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No.1185 うちの父讃・母賛!

20世紀最後の年となる2000年(平成12年)の学級通信「花自ら紅」に、「うちの父讃・母賛!」シリーズを載せたことがあります。
 
子供たちから見た父親・母親を赤裸々に綴るという恐ろしい企画で、「江戸の敵を長崎で討つ」という掟破りの荒業でした。保護者の反対デモも覚悟の上でしたが、予想に反して、子供たちは親御さんを敬愛していたことがよくわかりました。
 
発案したクラス担任として、子供たちに無責任な文章を書かせるわけにはいかないという良心の呵責があったのか、私も「うちの父讃・母賛!」を書いていました。

「中学2年生の夏、他校との柔道部の交流試合に出かけた私は、乱取りの練習中に無理な体勢で倒れ、不覚にも左足を複雑骨折してしまった。一瞬の出来事だった。耳の奥でグキッと生々しい鈍い音がしたと思った刹那、死んでしまいたい程の激痛に襲われた。咄嗟に、『骨が折れたー!』と叫んだ私を、すわ一大事と形相を変えて駆け寄り、ひょいと担ぎ上げて急いで場外まで運んでくれたのは親友のY君で、その惚れ惚れするような俊敏さは、今も目に焼き付いている。
 皮膚を突き破りそうに鋭角に折れた骨の治療を終えて家に帰った私を、母は涙しながらいたわり、優しく介護してくれた。微動するだけで電気ショックのような刺さる痛みが走る。寝返りもできない哀れな自分がいた。主将としての責任を果たせなかった己への腹立たしさ恥ずかしさ、動けぬ己の情けなさ悲しさが、波のように寄せては返した。母は、そんな私の心を見透かしたかのように、黙々と手当てし何くれとなく手を貸してくれた。
 だが、父はまるで態度が違っていた。その夜、仕事から帰った父は、うなだれている私を見るなり、『親に心配をかけて、スミマセンの一言も言えんのか!』と大音声。優しい言葉をくれるどころか、目から火花が飛び出るほどのゲンコツを貰った。その時、初めて父の思いの深さ強さを痛いくらい身に感じて、骨折の時には流さなかった涙が、堰が切れたように溢れ出た。
 母は厳しいけれど優しい人、父は優しいけれど厳しい人であった。今から30年も前の話だが、その父と幽明境を異にして、今年25回目の秋を迎えた。私は1女1男の父となった。」

学級通信「花自ら紅」2000年9月16日記事より

2000年は、私が47歳の時の中学時代の思い出です。改めて読み返していると、あの日の感情が再び鮮明に思い返されて来ます。
 
4月11日には、中学時代の同期生の古希の集いが別府で行われます。還暦の祝いの時には会えなかったY君との再会が叶うのではないかと、鶴よりも首を長くしています。
 
また、今年は亡き父の50回忌です。5月には供養が営まれる予定です。中学時代、柔道一直線だったいがぐり頭の少年は、今や、立派な薄毛の老人にヘンシンしました。


※画像は、クリエイター・みきたにし☆illustrationさんの、「背負い投げをする柔道選手。」の1葉をかたじけなくしました。お礼を申し上げます。