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97番・琉大線の歴史を調べてみた

沖縄アーカイブ研究所に「【FILMS】琉大新キャンパス 1980 No.1〜2」という記事があり、掲載されている動画では、琉球大学が首里キャンパス(那覇市)から、現在の千原キャンパス(西原町)に移転してくる途中時点の様子が見られる。

この動画の2分8秒あたりのところで「97」というプレートを付けて「貸切」の方向幕を出した那覇交通の路線バスが出てくる。「97番」は、那覇バスターミナルと琉大北口駐車場を結ぶ97番・琉大線として現在も運行中であるが、記事によると動画が撮影された1980年6月前後の琉大移転に合わせて運行を開始したようである。

この97番・琉大線の歴史について調べてみた。

ウィキペディアの「沖縄本島のバス路線」

まずはウィキペディアから。
「沖縄本島のバス路線」という記事があり、その中に「97:琉大(首里)線/297:沖国琉大快速線」の節があるが、他の路線と比較すると詳細な記述があり、また運行開始から現在に至るまでの記述がある。
これによると、1977年4月10日に97番・宜野湾線の運行が開始され、さらに首里キャンパスと千原キャンパスを結ぶ急行便があったようである。また、急行便はほとんどの学科が千原キャンパスへ移転した1977年8月頃に廃止されたとある。さらに路線名は、当初は宜野湾線であったが、のちに新琉大線に変更され、市内線の16番・琉大線が廃止された後に、琉大線に変更されたとある。

・琉球大学が首里城跡にあった頃は、系統番号16番(琉大線)が市内線として運行されていた。
1977年4月10日 琉球大学内の一部学科が西原町(当時は西原村)の千原キャンパスに移るにあたり(同年5月11日に移転開始)、市外線として系統番号97番(宜野湾線)の運行を開始。また、当時一部学科はまだ首里キャンパスにあったため、そこと千原キャンパスとを結ぶ急行便を運行開始。のちに97番(新琉大線)に路線名が変えられる。
1977年8月頃 ほとんどの学科が千原キャンパスに移るにあたり、急行便が廃止
後に16番が廃止されたため、路線名を新琉大線から、琉大線に改名。その頃には、ほとんどの施設が首里キャンパスから千原キャンパスに移転していた。

「沖縄本島のバス路線」 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
太字は筆者によるもの

琉球大学70周年記念誌のコラム

次に、琉球大学が2020年8月に発行した「琉球大学創立70周年記念誌」から。
1979年4月入学の元琉大生による、バスに関するコラムがあった。
これによると、首里キャンパスと千原キャンパスを結ぶ無料シャトルバスと、西原入口・棚原・琉大東口を経由して琉大北口へ向かう路線バスがあったようである。また、後者の路線は1982年4月以前には無かったのではないかと書かれている。なお、路線名に関する記述は無い。

 移行期の首里~千原間のバスは2通りあり、1つは、まだ首里キャンパスにあった教育学部の学生用の無料シャトルバスである。これは、学生課に申請し乗車パスを取得して乗るが、運行数も限られていたので、休講の時などに首里のクラブ室への移動や帰寮時に利用させていただいた。
 もう一つが、冒頭で述べた市外線バスである。不確かな記憶だが、1982年(昭和57年)4月以前にはなかった西原入口から東口を通り、終点の琉大北口へと向かう琉大東口路線である。おそらく、法文学部の学生達の利用をねらったものであっただろう。棚原の集落内を通るバスで、車窓にセメント瓦の家や畑が迫り、道幅も狭く、対向車とはギリギリのすれ違いであった。ザザザというギビの葉擦れの音は、この時の記憶である。現在の棚原入口から南上原までの県道29号線はまだ無く、一面にサトウキビ畑が広がっていた。

国立大学法人 琉球大学創立70周年記念誌 (2020年8月 国立大学法人琉球大学発行)p.31
太字は筆者によるもの

那覇交通株式会社創立30周年記念誌

最後に、運行会社である那覇交通(当時)が1981年4月に発行した「那覇交通創立30周年記念誌」から。
これによると、1979年(昭和54年)4月10日に「市外宜野湾線新設運行開始」とある。また、路線図でも現在の97番・琉大線とほぼ同経路の路線である。路線名については、路線図や路線一覧を含めて「宜野湾線」である。1箇所だけ「新琉大線」の記述があったが、これは前後の文章の流れからすると、社内での通称名であろう。

昭和54年4月10日 市外宜野湾線新設運行開始

那覇交通株式会社創立30周年記念誌(1981年4月 那覇交通発行)p.103

 当期は会社再建2年目に当り、前期に引続き内部体制を充実し経営基盤の強化をはかるため、諸施策を立案実施し相当の効果をあげることができました。
 その主なものは次のとおり
路線の改善合理化
 豊見城団地線、新琉大線、地域住民の要望により新設、新空港線、観光客、空港利用者のニーズに沿ってダイヤ再編。

那覇交通株式会社創立30周年記念誌(1981年4月 那覇交通発行)p.101
太字は筆者によるもの

運行開始はいつ?

さて3つの資料を見てみたが、部分的に一致する内容もあるが、大半が不一致である。

まず運行開始日だが、3資料の記述は以下の通りである。
・ウィキペディア:1977年4月10日
・琉球大学70周年誌のコラム:1982年4月以降
・那覇交通30周年誌:1979年4月10日
これに関しては、那覇交通30周年誌が正解であると思われる。
第一に、運行会社が間違う可能性は低いであろうという理由から。第二に、琉球大学70周年誌に「1979年3月15日の農学部の千原キャンパスへの移転に始まり」とあることから、それ以前に運行を開始することはないだろうし、1979年3月移転開始で、同年4月の新学期開始からの運行開始は筋が通るからである。

 第五に、1984年(昭和59年)には首里キャンパス等から西原、千原キャンパスへの全学部・施設の移転が完了したことにある。1979年(昭和54年)3月15日の農学部の千原キャンパスへの移転に始まり、同年10月15日には工学部・短期大学部工学部系が、翌1980年(昭和55年)3月31日には理学部と短期大学部自然系が移転した。1981年(昭和56年)2月25日に教養部が、同年3月31日に法文学部と短期大学部文系が、同年8月16日には附属図書館が移転した。翌1982年(昭和57年)3月12日に教育学部が移転した。

国立大学法人 琉球大学創立70周年記念誌 (2020年8月 国立大学法人琉球大学発行)p.23
太字は筆者によるもの

ウィキペディアの1977年運行開始の出典が不明だが、4月10日という日付は那覇交通30周年誌と一致するため、1977年ではなく1979年の誤記か。
また、琉球大学70周年誌のコラムでの「1982年4月以前には無かった」という記述だが、那覇交通30周年誌以外にも、バス路線の認可元である陸運事務所資料$${^1}$$にて、1979年8月1日時点で既に97番・宜野湾線が運行されていたことが確認できることから、1979年8月時点では運行されていたことが確実である。「不確かな記憶だが」ともあり、コラムの執筆者には大変申し訳ないが、恐らく記憶違いであろうと思われる。

ウィキペディアに書かれている急行便とは?

次に急行便について。
ウィキペディアには、首里キャンパスと千原キャンパスを結ぶ急行便があったと書かれているが、那覇交通30周年誌にはそれに関連する記述は全くない。ただ、これは琉球大学70周年誌のコラムにある、教育学部生向けの無料シャトルバスのことを指している可能性がある。シャトルバスであれば、途中のバス停には停車しないであろうことから急行便とほぼ同じであり、また路線バスではないことから、那覇交通30周年誌に記述がないのも当たり前である。
仮に急行便=シャトルバスだとして、さらにウィキペディアには、1977年8月頃に廃止とあり、前述の通り1977年は1979年の誤記だとすると、1979年8月頃に急行便(シャトルバス)は廃止されたことになっている。だが、先ほど引用した琉球大学70周年誌によると、農学部に続いて移転を開始した工学部が1979年10月15日から移転開始のため、1979年8月時点ではほとんどの学科どころか農学部しか移転していない状態である。また、教育学部生向けであれば1982年3月12日の移転完了まで廃止されることはないであろう。よって、1979年8月頃の廃止というのは恐らくこれは誤りであると思われる。

 第五に、1984年(昭和59年)には首里キャンパス等から西原、千原キャンパスへの全学部・施設の移転が完了したことにある。1979年(昭和54年)3月15日の農学部の千原キャンパスへの移転に始まり、同年10月15日には工学部・短期大学部工学部系が、翌1980年(昭和55年)3月31日には理学部と短期大学部自然系が移転した。1981年(昭和56年)2月25日に教養部が、同年3月31日に法文学部と短期大学部文系が、同年8月16日には附属図書館が移転した。翌1982年(昭和57年)3月12日に教育学部が移転した。

国立大学法人 琉球大学創立70周年記念誌 (2020年8月 国立大学法人琉球大学発行)p.23
太字は筆者によるもの

結局のところ、急行便(シャトルバス)はいつまで運行されていたかの確実な情報はないが、教育学部の移転が完了した1982年3月をもって廃止となったと考えるのが、自然ではなかろうか。

路線名の変遷は?

そして路線名についてであるが、これについては結局正解が不明であった。
少なくとも那覇交通30周年誌より、1979年4月10日の運行開始時から1981年3月1日までは「宜野湾線」という路線名であったことは確実なのだが、いつ「琉大線」に変わったのかが不明である。
なお、ウィキペディアでは、一時期「新琉大線」であったと書かれているが、これは1983年10月に琉球大学(千原キャンパス)で開催された秋季学術大会プログラムの交通案内に「新琉大線」の記述があることから、「宜野湾線」→「新琉大線」→「琉大線」という変遷は間違いなさそうである。

3.会場への交通案内
(1) 会場校琉球大学へは、航空機利用の方は那覇空港から、那覇交通(銀)バスで系統番号(7)空港線(約20分ごと)、または(24)大山経由石川線(約15分ごと)に乗り、「市外線バスターミナル」、または「那覇保健所前」で下車、(97)新琉大線(那覇交通(銀)バス)で「琉大東口」下車、または(98)バイパス経由琉大行(琉球バス)で「琉大北口」(終点)下車にお乗り換え下さい。ただし、琉大行バスの日曜・祭日の運行回数は、平日の半分以下(約1時間ごと)になりますので、タクシーのご利用をおすすめいたします。

1983年度 秋季学術大会プログラム p.657
太字は筆者によるもの

ウィキペディアによると、「新琉大線」から「琉大線」に変更されたのは、市内線の「16番・琉大線」廃止後とあるが、那覇交通30周年誌より、琉大首里キャンパスの前を通る路線の路線名は「16番・琉大線」ではなく「16番・金城線」であったことが確認できる。しかも、この「金城線」は、同じく30周年誌によると、1979年(昭和54年)2月27日に17番・石嶺線に統合される形で廃止されている。

昭和53年7月30日 金城線運行休止
昭和54年2月27日 金城線を石嶺線へ吸収併合

那覇交通株式会社創立30周年記念誌(1981年4月 那覇交通発行)p.101

よって、市内線の16番・琉大線は存在しない上に、仮に16番・金城線を16番・琉大線だったと読み替えても、97番・宜野湾線の運行開始時(1979年(昭和54年)4月10日)には既に廃止されていたのである。

「新」が取れるタイミングとしては、首里キャンパスから千原キャンパスへの移転が完了し、キャンパスを混同しなくなった時点が想定される。琉球大学70周年誌によると、1985年4月1日に新キャンパスへの移転がすべて完了したとあり、可能性としてはこのあたりで現在の「琉大線」になった可能性がある。

 他方、上原キャンパスへ1984(昭和59年)8月2日に医学部附属病院が移転した。1985年(昭和60年)4月1日に、資料館(風樹館)が千原キャンパスに設置されることによって、新キャンパスへの断続的な移転・統合を伴う整備事業は、全て完了した。これらの事業によって本学の施設と基本的な学部・学科体制が整ったと言えよう。

国立大学法人 琉球大学創立70周年記念誌 (2020年8月 国立大学法人琉球大学発行)p.23
太字は筆者によるもの

運行開始日以外は推測となるが、97番・琉大線の沿革を整理すると以下の通りである。
・1979年4月20日:宜野湾線として運行開始
・1982~1984年:宜野湾線から新琉大線に路線名を変更
・1985年ごろ:新琉大線から琉大線に路線名を変更

最初に紹介した動画は1980年6月撮影なので、97番の運行開始から既に1年ほど経過した時点である。途中で出てくる「貸切」幕を出したバスは、もしかすると琉球大学70周年誌のコラムに出てきた、首里と千原の両キャンパスを結ぶ無料のシャトルバスだったのかもしれない。

注釈

  1. 昭和53年度 業務概況(1979年 沖縄県陸運事務所発行)

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