No.850 K代の夢
その昔、男性は「看護士」、女性は「看護婦」と呼ばれていました。しかし、2001年(平成13年)に「保健婦助産婦看護婦法」が「保健師助産師看護師法」の名称に変わったことを受け、2002年3月より男女共に「看護師」と統一されました。 男女雇用機会均等法による職業間の男女平等という考え方が、呼び名にもうかがわれます。
今日のお話は、まだ「看護婦」と呼ばれていた時代の高校生の弁論大会の発表です。彼女の発表は、大きな感動を呼びました。どうぞ、最後までお付き合いください。
「 将来の夢 K.K.
私の将来の夢は、看護婦になる事です。看護婦になりたいと思ったのは、中学2年の時からでした。でも、まだその頃は、
『給料が高く、白衣の天使と親しまれ、胸を張って誇れる仕事だから』
というような曖昧な理由でしか考えていなかったように思います。しかし、時が経つにつれて、そんな考えも私の心の中で大きく変わらないわけにはいかなくなりました。
去年の夏の事です。父が仕事から帰宅し、お風呂に入っている時、全身にけいれんが起き、倒れてしまいました。私たちはすぐに伯父を電話で呼び出し、伯父が慌てて近くの救急病院に父を連れて行ってくれました。
私はその時、生まれて初めて父のあんなに苦しむ姿、そして、家族に心配させまいと必死に痛みに耐えようとしている姿、時折見せる涙目の顔を見ました。私は、何一つ父に対してなすすべがなく、胸が苦しく、いたたまれなくなり、涙が止まりませんでした。それを感じたのは弟たちも同じでした。
一番下の弟が、
『お姉ちゃん、お父さん大丈夫だよね。絶対大丈夫だよね。死んじゃったりしないよね。』
とタオルを目に当てながら私に訴えてきました。
『うん、大丈夫。絶対に死んだりしない。カズ君たちを残して逝ったりしないよ。』
と自分にも言い聞かせるように言いました。
そんな私たちを見て、ある看護婦さんが、
『お父さんは、大丈夫よ!』
と言って、私の背中を軽くたたいて励ましてくれました。温かいものが体を流れました。
中には、仕事に慣れているせいか、冷たい感じのする看護婦さんもいました。私は、その時、いくら慣れても冷たい看護婦さんではなく、人の心の痛みが分かる看護婦になりたいと思いました。
そんなことを私が感じていた時、一番つらいはずの母は、涙も見せずに何度も強く父を励まし続けました。極度の緊張感もありましたが、きっと父を信じ、絶対に大丈夫だと思っていたからでしょう。
その夜、私たち家族は父が心配で、病院に付き添い、ほとんど眠らずに看病しました。父は時折り痛みのためか唸り声を上げましたが、私たち家族の名前を呼び、弟たちに
『お母さんやお姉ちゃんを頼む。』
と遺言のようなことを言うので、そのたびに涙がこぼれ、止まらなくなり、父の足をずっとさすり続けました。
看護婦さんは、痛み止めの注射を打ったり、シーツを換えてくれたり、父に手厚く看護をしてくれました。その姿を見て、私は初めて心の底から看護婦となり父のように病気で苦しんでいる人たちの役に立ちたい、助けたいと思いました。曖昧な憧れから真の使命感へと私の心は変化したのです。
父は二度の大手術を行いましたが、お医者さんや看護婦さんの献身の甲斐があって、職場復帰できるまでになりました。しかし、再発の不安は去ったわけではなく、もう一度手術することになっています。そのため、家族の絆や互いを思い合う気持ちは、以前にも増して強くなりました。私は、父のためにも看護婦になりたいと心に決めました。
看護婦への道の第一歩として、看護学校に進学し、専門的知識を身に着け、多くの実習体験をして力を蓄えていかなければなりません。そのために、放課後、先生にご指導をいただいたり、問題集を何度も解いたりして、秋の受験に備えています。
この夢が現実のものとなるように、私は頑張っています。」
発表を終えて数日後、K代が一言コメントを寄せてくれました。
「緊張をしたけれど、後から感想をたくさんもらえてとても嬉しかった。」
緊張を力に変えた彼女の発表は、多くの人から感想文をいただくというご褒美につながりました。
彼女は、念願の進学を果たし、卒業して行きました。
※画像は、クリエイター・hohoさんの、タイトル「白衣の天使というけれど」をかたじけなくしました。お礼を申します。コロナ渦中にあって、医療従事者の皆さんの献身に、心からの感謝と敬意を申し上げます。