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No.772 その男の一念を貫いた高い志とは?

「モノ作りは設計した人の思想の結集したもの。そこをいかに汲み取ってあげるかです。」
そう語ったのは、「万年時計」の「復元・複製プロジェクト」の指揮を執った土屋榮夫リーダー(元、セイコー技術者)でした。
 
昨日22日は、19日に放映されたTV「プレミアムカフェ 万年時計 江戸時代の天才が生んだ驚異の時計」の録画をじっくり見なおしました。「東洋のエジソン」と言われる発明家の生んだ最高傑作の時計です。
 
その発明家とは、久留米のべっ甲職人のいえに生まれ、のちに「万年時計」を作製した田中久重(幼名、儀右衛門、1799年~1881年)です。その「万年時計」が機械時計の最高傑作と言われるのには、所以があります。
 
その上部には、太陽と月の動きを表す①天象儀があり、側面には、②和時計、③二十四節気、④曜日と時刻、⑤十干十二支、⑥月の満ち欠けを表す月齢、⑦現代の洋時計の7つの機能が配置され、全てが自動であり、鐘も鳴ります。しかも、1度動力であるぜんまいを巻けば1年間動くという、まさに手間いらずの画期的な優れものだったからです。
 
1834年、大阪で商売をし、1837年には38歳で京都に店を構え、「人々の生活に役立つ商品」を作って売る事を使命として励みます。その後、1847年に48歳で天文学を学ぶために陰陽道(天文学)の宗家である土御門家に入門し、天体の動きなどを観測しました。
 
驚くのは、自宅から土御門家までは片道8kmもあったというのに、1日も欠かさず歩いて通い続けたということです。その日の自分の仕事が済んでから土御門家に向かうわけですから、当時の睡眠時間は、1日わずかに2~3時間。それこそ寝食を忘れて学んだといいます。芯が強く、根性の座った、おそるべき技術者であり研究者だったのでしょう。
 
それから3年後、久重は51歳にして「万年時計」を完成させます。それは、それまで季節により錘を移動させる必要があったり、目盛版を取り換える必要があったり、動力を巻き直したりしなければならなかった様々な時計の不都合を一気に解消してしまうものでした。「人々の生活の役に立ちたい」思いの理想形が、形となって表れた瞬間でした。
 
彼の店の暖簾には、「万年自鳴鐘師」と書かれた暖簾が掲げてあったそうです。そこに「万年時計」に対する彼の矜持を見ます。彼は、こんな言葉を残しているそうです。
「知識は、失敗より学ぶ。
 ことを成就するには、
 志があり、忍耐があり、
 勇気があり、失敗があり、
 その後に成就があるのである。」
 
何だか「プロフェッショナルとは?」の問いに答え言葉のようです。82歳の生涯でしたが、
「高い志を持ち、日本の『ものづくり』の礎を築いた人物である。」
と番組はまとめました。
 
とことんこだわらなくても、彼の技術力をもってすれば、無難にやってもそれなりの成果があったことでしょう。しかし、飽くなき追求の手を緩めず、己の信じる事を納得のゆくまでチャレンジしてやり抜こうとする一途な精神力は、ひとえに「人々の生活に資するため」という強い思いに支えられていました。そして、困難に諦めずに挑戦し続けたことを、プロジェクトリーダーの土屋榮夫さんは「万年時計」に秘められた苦労の結集の中に見ました。
 
幕末から明治にかけて駆け抜けた「モノ作り名人」は、その後、電信機関係の製作所である「田中製造所」を設立しました。久重の死後、田中製造所は移転して「株式会社芝浦製作所」となりました。更に他社と合併して「東京芝浦電気株式会社」(東芝の前身)となったのだそうです。私の頭の中でヘーボタンが乱打していました。
 
トーマス・エジソン(1847年~1931年)は、久重の48年後に生まれています。同時代に、日本とアメリカで人々に役立ち、人々の生活に潤いをもたらした発明王が研究に没頭し、豊かさを遺してくれました。
 
私は何度生まれ変わっても久重のようにはなれないし足元にも及びませんが、彼を心から敬慕することはできると思いました。


※画像は、クリエイター・みれのスクラップさんの、タイトル「Midjourney:健康推進バッジ?音楽を聴くカップル」をかたじけなくしました。お礼申し上げます。