No.1321 腕に覚えあり!?
「世代交代」の四文字を脳裏に刻んだ思い出です。
山村のわが家は、子どもの頃、祖父母、両父母、兄、私、妹の7人家族でした。祖父母と母は農業に従事し、父は社会科の教員を生業としていました。
祖父・松宇は1893年(明治26年)生まれの厳格な家長で、長男の父も顎で使うほど君臨していました。頭のてっぺんから爪先まで農夫、そして山仕事の男でした。身長こそ低かったけれども、がっしりとした体格でした。夏の昼食後など、褌一丁で寝そべっているときの祖父の胸の厚みの凄いことと言ったらありません。小学校6年生の私は、「働く男の胸」に目を見張ったことを覚えています。
その封建的家父長制度の色濃く残る、一種横暴な祖父に、父はいつの日か目にものみせてくれようという気概を持っていたものと見えます。1967年(昭和42年)、中学2年生の夏だったと思います。柔道部員だった私は、我が家族を牛耳っていた祖父に、口では適わないので「腕相撲」の挑戦状を叩きつけました。
「フン!」と鼻で笑った祖父に一矢報いんと、柔道で鍛えた私は、両袖をたくし上げ、自信満々に挑みましたが、爺の腕は、びくともしません。身の程を知り、祖父からの返り討ちに遭うのに10秒とかかりませんでした。
それを見ていた父が、
「それじゃあ、ワシとやろうえ!」
と息子の仇を討たん(?)と、いえ、実際は、日頃の意趣返しにと膝を前に進めたのです。その時、部屋の空気が一変しました。祖父74歳、父46歳の夏です。
「よーい、ドン!」
の合図で、家長の祖父と長男の父との、手に汗握る「腕相撲」が始まりました。禿げ頭の祖父の頭から湯気が出るくらい、父は、ゆでダコもかくやと思われるくらい顔を真っ赤にして、それはもう「しら真剣」に勝負しました。
「爺ちゃんがんばれ!」
「お父さん、頑張れ!」
男の意地と沽券がぶつかり合い、1歩も退かぬぞと睨み合う二人の間で火花が散っているようでした。
何秒経ったかは分かりませんが、だんだん父の方に拳が傾いてきました。爺ちゃんは、鼻の穴を広げ、青筋を立てて息子の挑戦に真っ向勝負しました。そして、勝敗は決しました。悔しさと恥ずかしさで、ちょっと頭の後ろを搔きました。それが、祖父の「降参」の印でした。
この日を境に、「世代交代」の文字が形をとって現れるようになりました。たかが「腕相撲」でしたが、我が家の大黒柱を据えかえるほどの意味を持っていました。父の胸が、反ったように思われたのは、私の記憶違いではなかったように思います。
今年の7月30日に長野から娘と孫2人が、8月2日に埼玉から息子と家族4人が帰省してくれました。わが家は、小型台風が猛威を振るい「喜怒哀楽」のリズムを奏でる日々です。幸せの四重奏です。
昨夜は、夕食後にいくつかのゲームをしたのですが、なぜだか、子どもと大人が入り混じって「腕相撲」が始まりました。隣部屋で仕事していた私に、
「ジージが、強いんじゃ!」
と息子が、孫たちをけしかけます。しぶしぶ立ち合った私ですが、孫たちの成長をこんな形で知ることも、母となった娘や義娘の腕力の侮れないことを知ることも出来ました。すると、孫たちが、
「ジージと父さん、やってよ!」
と、あの57年前の記憶がよみがえるようなことを言いました。
息子は嬉しそうでした。多分、小学校以来、経験したことのない勝負だったからです。本当に久しぶりに息子の手を強く握りました。ところが、
「まだまだ、若いモンには敗けん!」
と私に息巻く暇を与える事もなく、あっという間に逞しい腕から決着をつけられました。あらま!!
部屋中が、明るい笑いに包まれました。何ルクスか、私も貢献できたように思います。悔しさよりも嬉しさがやって来ました。私71歳、息子36歳の夏のことでした。
わが家の「世代交代」は、私が退職した11年前に、妻へと…。
※画像は、クリエイター・素晴木あい@ AI絵師さんの、「台場一丁目商店街」の腕相撲ゲーム機の1葉をかたじけなくしました。お礼申し上げます。