見出し画像

No.680 龍之介、讃!

「君看雙眼色 不語似愁無」
(君看よや雙眼の色 語らざれば愁ひ無きに似たり)
 
芥川龍之介が24歳の時に自ら装丁した処女作『羅生門』(1915年)の扉にある言葉です。俗に良寛和尚の作かとも伝えられているようですが、良寛の詞ではなく、江戸中期の臨済僧・白隠禅師が弟子の求めに応じて、大徳寺開山の大灯国師の語録に註を加えた『槐安国語』(かいあんこくご)に見える言葉だといいます。
 
「さぁ、その眼の色を御覧なさい、何も言わなければ憂いが無い様に見えるでしょう。」という意味でしょうか。
「語らないのではなく、語れない、それほどに深い憂い悲しみがあるのです。じっと堪えて、黙っていると眼が澄んでいくのですよ。」
とは作家五木寛之の講演での解釈だといいます。「深い憂いのわかる人間になろう」「重い悲しみの見える眼を持とう」という思いに、若い龍之介は感動し共感したのでしょうか。
 
数年前、津久見を訪れた時に、図書館で除籍された図書を7冊戴いてきました。そのうちの一冊、『心に遺る言葉』(大河内昭爾著・邑書林)に学びました。高校の「国語」に登場する『羅生門』の授業で一度も扱った事のない尊い句でした。龍之介の学識にも恐れ入ってしまいます。
 
その龍之介は、1927年(昭和2年)7月24日未明、『続西方の人』を脱稿したのち、枕元に聖書と遺書をおいて永遠の眠りについたそうです。満35歳の若さでした。
 
龍之介は、自ら
「余技は発句の外には何もない」
と語ったそうですが、終生、俳句に格別の思い入れを持ち続けた人だそうです。短歌や俳句に長じ、短歌や俳句集なども見られます。
 
「水洟や 鼻の先だけ 暮れ残る」
の一句が、自殺直前に書いた辞世とされていますが、松王かをり氏(「現代俳句コラム」平成29年10月16日)が、こんなご指摘をしておられました。
「芥川の死後、香典返しの品として芥川家が作った句集『澄江堂句集』(生前に芥川が自選していた77句)は、ほぼ年代順の配列となっており、掲句は77句中17句目。前後の句の成立年代から考えて、大正10年頃には出来ていたのではないかと考えられる。自死したのは、昭和2年。死を覚悟した際に、自句の中からこの掲句を『辞世の句』として選び取ったというのが、正確なところだろう。」

研究者からの恩恵を戴きながら、辞世の句だと考えていた我が誤りを正しています。

※画像は、クリエイター・ケンコウさんの、タイトル「ポートレイト4(カミュ他)」をかたじけなくしました。お礼申し上げます。