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No.670 愛は勝つ?叱られて知る母の恩

「父は照り母は涙の露となり同じ慧(めぐみ)に育つなでしこ」
の歌は、仏様の御心を言ったものだそうで、父親の厳しさと母親の優しさの両面があって子は育つという意味だそうです。
 
「父」の字源は「斧を手に持って強く逞しく働く形」を示し、「母」の字源は「女の真ん中に点々を入れて乳房とし、子供を産み育てる柔らかで優しい形」を示しているという説があるようです。共に象形の文字でしょうが、「父の強さ、母の優しさ」が浮き出た字のように思われます。私は、母子家庭でしたが、父亡きあとの母は厳しさを増し、父代わりとしたように感じました。
 
幼名「千菊丸」は、7歳で父を失い、9歳で比叡山に登り、13歳で師匠の良源の名前から「源」の一字をいただき、名を「源信」と改めて正式に仏門に入りました。15歳の若さで村上天皇に「称賛浄土教」の講義をし、数々の褒美と僧都(僧正に次ぐ僧官)の位を授けられたといいます。
 
源信は、その栄光とあまりの嬉しさに、母から褒められたい一心で手紙と褒美を送ると、意外にも母親からは、落胆と叱責の歌が届きました。
「後の世を渡す橋とぞ思ひしに世渡る僧となるぞ悲しき」
(あなたを出家させたのは、この世で苦しみ迷う人々に生きる喜びを灯し、仏様の世界に渡す橋の役目になって欲しかったからです。ところが、布施を喜ぶ名利の今の姿は、世渡りの道と変わらない。何とも悲しいことです。)
 
送り返されてきた衣や宝と一緒にあった母親からの悲嘆の手紙を読んだ源信は、ポロポロと涙をこぼし、深く自分の間違いを悔いたといいます。そして、天皇からもらった衣や宝は焼き払い、僧都の位までも返上してしまったということです。
 
9歳で家を出、15歳で叱責され、決意のもと一切母親に会うことを禁じ、なりたい自分に向かって修業し鍛錬を積んできた源信が、母親に再会できたのは、実に33年ぶりのことだったといいます。そして、母親の72歳での往生の導きをされたそうです。
 
夫の遺言を守り、身を切る思いで出家させたはずの息子の自惚れを危惧し、心を鬼にした母親の慈愛の深さに身のすくむほどの畏怖を覚えます。母だから出来る、母親にしかできない叱咤激励があるのでしょう。愛ある本音をぶつけたことが、高僧を生み出したと言えるのかもしれません。やはり、最後に愛は勝つのでしょうか?
 
「母は子を二度産む。一度目は赤ん坊誕生として。二度目は人生の開眼の契機として」。
私には、そんな天台僧・源信(942年~1017年)のお話のように思われました。

※画像は、クリエイターてっちゃんさんの、タイトル「ぶつ、ぶつ、だいぶつ」をかたじけなくしました。凝り固まった心がほぐされるような1葉。