見出し画像

No.1292 七夕に思いを寄せて

「七夕」と言えば、やはり、建礼門院(平徳子)に仕えた右京大夫という女房の話は外せないのではないでしょうか?
 
平家一門が栄耀栄華を誇っていた時代に、十代の後半から建礼門院女房として宮仕えをし、平清盛の嫡男重盛の次男資盛と恋仲に陥り、壇ノ浦の合戦で恋人を失った悲恋の物語であり、華やかな宮中生活を回顧した歌集でもあります。
 
その彼女の私家集『建礼門院右京大夫集』の中には、歌数360首(他人との贈答歌を含む)中51首(約14%)もの「七夕歌」が含まれています。これは、かなり特徴的なことであり、彼女にとって「七夕歌」がそれほど大きな意味を持っていたからだと思われます。
 
寿永元暦(1182年~1185年)などの頃の世の騒ぎを、
「夢とも幻とも、あわれとも、何とも」
と述懐する右京大夫です。平家一門が安徳天皇を奉って都から西国にくだり、木曾義仲の入京による都の大混乱、後白河法皇が平氏討伐の命令を源頼朝に下し、源義経らが壇ノ浦で平氏を滅亡するという歴史の大転換期の中で生きた女性です。
 
右京大夫は、都から西国に逃れ出る直前の恋人平資盛から、心を込めて頼まれたことがありました。その頼みごととは、
「このような世の騒ぎになったので、亡き人の数の中に入るだろうことは疑いないことです。そうなれば、さすがにいくらかは不憫に思ってくれることでしょうか。たとえ何とも思わなくとも、このように親しく契りを交わしてからももう幾年というほどになった情として、後世の弔い(「道の光」)のことを必ず思いやってくれ。」
という内容でした。
 
資盛の覚悟の通り、元暦2年(1185年)3月24日、壇ノ浦の合戦で平氏は滅亡し、資盛も享年25(?)の若さで海の藻屑となりました。秋の初め(7月初旬)に、その知らせを聞いたという右京大夫は、その気持ちを、
「夢の中で夢を聞いたような心地は、何にたとえられようか。」
とのべています。そして、この悲運を哀れに思わない情けを知る人はいないだろうが、だが、身近な人々でも、私の心の内まで汲み取ってくれる心の友は誰がいるだろうか、いないのだと思われ、仏に向かい奉って、泣き暮らすばかりだと続けるのです。
 
しかしながら、命には寿命があって、自ら命を絶つこともできないばかりでなく、出家することさえ思うに任せず、なおそのままで生きながらえてゆかれるのが辛くて、
「またゝめし類もしらぬうきことを見てもさてある身ぞうとましき」
(ほかにまた、例も類もないような憂くて辛い目に遭っても、なお出家もせず死にもせず、そのままで生きながらえている我が身が疎ましく嫌になってしまいます。)
と自らを責めるのです。
 
そんな彼女にとって、資盛の今生の別れの一言、
「道の光もかならず思ひやれ。」
(後世の供養をきっと頼むぞ。)
という遺言となる最後の願いが、自らを踏みとどまらせ、
「資盛さまの供養を生涯続けよう。」
と決意させたように思います。
 
ところが、毎年、七夕がやって来ます。一年ぶりに織女と牽牛は再会を果たす日(夜)なのに、彼女は永遠に恋人に再会することが叶わなくなってしまいました。その心境を赤裸々に歌に詠みこんで、思いを吐露するのです。
 
271「七夕の 今日やうれしさ 包むらむ あすの袖こそ かねて知らるれ」
(七夕の今日、織女星は牽牛星と年に一度の逢瀬を袖に包みきれぬほど嬉しく思うのでしょうが、明日は別れの涙で、その袖が濡れるのだろうなと思われることですよ。) 
 
277「きかばやな ふたつの星の 物語り たらひの水に うつらましかば」
 (今宵は盥に水を汲んで両星の影を水に映し、二つの星がどんな睦まじいお話をしているか聞きたいものです。) 
 
281「彦星の 行き合ひの空を ながめても 待つこともなき われぞかなしき」
 (彦星と織姫が出逢う七夕の空を眺めるにつけても、もう恋人の姿を待つこともなくなった私のことが、しみじみと悲しく思われます。)
 
283「あはれとや 思ひもすると 七夕に 身のなげきをも 愁へつるかな」
 (私の身の上を同情してくれるかと、織女星にこの身の嘆きを訴えたことですよ。)
 
292「なにごとも かはりはてぬる 世の中に 契りかはらぬ 星合ひの空」
 (すべてが変わり果てたこの世の中で、年に一度の星合いの約束だけは、変わらずに行われているのですね。)
 
297「うらやまし 恋にたへたる 星なれや 年に一夜と 契る心は」
 (羨ましいことだわ。よほど恋心を堪えられる星たちなのかしら。年に一度と稀な逢う約束をした心は。)
 
303「ながむれば 心もつきて 星合ひの 空にみちぬる 我が思ひかな」
 (七夕の空を眺めていると、物思いの限りを尽くして私の心はうつろになる。両星の逢う空いっぱいに満ちる私の悲しみの心で。)
 
312「よしかさじ かかる憂き身の 衣手は たなばたつめに 忌まれもぞする」
 (貸しますまい。このように辛いことの多い私の着物は、織女に嫌われるかも知れないから。)
 
317「書きつけば なほもつつまし 思ひなげく 心のうちを 星よ知らなむ」
 (辛い思いを梶の葉に書きつけるとなると、やはり遠慮されてしまいます。思いに嘆く私の心のうちを、七夕の星よどうぞお察しください。)
 
319「たぐひなき 嘆きに沈む 人ぞとて この言の葉を 星やいとはむ」
 (他に例のない悲嘆に暮れている人だということで、私の手向けるこの歌を、七夕の星は厭わしく思うことでしょうか。)
 
321「いつまでか 七つの歌を 書きつけむ 知らばやつげよ 天の彦星」
 (一体いつまで、私は七首の手向けの歌を書きつけるのでしょうか。知っていたら教えてください。天の彦星よ。)
 
毎年訪れる「七夕」に思いを寄せ、思いを馳せ、右京大夫は悲劇のヒロインにでもなったかのような気持ちで織姫・彦星に訴えかけ続けます。何年間にもわたる七夕歌の中から、彼女なりの構想を以て並べられた歌は、飾り気がなく素直な歌いぶりだと思います。
 
戦乱の世に生まれ恋人(夫)を亡くした悲劇の女性は、彼女に限りません。先の第二次世界大戦で、右京大夫のような身の上になられた女性は数えきれないことを私たちは知っています。戦中戦後にあって『建礼門院右京大夫集』が多くの女性たちに読まれたということです。愛する人を戦禍で失い、生涯思い出に生きながらも供養をし続けた右京大夫への共感の思いの故でしょう。
 
右京大夫の没年は不明ですが、1232年までは生きている(70歳代?)ことが分かっています。今夜の七夕は、700年も前に生きていた女性のことも思いやっていただければと…。


※画像は、クリエイター・さゆりさんの、「七夕」の1葉をかたじけなくしました。どんな「1年間の物語り」をしているのでしょうね?お礼を申し上げます。