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No.601 我が家でのささやかな平和学習のお話

もう40年近くも前のお話です。在職中に「平和学習」ということで、有志の生徒を我が家に呼び、母に戦争体験を話してもらったことがあります。1928年(昭和3年)に大分県東国東郡(現、国東市)安岐町両子に生まれた母は、終戦の年に17歳。まさに、生徒達と同じ年齢でした。

50代も終わりに近づいていた当時の母は、その日がいつだったか、正確には覚えていませんでしたが、稲の葉が青々とした夏の或る日だった事だけは覚えていました。なぜなら、稲の間に倒れ込んだからです。

「朝、一人じ学校に向かいよったらなあ、なんか空から音がしちきちなあ、アメリカん飛行機が飛んじきたんじゃ。とっさの事じゃろ、慌てちなあ、もう『急いで逃げんと!』と思うち、とにかく青々とした田圃ん中に隠れようと飛び込んだんじゃあわ。そしたら、『ダダダダツ!』っち撃っち来たんで!もう、生きた心地がせんじゃった。そん時、米兵ん顔が見えるくらい低かった。飛行機は、戻っち来んかったから助かったけど、あん時は『ああ、こげなとこじ、死ぬんか』ち覚悟したなあ。」

戦時中の配給の話、学校の話、食べ物の話、友達の話、出征した人の話、青年団の話、いろんな話をしてくれた中で、うろ覚えですが、先程の話だけは強く印象に残りました。我が家にやって来てくれた数名の男子は、母の顔を見つづけながら真剣に聴いてくれました。

「あんたたちは、幸せじゃ。私たちゃ、家族も青春ものうなった。あん時ゃ、誰ひとり、こげな時代が来ると思われんかったじゃろう。あんなことで命がけにならんでんいい時代になっち、ホントに良かった。自由があるち、いいなあ。命を粗末にすんなえ。そしち、家族を大事にしよえ!」

母は、そう言って話を終えました。私は、実感の伴った母の話に大いに考えさせられましたが、その事実認定については知りようもありませんでした。その母は、2013年(平成25年)12月に85歳で鬼籍に入りました。母の戦争が、漸く終わりました。

今年、8月に入り、ふと「国東空襲の記録がないだろうか?」と思ってネット検索したら、「市報 くにさき No113」(2015年8月号)にヒットしました。そこには、「語り継ぐ戦後 70年前の記憶」という特集記事がありました。その中の重吉ヨリ子さんの「7月25日の朝」(市報P6)という記事を読んで、私は目を丸くしました。

「私は、国東町小原にある家から国東高等女学校に毎日歩いて通っていました。7月25日の朝も、私はいつもどおりみんなより早く着き、荷物を教室において、廊下に出て何気なく空を眺めながら、今日も校庭に植えている芋の世話をするのかなと思っていました。
 7時40分頃、眺めていた北の空にいきなり、低空飛行する敵機が現れました。パイロットの顔がわかるくらい近くになったとき、いきなり爆弾が投下されました。
 私は、立ち尽くして目を閉じてからの記憶はありません。どうやって移動したのか、誰かに連れて行ってもらったのか分かりませんが、気付いたら、校庭の端にあった防空壕の中にいました。次の日に爆弾の跡を見ると3mくらいの穴がありました。この爆弾で亡くなられたNさんとWさんも私と同じく廊下に出ていたのは知っていました。落ちた場所がたまたま2人のいたところに近かっただけで、もしあの爆弾が少しずれて私の近くに落ちていたら、亡くなっていたのは私だったのではないかと思いました。
 でも、私は、死ぬことは怖いと感じたことはありませんでした。それは、私だけに限ったことではないと思います。爆撃されても機銃掃射されても、次の日には通常どおり学校はあります。それは、逃げる場所もなかったし、そういう時代だったとしか言いようはなかったのではないでしょうか。
 戦争を知らない人は、今の平和をありがたいと感じるときがあるのかなとふと思うことがあります。」

それは、母のあの日の記憶と重なっていました。安岐町と国東町は飛行機なら一瞬の距離です。昭和20年7月25日、国東町で爆弾を投下し、安岐町で機銃掃射した、偶然にも母は、その日その場に出遭ってしまったのでした。その記事は、母が生徒たちに話してくれたあの日から更に30年近く経っていました。

今年は、戦後77年目です。復員した厳しかった父を、命拾いした優しかった母を思い出す暑い夏が来ました。