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No.44 あなたの心の小石の形はが

卓上に平たくてすべすべした石が数個ありました。カミさんから「イリイリ」と言うのだと教えられました。

「イリイリ」とは、ハワイ語で「小石」の意味だとか。フラダンスの時に、それぞれの手に二つずつ計四つを持ち、カスタネットのように打ち鳴らして使う楽器だそうです。乾いたようなクリアに響く音が出るものが良いといいます。

それを見ていたら、ふと、向田邦子の『男どき女どき』(1982年、昭和57年)収載の「無口な手紙」という作品の中にある「石文」(いしぶみ)の話を思い出しました。少しだけ引用します。

「自分がおしゃべりのせいか、男も手紙も無口なのが好きである。
 昔、ひとがまだ文字を知らなかったころ、遠くにいる恋人へ気持を伝えるのに石を使った、と聞いたことがある。
 男は、自分の気持ちにピッタリの石を探して旅人にことづける。受け取った女は、目を閉じて掌に石を包み込む。
 尖った石だと、病気か気持がすさんでいるのかと心がふさぎ、丸いスベスベした石だと、息災だな、と安心した。」

向田邦子は、猫好きで饒舌家でした。「現代人は、よくしゃべる。」と言われます。言って伝えなければ、自分の気持ちを相手に分かってもらえないだけでなく、何も考えていない人間だと誤解されたくないという強迫観念もあるのでしょうか?欧米化されつつあるこの考え方は、相手の気持ちを「忖度」(政治の世界で使う意味ではなく)することを尊ぶ伝統的な日本人の精神構造を変質させつつあるように思えます。

「言ひおほせて、何かある。」とは江戸時代の俳人、松尾芭蕉の言葉です。「ものごとを何でも言い尽くしてしまえば、後に何が残ろうか。余韻も何もないではないか。」
(向井去来『去来抄』)の意味でしょう。「言わぬが花」(露骨に言ってしまっては興醒めし、黙っている方がかえって趣があったりする)ということだってあるのです。

そう言えば、映画「おくりびと」(2008年、平成20年)に、「石文」のエピソードがありました。主人公(納棺師)が、川原で妻に小石を手渡し、失踪した父から教わった石文のことを話すシーンです。「おくりびと」の脚本家、小山薫堂は、向田邦子のエッセイで「石文」を知り、映画に使おうと思ったと言います。

自分の心を石に仮託し、言葉でなく、形で相手に伝え、悟ってもらうこの伝授法は、いかにも日本的ではあります。私は、外国の古代文明の人々の中にも石で気持ちを伝える心の交流のあったことをTVで見た記憶があります。石は、どこにでも転がっている訳ですから、世界中に古くからある有効な伝達手段の一つだっただろうと思います。

もしそうなら、「相手の心を、身体を想像し、思いを伝える」方法は、世界中に共通で、相手を思いやる忖度の力は、人類の共有財産だったはずなのです。世界が分断され、国が生まれ、相手を負かす言葉を獲得して以来、忖度する心は追いやられ、失われて行ったのでしょうか。

文字ではなく、物に心を託した時代の産物(遺物?)として扱われがちの「石文」ですが、逆に、現代人が見落としがちな「思いやる心」の大切さを教えてくれているように私には思われます。

我が家の卓上にある平たくて円形のすべすべの小石は、心地よげに外の光を浴びていました。