北は、国道330号を北上するルートが本線であるが、本線とは別に1日1本、しかも那覇発で普天間向けの片方向のみに、国道330号ではなく、県道81号線を経由する中城経由系統が運行されている。
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1955年に中城中線として運行開始
那覇交通創立30周年誌によると、中城経由の前身となる中城中線の運行開始は意外と古く、1955年11月21日のことである。那覇交通の運行開始が、1951年4月25日のことなので、創立から5年以内には運行を開始している。
当社でも路線及配置台数を大巾に変更し、首里経由屋ヶ名線、西原線の外1955年3月7日首里経由胡差折返し線を設置、仝年11月21日知花まで延長(6台36回)、中城中線を朝、夕3回運行した。
太字は筆者によるもの
一方の本線は、首里経由で那覇~コザ間を結ぶ胡差線として1955年3月7日に運行を開始したようである。中城中線が運行を開始する約半年前であるが、この胡差線は中城中線の運行開始と同日の1955年11月21日に、知花まで延長され知花線となっている。よって1955年11月の時点で、既に現在の本線と中城経由の2系統が成立していたことにある。
当社でも路線及配置台数を大巾に変更し、首里経由屋ヶ名線、西原線の外1955年3月7日首里経由胡差折返し線を設置、仝年11月21日知花まで延長(6台36回)、中城中線を朝、夕3回運行した。
太字は筆者によるもの
当時の想定される運行ルートを以下に示す。
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1968年~1970年頃の琉球政府の陸運関係資料$${^1}$$によると、美里村(現・沖縄市)に知花駐車場が設置されていたようである。「美里村字知花2553」という住所は、2001年2月26日の住居表示により現在は「沖縄市知花5丁目16または19$${^2}$$」であり、終点の知花から北に500mほど進んだ位置であるので、恐らく中城中線および知花線の駐機場と使用されていたのだと思われる。
なお、1955年11月当時の知花線(後の本線)の運行本数が1日36本だったのに対し、中城中線(後の中城経由)は1日3本と、この当時から中城経由は非常に少ない運行本数であった。
1974年に終点が知花から栄野比に延長
那覇~知花間で運行されていた中城中線は、1974年(昭和49年)7月1日付で栄野比までの延長が認可されている。同時に、知花線も栄野比までの延長が認可されているが、こちらは延長と合わせて路線名が栄野比線に変更されている。この時点でも、それぞれ別路線としての扱いだったようである。
中城中線(那覇ー知花間)29.6粁 3回(昭和30年10月3日免許)
その後終点を知花から栄野比へ延長認可(昭和49年7月1日)
(路線粁34.0粁となる)
知花線(那覇ー知花間)27.9粁 10両 60回に変更認可(昭和40年5月8日)
その後終点を知花から栄野比へ延長、同時に16両75回に変更認可(昭和49年7月1日)
(名称も栄野比線に変更、路線粁32.3粁となる)
当時の想定される運行ルートを以下に示す。
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栄野比延長後の知花駐車場の存廃は不明である。
なお運行本数は、中城中線は変わらず1日3本のみであったが、知花線改め、栄野比線は1日75本と大幅に増便されている。
中城中線から石川線(中城経由)に
栄野比まで延長された中城中線だが、那覇交通創立30周年記念誌ではそれ以降の中城中線に関する記述が見当たらない。同誌に記載されている1981年3月1日時点のバス路線一覧では中城中線という路線名は消滅しており、25番・石川線(中城経由)という扱いになっている。
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(出典)那覇交通株式会社創立30周年記念誌(1981年4月 那覇交通発行)p.43を元に筆者が作成
1977年(昭和52年)3月16日に25番・栄野比線の石川までの延長が認可されていることから、同時に中城中線も石川発着になり、この際に25番・石川線の中城経由として吸収されたのかもしれない。
昭和52年3月16日 栄野比線石川延長認可
ちなみに、栄野比終点だった1975年時点の運賃表$${^3}$$では、まだ「栄野比線」と「中城中線」の表記である一方で、石川終点となった1979年8月1日時点のバス路線一覧$${^4}$$では「石川(首里)線」と「石川(中城)線」の表記であることからも、やはり石川延長時に1路線となった可能性が高い。
この当時の運行ルートを以下に示す。
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終点が石川から知花へ短縮
25番・石川線の本線は、那覇交通の石川バスターミナル廃止に伴い、1997年7月19日をもって大幅に運行本数を減らし、かつ石川線としての中城経由は廃止された。
ただ中城経由自体に需要が全く無かったわけではないようで、翌日より25番・石川線の区間を短縮する形で新設された125番・知花線に、石川線時代と同様に中城経由も設定された。
短縮後の運行ルートを示す。
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ほぼ1955年当時の状態に戻った形である(一部異なる箇所があるが後述する)。
1955年当時は駐機場として知花駐車場が設置されていたが、1997年の路線短縮時には新たに中部営業所が設置されている。
さらに終点が知花から普天間へ短縮
この125番・知花線は、2004年4月24日をもって廃止され、翌日より普天間が終点とされ、更に区間が短縮された25番・普天間空港線となったが、こちらにも中城経由はちゃんと引き継がれた。
短縮後の運行ルートを示す。
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那覇交通から那覇バスへの移管時には、運転手不足から本線は大幅に減便されたが、中城経由は変わらず存続した。
ただその後は需要が減少したのか、2008年3月23日のダイヤ改正で中城経由は、土曜日・休日の便が廃止されたほか、平日は1日2本(普天間発7時10分、16時10分発、那覇空港7時、16時20分発)$${^5}$$から1日1本(普天間7時25分発、那覇空港14時発)$${^6}$$に減便された。
2016年3月28日のダイヤ改正では、朝の通勤・通学時間帯以外の便が普天間発着からイオンモール沖縄ライカムに延長されたことにより、日中に運行されていた那覇空港発の中城経由は、本線と同様にイオンモール沖縄ライカム行きとなった(早朝に運行されていた普天間発はそのまま)。
2017年に普天間向け1本のみに
2017年11月13日のダイヤ改正で、那覇向けの中城経由は廃止され、現在のように普天間方面向けのみの片方向のみ1日1本の運行となっている。
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2023年9月時点で那覇空港14時50分発、イオンモール沖縄ライカム16時30分着であるが、小中学校の下校時刻とは微妙にずれる気がするので、日中の利用者向けの需要であろうか。ただこれに乗っても、中城経由の沿線上へはバスでは戻れない。
2回実施された途中経路の変更
那覇バスターミナル~普天間の間では、1981年当時から大きく2箇所で経路が変更されている。
棚原経由から我如古経由に変更
1箇所目は、棚原経由から我如古経由への変更である。1981年当時の路線図$${^7}$$によると、浦添市の西原入口から西原町の棚原を経由して上原に向かっていた。現在の97番・琉大線に近いルートであるが、当時は旧道経由であるため、微妙にルートは異なり、廃止された医学部前などを経由していた。
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我如古経由に変更された詳細な時期は不明であるが、1985年4月1日より、医学部前を経由していた路線が、新設される琉大附属病院前を通るルートに変更されるという新聞記事があり、そこには97番・宜野湾線、102番・コザ線の2路線の記載があるが、25番・石川線(中城経由)の記載がないことから、1985年時点では既に我如古経由に変更されていたのかもしれない(単に記載が漏れているだけ可能性もあるが)。
那覇交通株式会社(銀バス)は4月1日から新琉大線の路線を一部変更、新しく「附属病院前」のバス停を設けることとなった。
琉大付属病院が西原町上原に移転したもののバス停は病院から約500メートル離れた医学部前にあるため、外来の通院患者は不便をかこっていた。大学、総合事務局運輸部、バス会社との話し合いで詰めた結果、4月1日の便から宜野湾線92番、コザ線102番が従来の医学部前を経由し付属病院に乗り入れることになった。
(筆者注)「宜野湾線92番」となっているのは「宜野湾線97番」の誤記だと思われる。
なお、中城経由は、我如古~上原間で県道34号線を経由しているが、ウィキペディアによると、この県道34号線の我如古以東は、琉球大学が首里から西原に移転してきてから整備されるようになったとある。
「97番・琉大線の歴史を調べてみた」でも書いたが、琉球大学の移転は1985年4月1日をもって完了したことから、時系列的にも一致する。
大謝名 - 真栄原間は比較的整備されていたが、我如古以東は1981年(昭和56年)に琉球大学が現在地に移転されるまで道路状況がよくなかった。本格的に整備されるようになったのはその後からで、従来とは別ルートで整備され、終点も西原町棚原から東海岸の内間に変更された。
太字は筆者によるもの
他方、上原キャンパスへ1984(昭和59年)8月2日に医学部附属病院が移転した。1985年(昭和60年)4月1日に、資料館(風樹館)が千原キャンパスに設置されることによって、新キャンパスへの断続的な移転・統合を伴う整備事業は、全て完了した。これらの事業によって本学の施設と基本的な学部・学科体制が整ったと言えよう。
太字は筆者によるもの
野嵩入口経由から野嵩一丁目経由に変更
2箇所目は、野嵩入口経由から野嵩一丁目経由への変更である。これは現在は野嵩入口というバス停自体が存在しないことから、地図で説明しないと伝わらないであろう。
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上記のように、県道35号線を通るルートであったのだが、1本南側の市道(都市計画道路:喜友名登又線)を通るルートに変更されている。県道35号線は、かつて東陽バスの59番・新垣線が経由しており、中城村内でも競合していたことから、差別化が目的であろうか。
野嵩一丁目経由に変更された時期は不明である。1981年当時の路線図$${^7}$$では野嵩入口経由であるが、1993年当時の路線図$${^8}$$では野嵩一丁目経由となっているので、1980年代に変更されたのだろうか。
1977年当時でもレア系統だった中城経由
昔の新聞記事に、中城経由に関する記事が1つだけ見つけきれた。ただ、記事というよりは投書欄である。
銀バスの栄野比線に園田から志真志までのつもりで乗車した。普天間の役所前まで来て左折するので「これはしまった」と思ったときは、後の祭りである。中城経由のバスに乗せられてしまったのである。
(中略)
バスの前面上方の路線表示ワクには確かに小さく「中城経由」であることが表示されてある。ところが、フロント・ガラスには大きく石川-首里-那覇と書いてある。
これを見る限りではだれでも、普天間-真栄原-首里経由しか頭に浮かんでこない。これが「中城経由である」ということは、よほどの人でない限り気づかないと思う。十余人がこれを当然、普天間-真栄原-首里経由であると見て乗車したのである。
1977年当時から、中城経由はレア系統だったようだ。
なお下記の写真のように、系統番号である「125」のプレートを掲示する代わりに「中線」というプレートを表示させたバスもいたようである。上記の新聞への投書でもあったような本線との誤乗防止のためであろうか。
那覇交通 中線サボ付き pic.twitter.com/QqRTm0MvZI
— ニュー酔っ払いさん (@tadanoyopparai) August 15, 2022
脚注
陸運関係資料 バス関係財務諸表(1968年10月~1970年10月 琉球政府企画局企画部)p.160
バス・タクシー・ハイヤー運賃及び粁程表(1975年7月 沖縄観光速報発行)
昭和53年度 業務概況(1979年 沖縄県陸運事務所発行)p.21
沖縄本島バスルートマップ(2006年12月 沖縄県バス協会発行)
沖縄本島バスルートマップ(2009年3月 沖縄県バス協会発行)
那覇交通株式会社創立30周年記念誌(1981年4月 那覇交通発行)p.185
運賃及び粁程表 平成5年11月1日改定(1993年11月 沖縄県バス協会発行)
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