No.1036 祖母と月
祖母は、信心の篤い人でした。毎日の「おごく」(御御供)の上げ下げの時にも、お参りの時にも、心を込めて神仏に拝みました。明治生まれの農家の女性でした。
小学生の頃、そんな祖母と何度か一緒に念仏信仰の夜の会所に行ったことがありました。懐中電灯の明かりを頼りに小1kmほど離れた家を歩いて訪れます。ひなびた山村です。60年も前のことで、夜中に通る車などめったにありませんでした。
住職はおらず、信仰心のある村人だけが個人宅に集まりました。数人で経本を手に手に読経をし、御詠歌(和賛)を唱えます。私は、経本の文字と、大人の声のリズムをなぞるだけなのですが、それでも、何やら心がすうっとして来ます。信心はなかったと思いますが、子ども心にも敬虔な気持ちになったことは覚えています。
「お経はな、聴いちから有り難い恵みをもらうんじゃが、和讃はな、自分が声を出しち三十三か所のお参りをしち、初めて功徳を受くるんで!」
と祖母は言っていました。私には、なんのこっちゃ?という感じでしたが…。
帰り道に夜空を見上げると、満月の周りに暈がかかっていました。
「明日は、雨になるんじゃろか?」
と祖母が言いました。確かに、農家の老予報士の的中率は高かったように記憶しています。
子ども心に「うちん、婆ちゃんは、予言者じゃ!」と思った事があります。
「月影のいたらぬ里はなけれども
ながむる人の心にぞすむ」(法然上人)
とありましたが、喉に棘のひっかかる思いがしないでもありません。確かに、平安末期から鎌倉初期に生きた浄土宗の開祖・法然上人(1133年~1212年)は、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えるだけで極楽浄土へ往生できるという「他力本願」の教えを示されたそうです。
しかし、阿弥陀如来が「念仏を唱える人」だけを救うとか、「月を眺めて祈る人」を救うとか、そんな人間くさい偏狭な考え方をされるのでしょうか?月が見えずとも心に描き祈るめしいもいるように、自らをよく視る心の眼こそ必要なように思われます。
宗教家の描く心の月はいかなるものか、観たい気がします。
※画像は、クリエイター・Coronetさんの、タイトル「2021年 中秋の名月」の1葉をかたじけなくしました。お礼申します。