IT妖怪図鑑 - こちら特命システムゼロ課 #2 ー 悪霊・黙示録大佐(あくりょう・もくしろくたいさ)編

(一)


「おはよう。薬師神さん」
 システムゼロ課配属の翌日から日課になった早朝トレーニングを終えて、シミュレーションルームから事務所に戻ると、珍しく装社実が出社してきており、剛に挨拶を寄越してきた。
「あっ、おはようございます」
 壁掛け時計を見るとまだ九時前だ。装社実は、システムゼロ課の責任者なので、さすがに午後にはならないが、通常、出社は十時前後なのだ。袴田端正も、事務所と同じフロアーの倉庫に寝泊まりしているにもかかわらず、出社は十一時から十二時の間だ。しかも、週に二回は秋葉原へ直行する。
 そこで、自転車なら十分で通勤できる剛が鍵を預かり、七時半には出社して、まず窓を開け放って換気をし、ポットの水を入れ替え、ささっと什器に雑巾がけし、八時ごろから約一時間、シミュレーションルームでトレーニング朝の部をするのが日課となった。
 さらに妙なのは、来客がいることだった。松本瑠美衣の席に、純白のブラウスに濃紺のフレアスカートスーツを着込み、かかとの低い黒のパンプスを履き、黒髪をうしろで束ねた小柄な若い女性がちょこんと腰掛けている。もしや来年度卒業予定の学生か。しかし、システムゼロ課が新卒を採用するとは考えにくい。剛がしきりに首をひねっていると、突然その女性が、ギャハハと高らかに笑いだしたのである。
「なんでい。俺の顔を忘れちまったのかよぉ。つれねえなぁおい」
 あろうことかその女子就活生は、松本瑠美衣の変装だったのである。
「なにハトが銀玉鉄砲喰らったような顔してんだよ。俺だってOLの端くれだぜ。始終あんな、ブラックウィドウの失敗作みてえな恰好しねえっつうの」
 自分でブラックウィドウの失敗作と認識しているのが、彼女の只者ではないところだ。ただし、ハトが喰らうのは銀玉鉄砲ではなく豆鉄砲だが。また、彼女の口から“OL”という言葉が出るのは、かなり違和感がある。
「あの。瞳が黒くなってますが」
「あんなものおめえ、カラーコンタクトだよ。俺は日本人だからな。瞳は黒さ」
「髪の毛は? 最初にお会いしたときは、ライトブラウンでパーマがかかっていたと思うんですが」
「こんなもの、ストレートパーマをぶちあてて、染め直しゃいいだけじゃん。俺なんざおめえ、仕事のためなら、なんだってすんだぜ」
「はあ」
「薬師神さん。ちょっとお時間よろしいですか?」
 よろしいもなにも、剛としては、朝のトレーニングが終わったあとは、特にすることがない。
「はい」
「では、会議室兼応接室へ。袴田さんが出勤してくると厄介ですから」
「あんたがたは、どうってことねえだろうけど、俺はあの野郎のツラを見たくねえんでな」
 三人はぞろぞろと会議室兼応接室へ移動する。装社実が上座のソファーにひとりで座り、下座のソファーには剛と松本瑠美衣が並んで座った。フレグランスの香りが、剛の鼻腔を快くくすぐる。剛は松本瑠美衣を横目で見ながら、こうして普通にしていれば、すごく似合っていて可愛いのに、なぜああも奇抜な格好をするのだろうと、しみじみ考えている。とくに『零組』と染め抜いた法被だけはやめたほうがいいと。
「なんでい? チラ見しやがって。おうおうおう。今夜、俺のこのカッコを思い出して、マスかく魂胆じゃねえだろうなぁ。そんなことしやがってみろ。きっちり銭取るぜ銭」
 格好だけでなく、喋り方をもう少し上品にしたほうがよい。
「これこれ、薬師神さんはそんなことなさらないよ。袴田さんじゃあるまいし。そもそも薬師神さんには、ちゃんと恋人がいらっしゃるのだからね」
「お。そいつぁ初耳だぜ。どこのアバズレだい?」
 貴女以上のアバズレはちょっといないぞと剛は思ったが、口には出さない。褒め言葉と取られると馬鹿らしい。そもそもアバズレの意味が分かっているか疑問だ。単に言葉の響きが気に入って使っているだけの可能性がある。
「システム二課の課長、城富美子女史さ」
「うっそぉ! 二課の城課長なら俺も知ってる。いつもダークな色合いのパンツスーツを着て、黒縁眼鏡なんぞかけてさ、化粧っ気はねえし、カッコは地味だが、モデルみてえに背がスラッと高くてよ、ステエル抜群でよ。ご丁寧に口元んところにホクロなんぞくっつけやがってさ、リアルベヨネッタなんて呼ばれてんだろ。羨ましいよなあ、生まれながらに持ち物がいい女はよぉ」
 貴女だって、そういう普通の恰好をしていれば、充分可愛い女の子として通用しますよと剛は思ったが、口には出さない。自分の柄に合わないからだ。ついうっかりそんなことを言って、絡まれても困る。
「おい、隅におけねえなこのヤロ! 週何回エッチしやがるんだ? このスケベ」
 松本瑠美衣に、横から二の腕を思い切りどやしつけられて、剛はソファーから転げ落ちそうになった。
「城課長と自分は、そんな関係じゃありませんよ」
 これは事実だ。城富美子とは、上司以上恋人以前の関係で膠着状態に陥っているのである。富美子は、剛よりもふたつ上の二十八歳。しかも課長職である。ツサにおいて三十前で課長というのは前代未聞のスピード出世であり、さらに女性がそれを成し遂げたということで、将来の役員候補と目されているのだ。そんなすごい女性と、自分が釣り合うはずがないと剛は思っていた。
 なぜ彼女が自分に好意を持つのか、その理由が分からないので、実際に尋ねてみたことがある。そのときの答えは、「だからね、剛君のそいういうところがいいのよ」という、禅問答に近いものだったのだ。剛は、自分が富美子の恋人にふさわしい男になったとき、正々堂々彼女に求愛してやるぜと心に決めているのである。だがその“ふさわしい男”というのが抽象的すぎて、いつまでたっても目標が定まらないのだった。
「そもそもなんですかこれは? 自分の恋愛事情をリサーチするために、わざわざ会議室に集まったんですか!」
「違いますよ。おめでとう薬師神さん。喜んでください。あなたのファーストミッションが決まりました」
「はあ。え?」
 装社実は満面に笑みを浮かべている。ミッションということは、IT妖怪撃退の任務を下されるということか。
「シミュレーションルームで稽古ばかりしていても詮ないでしょう。そろそろ飽きてきたのではないですか」
 剛がシミュレーションルームで練習を始めて、まだ四日めである。飽きるほど上達したとは到底思えないのだが、実際のところ、シミュレーターで練習するか、自席に戻って退魔のアミュレットを取り出し、念を込めて珠を丁寧に磨くぐらいしかやることがないので、少々飽きてきたのは確かだ。剛の場合、生真面目な性格が災いして、仕事中にちょっと気分転換でネットサーフィンということができないのである。しかし、実際にIT妖怪と対決せよということになったら、少々不安だ。
「不安そうなツラすんじゃねえよ。シミュレーターでいくら練習したって無駄無駄。ガチでIT妖怪とやり合ってナンボだよ。時代はOJTだぜOJT」
 松本瑠美衣の言うとおりだ。いつまでも練習していたって埒があかない。剛には、可及的速やかに一人前のIT妖怪ハンターになり、山岡血清の川田に憑いている『邪神・言った言わんの馬鹿』をボコボコにするという目標があるのだから。
「分かりました。で、どこへ出向いていって、どんなIT妖怪をやっつければよいのですか?」
「おお、さすがは薬師神さん。やる気満々ですな。実はね」
 ここでまた、装社実お約束の、回りくどい話が延々一時間に及び続いたので、要点だけをかいつまむと、次のようになる。

  1. 場所は、小田急線愛甲石田駅からバスに乗り換えて二十分ほどのところにある、某大手家電メーカーNのラボ内。

  2. 撃退要請者は、前記家電メーカーが、IT化の目玉として推進する『ハイパー・ブループリント(超青写真=設計図)システム』の一部分の開発を受託で請負い、ラボ内に技術者チームを送り込んでいる、株式会社アイ・ピー・システム(本社東京恵比寿)の代表取締役菊川修一(きくかわしゅういち)。

  3. 『ハイパー・ブループリント(超青写真=設計図)システム』は、家電の設計図作成システムと連動して、原価計算から使用するパーツの在庫管理、パーツメーカーへの発注までを一元管理するものであり、アイ・ピー・システムは、汎用大型機の基幹システムから、パーツの在庫データやパーツメーカーのデータなどを適宜抽出し、設計図作成システムのデータベースへ流し込む部分を担当している。

  4. 巨大なシステムであり、十を超えるサブシステムの開発が同時進行している。各サブシステムを請け負っているSIerは全て別会社であり、各社の思惑そして、家電メーカー各部門の都合が複雑に絡み合い、進捗が遅れに遅れている。

  5. 当然のことながら開発現場は修羅場と化しているが、現場へ乗り込んだアイ・ピー・システムのシステム部長、佐山雅(さやま・みやび)の統率の元、次々と発生する難局をなんとか凌げるようになり、顧客からの評価は上がる一方である。しかし、佐山が着任してからというもの、体調を崩して現場を離脱、病院へ直行となる技術者が続出。全員が過労による極度の体力消耗と診断されたが、彼らは皆、夢から覚めたような顔で「あの現場にいると、まるで魅入られたように、寸暇を惜しんで働かなくてはならないという気持ちになる」と証言している。しかし、佐山が着任してからまだ一ヶ月経たないので、メンバーの月間就業時間が不明。また、メンバーは全員直行直帰で、本社事務所にまったく顔を出さないので、状況の確認ができない。

  6. 本社の人間が、様子を伺うべく現地へ向かいたいという意向を示しても、佐山に「無用」と突っぱねられる。では現場を取りまとめる責任者として週一回本社に顔を出し、現状報告せよと命令しても、そんな時間はないと完全に無視。

  7. 抜けたメンバーの補充要請がくるが、プロパー(正社員)は恐れをなして行きたがらない。最悪辞意を表明してくるので、外部から技術者を募ることになるが、なにしろIT業界は広いようで狭い。この手の噂はすぐに広まり、『廃人になりたくなければ、アイ・ピー・システムからくるNの仕事だけは請けてはならない』という都市伝説が誕生してしまう始末だ。

「ということです。開発工程が遅れに遅れ、さりとて本番稼働のXデイがうしろへ動かない場合、似たような状況になる開発現場は多く見受けられますが、このケースはかなり特殊ですね。これは極端な表現なのですが、現地では、佐山雅を指導者とする、命令には絶対服従の独裁制国家が形成されていると申し上げても過言ではありません。
 いくらその佐山氏が人望厚く、カリスマ的統率力を持っているとしても、部下は今どきの若い技術者です。倒れるまで働くようなことはしませんね。百歩譲って、プロパーならば立場上、佐山の指揮命令系統に完全に組み込まれてもしかたない。しかし、協力会社経由でやってきた外部の技術者までが、唯々諾々と従っているという状況はあまりに異常です。
 なぜなら彼らの多くは、フリーランスだからです。よくいえば一国一城の主、悪くいえば勝手気ままな彼らが、異を唱えずに佐山に従うはずがないのです。つまり、佐山に憑依したIT妖怪の通力により、メンバーたちは抵抗する意志を奪われていると考えるほかないわけです」
「佐山さんには、どんなIT妖怪がとり憑いているのでしょうか?」
「ふふふ。聞きたいですか?」
 当たり前だ。そんなところで勿体をつけてどうするのか。剛は、装社実のことをIT妖怪ハンターの元締めとして尊敬してやまないが、こういうところがいただけないと思っていた。流れからして不要な勿体をつけるから、話が回りくどくなってしまうのだ。
「はい。できれば」
「佐山雅に憑依しているのは、『ファントム・オブ・カーツ』ではないかと推測されます」
「あれ? 英語名なんですね。『妖魔・なんとか』とか『幽鬼・なんとか』とか、プレフィックス(接頭辞)はつかないんですか?」
「実は、我が国では憑依事例がないのです。無論、IT妖怪の存在が確認される以前は、跳梁跋扈していたでしょう。なぜならこの『ファントム・オブ・カーツ』めは、主にレガシーなメインフレームの開発現場に出現するからです。要するにちょっと時代遅れなんですな」
 一九八六年ごろから始まって、一九九一年に崩壊したバブル景気。その時流に乗って、多くの企業が我も我もと情報化、所謂オフィスオートメーションに投資し、世にシステム開発案件が溢れ返った。とにかく、システムを作っても作っても、プログラムを書いても書いても仕事が終わらず、残業、徹夜、休日出勤が常態化していたのだ。余談であるが、装社実が現役のコボラー(歴史ある事務処理用プログラミング言語、COBOLのプログラマー)であったころ身を寄せていたシステム開発会社は、毎週水曜と金曜は徹夜の日と定められており、定時を過ぎると社員たちは男女問わず、ジャージーの上下に着替えていた。
 当時の事務処理システムは、小規模なものはオフコン(オフィス・コンピューター)、大規模なものはメインフレーム(汎用大型機)上で開発されていた。しかしこれらは、筐体こそ大きく立派であるものの、現代のスマートフォンすら遥かに下回る処理能力であって、それに数十台、場合によっては百台を超える端末が接続されるものだから、レスポンスは最悪。コマンドを送信し、ホストで処理されて戻ってくる間に煙草が一本吸え、朝処理待ちキューに投入したバッチジョブは、その日のうちに実行されれば儲けものだった。このように劣悪極まりない開発環境であったから、そんなもの、スケジュール通り進捗するほうがおかしい。
 それでも、技術者たちは過酷で劣悪な環境を乗り越え、『Y2K問題』などという負の遺産を残しつつ、システムを生み出し続けた。その原動力は何か。それは、根性論と浪花節と怖い上司の存在なのである。
「昔は、技術者たちの先頭に立って、彼らを激励、時には叱咤しつつ、迫りくる納期に立ち向かう、パワフルで恐ろしいリーダーが沢山いましたねえ。もう七年前になりますか、私がIT妖怪ハンターの道へ進む直前に参入していた開発現場が、お約束で火を噴きましてな。顧客と約束した納期に、まったく間に合わなかったのです。私はその時点ではもうフリーランスでしたからな、どこか他人事で、あまり責任は感じなかったのですが、現場にいるとそうもまいりません。仕方なく周囲の状況に釣られて、皆と一緒に、コリャコリャと死のダンスを踊っていましたね。
 そこへ乗り込んできたわけです。私が契約していたシステム開発会社の役員殿が。彼は若い頃、いくつもの死線を乗り越えてきた猛者でしてな。昔取った杵柄で、見事現場の混乱を収拾してのけたのです。ただ、開発の終了時には三人が会社を辞め、二人が暫く心療内科へ通院する結果となりましたが。彼はしみじみと私に問いかけましたね。『昔は一人二人死人が出ても、その屍を乗り越えて納期は守ったもんだが。それに引き換え今の若い連中ときたら。どう思いますか装社さん』と」
「バッカじゃねえの。たかがシステム開発の仕事ぐらいで、いちいち死んでられねえよ」
 松本瑠美衣は、バッカのひとことで片付けたが、剛としては、その現場叩き上げ役員殿の言に共感できなくもない。現代のSI技術者は、自分も含めて“仕事”というものに対する覚悟が足りない気もするのだ。
「課長はどうお答えになったのですか?」
「そうですなあ。肯定するでもなく、さりとて否定するでもなく、斜めに首を振って、曖昧な笑みを浮かべました。それが私の処世術でしてね。ははは」
「……」
「コホン。という次第でありまして、そうですなあ。『ファントム・オブ・カーツ』。我が国では『悪霊・黙示録大佐(あくりょう・もくしろくたいさ)』とでも呼びましょうか。薬師神さんには、ひとっ走り、そいつを退治してきていただきたいのです」
 カーツというのは、フランシス・コッポラ監督の不朽の名作映画、『アポカリプス・ナウ(地獄の黙示録)』で、カンボジアのジャングルに独立王国を築いていた大佐の名である。
 ということは、剛はウィラード中尉の役どころか。中尉はカーツ大佐の影響で精神の均衡を失うが、自分も同じ道を辿るのではないだろうか。少なくとも、ひとっ走りいって退治できる相手ではなさそうだ。もしかすると、『邪神・言った言わんの馬鹿』より強力なのではないか。デビュー戦の相手にとって不足がないところか、手に余るのではないかと、剛は不安になってきた。
 彼の頭の中で、『ワルキューレの騎行』の、有名な出だし部のメロディーがグルグル回っている。と思ったら、横に座っている松本瑠美衣が鼻唄を唄っているのであった。とんでもない女だ。
「では、出発します。退魔礼状か捜魔礼状が降りているなら、お預かりしましょう」
「ちょっとお待ちなさい。まだ話は終わっていませんよ。もう一度お座りください」
 装社実は、ソファーから立ち上がって、鼻息荒く、すぐにも退室しようとする剛を諌め、話を続けた。
「先ほど申し上げましたように、『悪霊・黙示録大佐』については、その存在だけが記録に残っているのみで、憑依された人間がどのように行動するか、そしてどのような通力を持つのか、具体的なことが一切不明なのです。そこで薬師神さんには、現地へ補充の技術者として潜入していただき、暫く佐山雅と行動を共にしていただいてですね、データの収集をお願いしたいのです。充分にデータの収集が終わったら、いよいよきゃつめに引導を渡してください」
「自分が現地へ? どのくらい」
「ま。二週間も居ていただければ御の字ではないでしょうか。なにしろ現地では、通常の三倍から四倍、濃密で凝縮された時間が流れているはずですからな。ははは」
 冗談になっていない。二週間もアポカリプスと付き合わねばならないのかと、剛は心底うんざりしたが、ミッションとあらば仕方ない。さすがに二週間もの長期に渡る経験はなかったが、剛とて、あの最低な山岡血清のプロジェクトに参加していたときは、三日や四日の泊り込みなど、しょっちゅうやっていたのである。それよりも自分が、敵の魔力に取り込まれてしまわないかが心配だった。
「分かりました」
「そうですか。では早速、松本君と一緒に現地へ向かってください。アイ・ピー・システムの菊川社長とは話がついていまして、午後一に面談が設定されていますので。到着したら、サブリーダーの大戸博(おおと・ひろし)さんに連絡してください。彼がいろいろ引き回してくれる段取りになってます。これが、大戸さん携帯番号を書いたメモね。松本さんにお渡ししておきましょう。
 ええっと今十時半ですね。愛甲石田は遠いですが、これから事務所を出れば、途中どこかで食事する時間ぐらいあるでしょう。食事したときは、領収書を貰っておいてくださいね」
 それで装社実も松本瑠美衣も、珍しく九時前に出社していたのだ。しかし、泊り込み必至の現場である。剛としては、松本瑠美衣が行くのは拙いのではないかと思った。若い女性だからという意味ではない。少しはないこともないが、彼女が理不尽な指示にブチ切れ、「うるせえんだよぉ。つべこべぬかすなら、ひと思いに撃退してやろうかコラ!」と、作戦を台無しにしてしまわないかと考えたのだ。
「松本さんも一緒というのは」
「なに考えてんだよ。俺は俺で忙しいからな。二週間も一ヶ所で足止め食らってる暇はねえっての。営業として同行するだけさ。だが安心しな。いよいよアホカリプス野郎と対決ってときは助太刀してやらあな。担当営業として入管証なんぞを貰っとけば、あれだろ。いざ乗り込むとき都合がいいだろ」
 なるほどそういうことか。アホカリプス、ではなくてアポカリプスな現場に単身乗り込むのは、剛とて心許なかったが、さりとて、外見的にはうら若い女性である松本瑠美衣を頼る気持ちはない。ただ、IT妖怪と実際に闘った経験のない剛としては、いざ決戦というときの助太刀だけは是非頼みたいところだった。
「それでは出かけます。えっと持ち物は。三種の神器は必要かな」
「本日は面談だけなので、特に持ち物は必要ありませんよ。ただし、明日から現地ということになります。そのおりは、三種の神器をお忘れなきよう。また、当面の着替えなども必要かと思います」
「分かりました。あの。面談でNGになっちゃうって可能性は?」
「大丈夫です。かの現場が、只事でない状況になっているという噂が業界内に広がっていることは、佐山とて重々認識しているはずです。そこへ愚かにも。コホン、失礼。果敢に飛び込んでやろうという命知ら。コホン、エッヘン。気骨のある者を断ったりしませんよ」
「それはええっと、言い方を変えれば『飛んで火にいる夏の虫』ってことなんでしょうか」
「ゲホゴホ。ゴホン。どうもこの、喉の調子が。ま。とにかくIT妖怪ハンター薬師神の初陣です。頑張ってください」
「なんですかぁ! 二人してほんとにもう」
 剛が柄になく大きな声を出してしまったのは、松本瑠美衣がボソッと小さな声で「俺ならゼッテー断るけどなぁ」と呟いたからだ。

(二)


 JR中野駅から中央線で新宿へ。新宿から愛甲石田までは、小田急小田原線の小田原行きに乗れば一本である。朝の通勤経路とは逆方向であるし、十一時前という、あまり人が移動しない時間帯なので、車両の中は、急行といえど、かなり空席が目立つ状態だった。
 松本瑠美衣は七人掛け長椅子の端、剛は隣に並んで座っているが、ときおり思い出したように二言三言会話を交わす程度で、二人して黙り込んでいた。衆目があるから、IT妖怪について熱く議論するのは憚られる。機密保護云々以前に、頭がおかしいと思われるのが嫌だからだ。さすがの松本瑠美衣も、その点については同意見のようである。
 IT妖怪のこと以外に、二人にとって共通の話題がないので、必然的に黙り込んでいるしかないのだ。
 松本瑠美衣は、スマートフォンにステレオイヤホンを突っ込んで、なにやら聴取している。ときおりにニヤニヤ笑っているのが気になって、「すみません。なにを聴いているのですか? 差支えなければ教えてください」と尋ねると、「落語」という答えが返ってきた。父親が大の落語好きであって、その影響らしい。
 それを聞いて剛は考え込んでしまった。彼女の父親は、彼女が選んだ仕事について、どのように思っているのだろうと。仮に彼女の父親が頭の柔らかい人で、『IT妖怪』について深く理解しているのなら、同時に『IT妖怪ハンター』という仕事の危険性も理解しているはずで、非常に心配だと思うのだ。
 現実的に、装社実の左脚はIT妖怪との対決で不随意になってしまっているのだから。もし剛に子供ができたとして、彼または彼女が『IT妖怪ハンター』の道へ進みたいと言いだしたなら、断固反対するだろう。
 まあ松本瑠美衣のことだから、親に対して「だからぁ、ITカンケーだって言ってんじゃねえかこのヤロ」などと、逆ギレしつつ、適当に誤魔化しているに違いないのだが。
「親不孝娘」
「あんだって?」
「え? いや別に」
 ついつい思考が言葉になり、剛の口をついて出てしまった。
「そうだ。こいつぁ、装社のおやっさんが触れなかったんで、俺も黙ってたんだけどよ」
 松本瑠美衣は、耳からステレオイヤホンを外し、若干改まった顔で、改まったことを話し始める。
「まあ、おやっさんはそんなこと、薬師神さんに伝えてもしかたねえと考えたかもしれねえこともねえんだが、アンタの性格からして、かなりの発奮材料にならねえこともねえ、かもしれねえこともねえと思うんだよね。聞きてえか?」
 装社実を凌駕する回りくどさで、いまいち趣旨が明確ではないが、察するに事務所での状況説明時には伏せられていた重要な事実があり、それを剛に伝えるべきかどうか、松本瑠美衣は逡巡しているらしい。
「聞かせてください」
「そうかよ。けどやっぱ、逆にプレッシャーになっちまうとマズイしなあ。どうしたもんかなぁ」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。そこまで気を持たせて、ひっこめますか普通」
「だろうなぁ。俺自身、気持ちの悪いこと言ってるなって思うもん。逆の立場なら張り倒してるぜ。じゃあ言うけどよ。アイ・ピー・システムは、装社のおやっさんがフリーでやってたとき、えらく世話になってた会社でよ。おやっさんて、元々関西で仕事してたニンゲンだろ。それが東京に居を移したのは、フリーランスになったとき、アイ・ピー・システムから仕事を回してもらったつう経緯があるんだよ。
 特にシステム部長の佐山って人とは、旧知の間柄でさ。佐山さんはおやっさんよりふたつ年上でね。若けえころは、弟みてえに可愛がってもらってたのさ。だからおやっさんとしては、なんとかIT妖怪の憑依を解いて、助けてやりてえってわけだ」
 確かに発奮材料にもなるし、プレッシャーにもなる情報だ。
「どうしようかなあ。ついでにあのことも言っちゃおうかなあ。ううむ、迷うぜぇ」
 この期に及んでまだそんなことを言っている。
「この際ですから、洗いざらいゲロしちゃってくださいよ」
「だろうなあ。逆の立場だったら、多分相手は足腰立たねえようになってるよ。じゃあ言うぜ。お恥ずかしい話だけどよ、俺の場合、IT妖怪と対決するときは、おやっさんとペアを組むことが多いのさ。もちろん、電脳魔界へ乗り込んでって、妖怪と丁々発止やるのは俺だ。おやっさんは神経焼き切れてて、あすこには潜り込めねえからな。
 問題は、妖怪を撃退してからなんだよね。とり憑かれてたやつは、かなり微妙な、難しい立場になっちまうわけだろ。妖怪にとり憑かれてたダメなやつってことで、白い目で見られ、ハブられてさあ。『この妖怪人間!』とかなじられ、石をぶつけられたりさあ。最悪その現場を去らざるを得ねえってことになっちまうのさ。元々心がけがよくなくて、IT妖怪とシンクロしちゃったやつは、どうだっていんだ。自業自得だからよ。
 しかし、いろいろあるだろ、IT業界てのはよ。納期やなんかのプレッシャーに押し潰されて、にっちもさっちもいかなくなって、妖怪を召喚しちまう技術者がいるわけじゃん。だからアフターフォローが大事なんだよ。そんな気の毒な技術者を現場復帰させてやる。それもハンターの大事な責務の一環ってわけさ。分かるか?」
「はい。よく分かります」
「俺なんざパッと見、コムスメもいいとこだろ。実際にコムスメなんだからしょうがねえ。そんなんが聞いた風な口利いたって、いまいち説得力がねえや。だから、ややこしい案件のアフターフォローは、おやっさんに任せるわけよ」
 松本瑠美衣は、一見すると、口の悪い、突っ張った女の子なのだが、極めて客観的に自己を評価している。やはり只者ではないなと、剛は感心しきりである。
「なにをしみじみ腕組んで、目ぇつぶってウンウンうなずいてんだよ。落ち着いてる場合じゃねえぞ。おやっさんは、アンタを見込んで、今回の一件じゃあ、そのアフターフォローまで任せようってんだからなあ」
「あっ」
「あっ、じゃねえけどよ。ま。本来こういう場面じゃ、『アンタなら大丈夫』とかなんとか、適当なこと言って気を楽にしてやるべきなんだろうが、俺はそんな無責任なこと言わねえ主義だからよ。正直なところ、よく分からねえな。ぜいぜい頑張んな」
 松本瑠美衣は思い切り剛の肩をどやしつけた。小柄なくせに、すごい力だ。叩かれた剛の肩はヒリヒリしている。単に彼女の辞書には“手加減”という言葉がないだけなのかもしれないが。
「……」
 剛は、黙して鞄から、退魔のアミュレットの模型を取り出し、操作の練習を始めた。それが彼の答である。『任せてください』とか『頑張ります』とか、言葉に出してしまうと、この場合嘘くさく聞こえる。剛も無責任なことは言わない主義なのだ。
「ふうん」
 そんな剛の様子を横目で見て、松本瑠美衣は微笑みながらステレオイヤホンを耳に差しこみ、腕を組んで目を閉じた。
 退魔のアミュレットの模型は、剛の手作りだ。珠は、いろんな色を混ぜ合わせて、結局どす黒くなってしまった小麦粘土を丸めたもの、そして紐はお尻に穴が開いてしまったトランクスのゴム紐を再利用したものである。練習に本物を使わないのには、実はちょっとした理由がある。
 システムゼロ課に着任した翌日、筋を通すため、新宿にあるツサの本社を訪問し、IT妖怪ハンター薬師神誕生の黒幕であるシステム本部長、四方惟光に挨拶したあと、IT情報安全守護のお守りをいただくため、神田明神まで足を伸ばしたのだ。移動にはJR中央線快速を利用したのだが、運よく座ることができたので、万事生真面目な剛は、早速退魔のアミュレット操作の練習を開始した。そして、美しく『退魔経』が決まった刹那、乗客の一人である三十前後の男性が、もがき苦しみ始めたのである。と同時に、硫黄臭車内に充満する。
 当然剛は強く感じたが、全ての乗客が硫黄臭の発生に気づいたわけではない。悲鳴を上げ、ハンカチやタオルで口と鼻を押さえながら他の車両へ逃げだした一部の乗客には、IT妖怪ハンターの素質があるということか。
 おかげで列車は緊急停止するわ、鉄道警察が乗り込んでくるわの大騒ぎとなってしまったのだ。その模様は、午後六時からのニュース番組で報じられた。
 剛は図らずも、くだんの男性に憑依していたIT妖怪を追い出してしまったわけで、それはそれでめでたいことといえなくもないが、異臭が充満する車内でひとり気を失って倒れていた男性は、毒ガステロ実行犯の嫌疑をかけられ警察に拘留されるという、考えようによっては、IT妖怪に操られるよりも悲惨な目に遭ってしまった。爾来剛は、公共の場では、絶対本物で練習しないという誓いを立てたのである。

「おい。着いたぜ」
 松本瑠美衣に体をゆすられて、剛は目覚めた。途中で眠り込んでしまったようだ。自宅からゼロ課の事務所まで近いとはいえ、七時半に出勤しようと思えば、六時半には起床して準備をせねばならない。システム二課に在籍していたころは八時に起床していたから、徐々に睡眠不足が蓄積しているのだ。
「さ、降りようぜ」
「はい」
「よっこらせっと」
 ホームに降り立った松本瑠美衣は、提げていた大きなボストンバッグを一旦置いて、ふぅと一息つく。剛は、事務所を出たときから、その無意味に大きなボストンバッグが非常に気になっていた。出がけに、いざ、チーンとエレベーターが到着したとき、「しまった。持って行きてぇモンがあるんだよ。先に降りて、一階で待っててくんな」と言って、彼女が提げてきたのがこのボストンバッグなのだ。さりとて女性に鞄の中身を尋ねるのは失礼だから、極力無視するよう努めていたのだが。
「そのバッグ、重そうですね。自分が持ちましょう」
「おうおうおう! 俺が女だと思って馬鹿にしてやがるな。ナメてっと承知しねえぞ」
「そんなことないです」
「じゃ、お言葉に甘えて。頼まあ」
「えっ」
 頼むなら、グダグダ無駄口を叩かなくともよいのである。
「おお」
 男の剛が持ってもかなり重く感じる。持ち手が指に食い込んで痛いので、ときおり左右を持ち変えなければならないほどだ。
「かなり重いですね。いったいなにが入っているのかなあ?」
「あら。レディーの鞄の中身を尋ねるの? いったいどういうおつもりかしら」
 内容的には予想通りだが、表現が想定外である。これは深く追求しないほうが身のためだと剛は判断した。愛甲石田駅の周辺には飲食店がほとんどなく、おまけにその大半が夕方以降にしか開店しない居酒屋だったので、昼食は鶏肉をメインとする某有名ファストフード店で適当に済ませた。これがのちに、剛をして「もう少しまともなものを食べておくべきだった」と後悔させることになるのであったが。
 路線バスに揺られること約二十分、二人は大手家電メーカーN社ラボの正門前に到着した。愛甲石田駅前で、二人と共に乗り込んだ十数組の乗客も全員降車し、正門の受付に並ぶ者あり、携帯電話で到着の旨伝える者ありである。松本瑠美衣も携帯電話で、アイ・ピー・システムのプロジェクトサブリーダー、大戸博(おおと・ひろし)に連絡する。
「すぐ迎えに行くから、待っててくれとさ。五分ぐらい。あれ? おい、なにしゃっちょこ張ってんだよ」
「どうも自分は、新しい現場に着任するときは、緊張してしまうタチでして」
「頼むぜおい。ちまちまシステム作りを手伝って、ハシタ銭を頂戴しようってわけじゃねえんだ。あんたは、IT妖怪の呪いからアイ・ピー・システムのメンバーを救い出す正義の使者様だぜ。どおんと構えてなって」
 正義の使者様というのは普通、メンバーと一緒に眠い目をこすりこすり、泊まり込みなどしないはずだが。
 待つこと十数分、ようよう大戸博が出迎えに現れた。そして、彼の姿をひと目見た剛は、自分がとんでもないところへ放り込まれたことを認識した。あろうことか大戸博は、濃紺の作務衣を着込み、素足に百円ショップで売っているような、安っぽいサンダル履きという姿だったのだ。
「クッ、やってくれるじゃねえかよ」
 松本瑠美衣が、不敵な笑みを浮かべながら小声で呟く。彼女はこの状況を心底楽しんでいるようだ。剛としても、もしこの現場に松本瑠美衣が潜入するのであれば、おそらく笑いを堪えるのに一苦労だったろう。
「では、ご案内いたしましょう。とにかく敷地が広いので、我々が詰めている棟まで距離があるのですよ。でも五分もあれば。お迎えが遅くなったというのは、実は途中で立ちくらみまして、暫時休憩していたのです。こう日差しが強いと、さすがにきつくて。アハハ」
 剛と松本瑠美衣は、大戸に導かれるまま歩き出した。
「こんな格好で、さぞかし驚かれたでしょう。オフィスワーカーの恰好じゃありませんものね。しかし、そうも言っていられない状況なので。幾日も泊まり込んでおりますと、上着は平素脱いでいるのでよいとして、ワイシャツやスラックスがギトギトのコテコテのヨレヨレになってしまいますでしょう。靴下などは、死んだ鼠のような臭気を発しますしね。少々替えがあったところで、焼け石に水ですよ。この作務衣にサンダルは佐山先生の発案でしてね。サンダルは百円ショップのもの、作務衣もアマゾンで千九百九十円(税別)を大量に買い込んだ安物ですが、購入費用は先生のポケットマネーですよ。すごいなあ」
「あの。作務衣でも汚れるんじゃありませんこと。時節柄蒸し暑くなっておりますし」
 剛には最初、発言の主が分からず、思わず周囲を見渡している。それが松本瑠美衣であると気づくまで、三秒半もかかってしまったのだ。
「無論、まめにクリーニングしておりますよ。敷地内に、工員さんたちの作業着をクリーニングする業者が入っていましてね。我々の作務衣もそこへ洗いに出しているのです。なんと先生が根気強く交渉された結果、なんと費用はN社持ちということになったんですよお。おかげで我々メンバーは、いつも清潔でいられるのです。
 そりゃあ、最初は奇異な目で見られましたとも。でも、お客さまも他社さまも、慣れてこられましてね。たまさか作務衣を着ていないと『あれ? 今日は変わった格好をしておられますなあ』と、吃驚される始末でして。最近ではなんと、他社さまも『もしかしてあれ、いいんじゃね』などとお考えになったのか、真似をなさるようになってきましたよ」
 作務衣は清潔かもしれないが、髪はバサバサ、顔はパリパリ、しっかり歯を磨いていないのか、黄色に変色、さらに夜食として食べたであろうカップ焼きそばの青海苔が付着していて、不潔極まりない。さらに、パンダも裸足で逃げ出すほどの目の隈、どこかへ逝ってしまっている目、貼りついたままとれない不気味な笑み。緩慢な動作。聞いているうちに居眠りしてしまいそうな、抑揚のない口調が、現場の悲惨さを雄弁に物語っている。
「あの。ちょっとここでお待ちいただけますかしら。現地の担当者、つまり大戸さまと首尾よくコンタクトできた時点で、一度社に連絡せよと言われておりますので」
「結構ですよ」
「ほほほ。ちょっとあっちのほうで連絡とりますので。すぐ戻ります。はい、薬師神さん。こっち」
「いえいえ。ごゆっくりどうぞ」
 大戸はその場に崩れ落ち、体育座りの姿勢になった。松本瑠美衣は、その様子を見ながら、ものすごい勢いで剛の腕を引っ張る。
「え?」
「え、じゃねえだろ。いいから早くこい。あすこに木のベンチあるだろ、向こうまでダッシュだ」
 松本瑠美衣は、剛の耳元でささやいた。
「ダッシュって。自分は松本さんのこの、無意味に重たいバッグ持ってるんですよ」
「普通の声の大きさで喋ってんじゃねえよ。いくぞ!」
「松本さんだって大声出してるじゃないですか。あちょっと、引っ張らないでくださいってば」
 目標の休憩用木製ベンチに辿りついた剛は、ベンチに謎のボストンバッグを乗せ、その横に座って一息ついた。バッグを挟んで松本瑠美衣も腰掛ける。
「ふう。今日は日差しが強いですね。夏みたいだ。作業場所にはもう冷房入ってるのかなあ。最低送風は欲しいところですね」
「ノンキに空調のこと心配してる場合か、あんた」
 松本瑠美衣は、携帯電話で通話しているふりをしながら、剛に話しかけてきた。
「悪いこた言わねえ。このミッションは断れ。な。俺も口添えしてやるから」
「どうしてですか?」
「ど、どうしてぇ? ヤベえだろだって。見ただろあの大戸ってやつ。完全に逝っちゃってるぜ。もろカルト教団の狂信者だよ」
「そうですね。現場のリーダー、佐山さんのことを『先生』って。普通、自分とこの部長を先生とは呼びませんね」
「分かってて落ち着いてやがら。初めてIT妖怪と対決するあんたにゃ、ちと荷が重すぎるよ。いきなり再起不能になりてえのか」
「でも。なんでしたっけ? 『悪霊・黙示録大佐』ですか。その程度の妖怪から逃げているようでは、『邪神・言った言わんの馬鹿』には勝てっこないんじゃないですか。IT妖怪ハンターのパイオニア、装社課長でさえ敵わなかった化け物でしょう」
「おやっさんは、あんときゃひとりだったからな。ナマちゃん、ゼンさんとチームを組んでりゃあ、結果は違ってたと思うけど、ま。あんたの言ってることは正論かもな」
「あんな状態で、これまで死者がでなかったのが不思議ですが、今後は出る可能性が高いです。放ってはおけませんよ。ほら、大戸さんを見てください。いまあの場でこと切れてもおかしくないでしょう」
 大戸は、体育座りのまま、俯いてじっとしている。ときおりグラッと体が揺れて転びそうになっているのところを見ると、仮眠しているのだろう。
「ううむ。確かに」
「もし、本当にシステム開発の仕事だったら、こんなアポカリ現場は断るでしょう。なぜなら、自分のような外部の人間が参入したところで、状況を改善することなどできず、一緒になって死んだ魚のような目をして、歯に青海苔つけるのが関の山だ。でも、今の自分は、このアポカリ開発環境に終止符を打てるかもしれない立場にいるわけです。できるのにやらないのは男じゃない」
「あんた、わりかし大物だな。見直したぜ。いや、見損なってたわけじゃねえから、見直したてえのも変だけどよ。分かった。じゃあ行け、IT妖怪ハンター薬師神剛。『悪霊・黙示録大佐』を足腰立たねえほどブチのめしてやんな」
「了解」
 剛は姿勢を正し、敬礼のポーズをとった。
「じゃあ、今日から早速頼まあ」
「え? 今日は顔合わせだけで、実働は明日からじゃ」
「モノゴト分かってねえなあんた。参入の意志を示したが最期、その場で拘留されるに決まってんだろ。明日からなんて悠長なこと言ってたら、『一晩考えて気が変わりました』って断られちまう。逃がしちゃくれねえよ」
「でも、荷物が」
「大丈夫じゃねえか。着替えはいらねえみたいだし。下着だって替えがあるよきっと。あんた、肌が浅黒くて髪はスポーツ刈りで、精悍なタイプだから、案外作務衣が似合うんじゃねえの。新進気鋭の陶芸家みたいでさ。そうだ。着てるとこ写メで送ってくれよ」
「どうせ、ゼロ課のみんなで笑いものにするつもりでしょう。絶対送りませんから。そんなことより三種の神器がないと」
「こんなこともあろうかと。ほれ」
 松本瑠美衣が指し示したのは、問題のボストンバッグである。
「このボストンバッグがなにか?」
「装社のおやっさんも、あんましモノゴト分かってねえんだよな。俺なんざ、ゼッテー顔合わせだけで済むはずがねえと踏んでさ。そいで念のため、あんたの三種の神器をバッグに詰め込んできたって寸法よ」
 出発間際に手間取っていた理由は、これだったのだ。
「どうもありがとうございます」
 ここは素直に礼を述べるのが筋だろう。しかし、剛は今夜、城富美子を誘ってみようかと考えていたのである。彼女に会ったところで、なにがどうなるわけでもない。ただ、少しは発奮材料になるかもしれないと思ったのだ。だが、そんな女々しい理由で、現場参入は伸ばせない。
 協議を終えて戻ると、大戸は地面に横たわって熟睡していた。気の毒だとは思ったが、無理やり起こして参入の意を伝えると、まさに狂喜乱舞の体である。そしてやはり、松本瑠美衣の予想通り、半強制的に、即日稼働を提案してきたのだった。これに対しても、諒承の意志表示をする。”営業”の松本瑠美衣と別れたのは、アイ・ピー・システムのメンバーが詰めている棟の入り口の前である。別れ際に、剛は彼女から、「今生の別れにならなきゃいいけどよ」と耳元で呟かれ、内心穏やかでなかったが、彼女流の激励方法だと、無理やり自分を納得させた。
 さて、今日から剛の戦場となるその棟は、鉄筋コンクリート二階建ての、横に細長い建物であったが、築五十年は経過していようかという年代もので、外壁はあちらこちらで剥げ落ちているわ、ひびが幾本も走っているわ、何枚かの窓ガラスは割れてしまって、ご丁寧に布テープのようなもので補強されているわの惨状だ。入口のドアは、青緑のペンキで塗られた木枠で、長年に渡り、ちょうつがいに潤滑油が差されていないとみえ、開け閉めの都度、ガラスを金属かなにかで引っ掻くときのような、嫌な音がする。
 中に入るとすぐ右手に大きな下駄箱がしつらえてあって、奥の床が玄関より二十センチ程度高くなっており、境目には木製の大きな簀子が置いてあるので、土足禁止だと推測されるが、奥の床も玄関も同じぐらい汚れており、いちいち上履きに履き替える意味があるのかという状態だ。
 下駄箱の隣にはマガジンラックがあり、まばらにN社の製品カタログやパンフレットが挿してあるのだが、まったくメンテナンスれておらず、高度成長期のレトロ家電のものばかりである。好事家ならば随喜の涙を流すかもしれないが、剛にはそういった趣味がない。
 大戸は、下駄箱のひとつから、埃だらけの業務用スリッパを取り出し、両手に持ってパンパンパンと三度ほど叩いて、剛の前の簀子に置いた。よく見ると、左右で微妙に色が違う。
「土足禁止なものでしてね。面倒ですが、これに履き替えてください。靴は、置いたままにするとアレなので、ええっと、そこのダンボール箱。そのなかにコンビニのビニール袋が入っているはずですから、それに入れて、持ってあがっちゃってください」
『靴を置いたままにするとアレ』の『アレ』とはなにを指すのか。逃亡しないように、靴を取り上げるつもりなのかもしれない。だが、ちょっと体裁が悪いのを我慢すれば、作務衣に業務用スリッパでも、逃亡は充分可能だ。左手には傘立があり、安物のビニール傘が鈴生りになっているので、雨が降っても安心である。
 ダンボール箱には、確かに何枚かビニール袋が入っているが、どれも薄汚れていた。破れて使い物にならない袋、粘着性のなにかが付着しているのか、ダンボールにこびりついて取れない袋をかき分けて、ようようましな袋をみつけ、靴をその中に入れる。剛が苦労している傍で、なんと大戸はサンダル履きのまま、平然と上がりこんでしまったのである。
「あの。大戸さんは履き替えなくていいんですか?」
「ああ。このサンダルは上履きなんですよ。土足で棟内に入ることは禁止されていますが、敷地は上履き禁止とは聞いておりませんので」
 そういうのは、いちいち禁令を出さない。なぜなら常識だから。おそらく大戸たちアイ・ピー・システムのメンバーだけではなく、ここでは伝統的にそのような詭弁がまかり通っているのだろう。道理で床が汚れるわけだ。こういう場所ではおそらく、トイレにも木製のサンダルが置かれており、それに履き替えて用を足すシステムになっているはずだ。そして、そのトイレ用サンダルで敷地を闊歩する強者がいるに違いない。
「薬師神さん、とりあえずこちらへ」
 大戸に導かれて剛が入室したのは社員食堂であった。椅子の数からすると、一辺に八人ずつ、都合十六人掛けの長テーブルが五本、従って八十人収容できる、かなりの広さがある食堂だ。時刻はすでに午後二時半を過ぎているので、営業はしていないが、二、三組の社員がいて、紙コップでソフトドリンクなどを飲みつつ、打ち合わせをしていた。
「なぜここに? 作業場所へは行かないんですか」
「ええ。いきなり作業場所へお連れするとその、驚かれることが多いと存じます。先にここで、予備知識としていくつかお話ししておかねばならないと思いまして。さきほどはほら、営業のお嬢さんが一緒でしたのでね。適当にお座りください」
「はい」
 営業には聞かせられない、秘密の服務規定があるということか。気のせいかもしれないが、大戸の目つきが険しくなっているように剛には思えた。ただ、怖気づいたわけではない。こういうことは想定内だ。この際、逆に常識では考えられない、突拍子もないルールを提示してきやがれと、開き直っているのであった。剛と大戸は、入り口に近い長テーブルの端の席に対面して座り、同じようなタイミングで、「ふぅ」とため息をついた。無論それぞれに、ため息の意味は違うだろうが。
「では改めまして。薬師神さん、当プロジェクトへようこそ。我々はあなたを歓迎します」
「あ。よろしくお願いします」
「さて。この現場で働いていただくにあたりまして、いくつか注意事項を申し上げたいのですが、えっとその前に、これを」
 大戸は、作務衣のズボンから、一枚の紙切れを取り出し、剛に手渡した。そこには携帯電話番号が記してある。
「これは?」
「現場に置いてある携帯電話の番号です。外部との連絡はそれで行うという決まりになっております。少しお時間を差し上げますので、連絡を取り合う必要のある個人または組織に、その番号を通知してください。電話は使わず、メールでお願いしますね。終わられましたら、携帯電話はお預かりします。最近の携帯電話といえばほら、今ではスマートフォンが一般的で、通話とメールだけでなく、ウェッブに接続して、いろいろ遊べるでしょう。職務遂行の妨げになりますから」
 もっともらしい理由をつけているが、携帯電話を取り上げて、外部と連絡を取り合えないようにするつもりだ。それよりも、内部の様子をブログやSNS、ツイッターなどで外部に発信されるのを防ぐのが主目的なのか。ということは、構内LANには接続できるが、ゲートウェイを超えて、インターネットには出ていけない設定になっている可能性が高い。言いたいことはいろいろあるが、いざとなればマカイムスでゼロ課とは連絡がとれるから、ここはとことん付き合ってやると決心し、剛はとりあえずゼロ課のメールアドレスに、連絡先変更の通知をし、スマートフォンの電源を落として大戸に差し出した。
「どうも。責任を持ってお預かりします。さて、まず申し上げておかなくてはならないのは、暫くは帰宅、及び御社事務所への顔出しは控えていただきたいということです。当然例外はありまして、直系血族が危篤状態である。もしくは他界された場合は、特例として帰宅が許されます。あ。本人が体調を崩し、就業不能になった場合も同様ですが」
 とてつもなく恐ろしいことを言っているのだが、声の調子に抑揚がなく、一片の感情もこもっていない。そもそも、表情というものがないのだ。先ほど佐山を先生と呼び讃えたときの躁状態とは大違いである。
「それは、覚悟していましたので」
「そうですか。薬師神さんは、物事の本質がよくお分かりなので助かりますよ。ここでプリプリ怒って、帰ってしまわれるかたがほとんどなので。皆さん、佐山先生と寝起きを共にする意義が、分かっておられないのですねえ」
 剛は、だんだん気分が悪くなってきた。若干寒気もする。
「ラボ内には、この棟のように食堂があり、コンビニエンスストア相当の売店があり、銀行や郵便局の出張所もございます。生活のためのものはひと通り揃っていますので、ラボ外へは出ないでいただきたい。まあ出たところで、周りにはなにもないですが」
 剛は、「生活のためのひと通りが揃っているというのは嘘だ。布団がないくせに」と指摘してやりたかったが、それを言ってみたところで、状況はなんら変わらない。
「分かりました」
「我々アイ・ピー・システムでひとつの部屋を借りていますので、他社に気兼ねはいりません。ただ、ロッカーがあるのですが、数が全然足りなくてね。席の足元に空のダンボールが置いてありますので、それに荷物を入れてください。ええっとそれから、作業用のパソコンですね。二日前に抜けた人が使っていたやつがありますので、メールの設定だけやり直してください。開発環境のセットアップなど必要ありませんから」
「はい」
 三種の神器を身近に置いておけるのはありがたい。
「あそうだ。薬師神さんは、コーヒーはお好きですか?」
「いえ。自分はあまりコーヒーは。どうぞお気遣いなく」
 すぐそばに自販機があるから、剛はてっきり大戸がコーヒーをご馳走してくれると思った。
「気遣い? あの、仕事中は、可能な限り水分を摂らないようにしていただきたいのですよ」
「御社のルールとして、仕事中は飲食禁止というなら従いますが」
「ルール? 強制ではありません。意識の問題でね。水分を摂取すれば、必然的にトイレが近くなるでしょう。時間がもったいないですよね。特にコーヒーには利尿作用があるので、極力控えていただかないと。あと薬師神さん、お煙草はおのみに?」
「いいえ」
「素晴らしい。喫煙ほど時間を浪費する、悪しき習慣はありませんからね。喫煙場所から戻ってきたら臭いし。どうやら薬師神さんは、このプロジェクトに適性大のようですね」
 ソフトウェア技術者としてのスキルは関係ないのだろうか。どうやら剛を称賛してくれているようだが、相変わらず大戸は無表情だ。
「それから」
「もういいです! このまま現場に入って、どのようなことを見聞きしても、また指示されても、プロジェクトからの離脱は考えないとお約束します。とにかく、佐山さんを始め、メンバーの皆さんにご挨拶させてください」
「佐山さん。さん? ほほう。『さん』呼ばわりですか」
 無表情だった顔に微妙な変化が現れた。剛を見る目に蔑みまたは憐憫、もしくはそのふたつが融合した色が感じられる。
「失礼しました。ええっと、佐山部長?」
「薬師神さんは、佐山先生の素晴らしさをご存じないから、『さん』とか『部長』になるのですね。仕方ないことなのかもしれない。佐山先生は三週間前、おおまだ三週間しか経っていないのか。我々はなんという濃密な時間を生きているのだろうか。先生とは十年、いやさ二十年も前からご一緒しているような気がします。もしかすると、前世から魂の盟約で結ばれていたのかもしれません。
 先生はこの現場に着任され、我々メンバーが置かれている惨状をご覧になり、深くみ心をお痛めになられました。そして、我々を救おうと三日三晩、不眠不休で打開策を検討されたのです。そしてそれは、完徹四日目の夜のことでした。佐山先生に『アルゴル』と名乗る、高次元の宇宙意識が降りられたのは。『アルゴル』は、先生に道を示されました。先生はその時、時間の流れをも俯瞰できる目を持ち、プロジェクトの行く末をありありとご覧になったそうです。『アルゴル』より啓示を受けた先生は、我々の前にお立ちになり、滔々とお説きになられたのです。なにをなすべきかを。
 あのときの先生は、光り輝いておられました。これは、比喩ではありませんよ。現実に光っておられたのです。おそらく、高次の真理に目覚めた先生の意識が物質化していたのでしょう。薬師神さん、あなたは、魂が震えるという経験をなさったことがおありですか。私はあります。それはあの。ちょっと薬師神さん、どちらへ行かれるのですか?」
「一刻も早く作業を開始しなくてはならない状況と判断しましたので、その辺のかたに、アイ・ピー・システムの皆さんがいる部屋を聞いて、ひとりで行きます」
「待ってください。それでは私が、先生からお叱りを受けます。ただ薬師神さんを部屋までお連れするという、簡単な任務すら遂行できない役立たずと。そんなのは嫌だあぁぁぁ、嫌だあぁぁぁ、嫌だあぁぁぁぁぁ」
 彼の脚にしがみつき、狂ったように泣き叫ぶ大戸の姿を見ながら、剛はただ茫然と立ち尽くしていた。

(三)


 佐山及び大戸たち幹部が、定例ミーティングに出席ということで出払った隙に、トイレの大便個室へ駆け込み、捜魔の無線光学マウスを破魔のヘッドギアに接続し、内部に溜め込んだ開発現場の記録をゼロ課のサーバーへアップロードしつつ、剛は呟いた。
「ううむ。どうも予想していたのと違うな」
 大手家電メーカーのラボ内にある、かなりの築年数を経た事務棟。その二階の一室にあるアイ・ピー・システムの作業場所に、剛が詰め始めて三日目。その間、帰宅は当然のこと、ゼロ課の事務所へ顔出しすることも叶わなかった。また、大戸にスマートフォンを預けたときに予想した通り、インターネットには接続できない。そして、やはりトイレは専用のサンダルに履き替えて利用するタイプだったのも予想通りだ。しかし、現場内部の状況については、かなり予想と差異があったのだ。
 まず、予想と大きく違ったのは、独立王国の専制君主、佐山雅の人となりである。剛などは、手製の怪しげな冠をいただき、ひとりフカフカのソファーに座って、両袖に下着姿の女子社員を侍らせ、高級ブランデーを飲みつつ、IT妖怪の通力で自由を奪ったメンバーたちの怪しげな舞踏を観てほくそ笑んでいるというような、どちらかといえば漫画チックな姿を想像をしていたのだが、現実的にはかなり様相を異にしていた。
 ひとことで言えば、佐山雅は、“どこにでもいる会社員”だった。無論、勤務中に作務衣を着用する会社員は珍しいのであって、その点は例外だが。他者を威圧するような巨人というわけではないし、年齢相応に老けているし、柔和さの中に、若干の悲哀を含んだ顔立ちも、定年間近の会社員にありがちの外見なのである。
 また、メンバーを支配してあごで使うということはなく、パソコンの前に座り、黙ってチマチマとメールをチェックしたり、ドキュメントを作成したり、工程表を弄くったりしている。メンバーが作業指示を仰ぎにくると、二言三言、ボソボソとアドバイスを与えるが、威圧的に命令するようなことはしなかった。
 剛が着任した当日、十分程度佐山と会話する時間があったが、睡眠不足により瞬間的に落ちて、何度か会話が途絶えたし、最後は「では、薬師神さんの入管証を申請します。オンラインでできますので」と言って、マウスを握ったきり意識を失い、彫像のように動かなくなってしまったという、多分に戯画的な出来事もあったりで、要するに、佐山雅はメンバーと同じように作業し、メンバーと同じように疲弊しているだけのように見えるのだ。
 ただし、捜魔の無線光学マウスは、佐山の前では光りっぱなしなので、IT妖怪に憑依されていることだけは間違いない。
 さらに拍子抜けしたのは、泊り込むほど忙しくないではないかということだ。現場には、佐山と剛を含め十四人のメンバーが詰めている。女性が三人もいるのには驚いたが、アイ・ピー・システムのプロパーなら、業務命令で着任させられ、そのまま居ついてしまった可能性はある。
 個々の机はなく、会議用の長机を二本並べ、パイプ椅子を適当に配置しただけ。フリーアクセス床ではないから、電源やLANのケーブルが剥き出しであちこちのたくっていて、まさに『ITタコ部屋』の様相を呈していたが、そういった現場にありがちな、殺伐とした雰囲気が感じられないのだ。
 ときおり、佐山を除くプロパーの中で最年長の金山敏弘(かなやま・としひろ)を筆頭とする、大戸、曽根幸康(そね・ゆきやす)の三名の幹部が、メンバーを叱責したときなどは緊張が走るが、それ以外はのどかで、まったりとした空気が流れている。
 工程が遅れに遅れ、すでに納期を遥かに超過しているにもかかわらず、なぜそのような状況になってしまっているのかというと、システムを構築していくにあたり、他部署との兼ね合いで仕様がペンディング(保留)となっている箇所が多々あり、作業したくてもできないからだ。
 従って、別に無理して起きている必要はなく、適時仮眠が許されている。同じ階にある四畳半の和室が、アイ・ピー・システムー専用に割り当てられており、寝具も準備されているようだが、女子の更衣室として利用されているだけで、仮眠には使えないし、佐山以下、大戸たち幹部はおおっぴらに眠ることはしないが、その他のメンバーは、パイプ椅子を三本並べて横たわり、イビキをかいて熟睡していたりするのだ。
 ただし、部屋の出入り口には見張りが立ち、顧客や他者の開発チームの人間が尋ねてきたときには、仮眠しているメンバーを起こすのである。要するに、さも不眠不休で作業しているかのように見せかけているだけなのだ。
 かくもある意味期待はずれの状態だが、ひとたび仕様が確定したときは、佐山以下、幹部連中の叱咤が飛び、一丸となって、まるで憑き物が憑いたように、不眠不休でその部分を仕上げるのである。
 彼らのこの、不可解な行動の目的はなんなのか。実は剛の頭の中に、ひとつの仮説が構築されつつあった。
「多分、自分の仮説は正しいと思うけど、一度機会を見て、佐山さんと差しで話をすべきだろう。おっと、もう五分以上経ってる。そろそろ戻らないと。幹部連中はいないけど、ほかのメンバーにチクられると厄介だからな」
 剛は、現場でかなり浮いた存在であり、メンバーから警戒されていた。新参者であること以前に、カルト的支配に絡め取られた人々の中に、通常人が混ざっていれば浮くのは当然である。
 なにも排泄してはいないのだが、とりあえず水を流し、破魔のヘッドギアと捜魔の無線光学マウスをコンビニ袋に入れ、個室を出て古ぼけた水道の蛇口をひねって手を洗い、トイレ用サンダルからスリッパに履き替え、ドアを開けて廊下に出ようとしたとき、外で、聞き覚えのある声がしたのだ。
「あれは確か、幹部の一人、金山の声だ。もしかして定例会議が終わってしまったのか」
 腕時計を見ると、佐山たちが出てから二十分も経っていない。そんなに早く会議が終わるとは思えないが、部門間で意見が真っ向から衝突し、会議が続行不可能になってしまった可能性はある。
「拙いな。幹部連中に、このコンビニ袋を見咎められると厄介だ。どうしようか」
 剛は、慌ててコンビニ袋を作務衣のポケットにねじ込んでみたり、腹のゴムの部分に挟んで、上着をフワッと掛けてみたりしたが、どうしても膨らみが隠せない。そんなことをやっているうちに、だんだん馬鹿らしくなってきた。なにしろ数十年間に及ぶ排出物の臭気が染みこんだこのトイレに、これ以上長居したくない。
 コンビニ袋の中身を改められる事態に陥った場合、つべこべ絡んでくるようなら、ひ弱な幹部連中を殴り倒し、佐山の胸倉を掴んで、一気に『悪霊・黙示録大佐』と白黒つければいいだけの話なのだ。とにかく、なにを言われようが無視して突破あるのみと決意した剛は、ドアの取っ手を握った。
「ん? 様子がおかしい」
 会話をしているのなら、相手がいるはずだ。だが、聞こえてくるのは、金山のボソボソと喋る低い声だけ。さらに、注意して聞いていると、ときお女性の啜り泣きが混ざるのである。
「これはただ事じゃないぞ。なにをやってるんだ」
 ドアの横の壁面に耳をくっつけても、金山の話す内容は聞き取れない。そこで剛に名案が閃いた。捜魔の無線光学マウスについている、高感度無指向性マイクを使うのだ。剛は急いでコンビニ袋からマウスを取り出し壁にあてて、うしろのヘッドフォンジャックにステレオイヤホンを差し込み、盗聴を開始した。
「いいじゃないか。お母さんが入院したので、見舞いにいきたいんだろう。でも、危篤状態で明日をもしれない状態なら別だが、急性盲腸炎程度なら、帰宅許可は下りない。でも、君は親孝行だから、なんとしても駆けつけたいんだろ。僕のものになってくれれば、いいようにしてあげる。僕なら佐山先生に話をつけられるよ。じゃあ中へ」
 あとは、女性の啜り泣きが暫く続く。さらに、男のフーフーという息遣いが聞こえてきた。きっと女性に対し、けしからぬ行為に及んでいるのだ。もうこれ以上盗聴を続ける必要はない。そういえば、トイレの隣には、アイ・ピー・システムの仮眠室がある。
 佐山たちと共に定例会議に出席するふりをして女子社員を呼び出し、立場を利用して仮眠室に連れ込み、慰みものにしようとしているのだ。とんでもないやつである。金山に目をつけられた女性にしても、通常時なら「パワハラとセクハラで訴えてやるぞ」と一蹴できるはずだが、佐山に憑依したIT妖怪の通力により、まともな思考力を奪われているから、ただ泣きながら従うしかないのだ。こんなことが許されてよいはずがない。
「おい金山! なにやってんだ。ぶっ殺すぞこの野郎」
 大声で叫びながら、剛はトイレのドアを蹴り開けて、二人の前に踊り出た。女性は確か、川上陽子(かわかみ・ようこ)という名だったはずだ。アイ・ピー・システムのプロパーである。金山はその川上陽子を後ろから抱きすくめ、作務衣の襟に手を突っ込み、柔らかい部分をまさぐっている状態で硬直している。彼女は金山を振りほどき、脱兎のごとくその場から走り去ってしまった。とても窮地から救ってもらった女性の表情態度ではない。残された金山は、精一杯の虚勢を張り、若干上ずった声で剛に命令した。
「君、トイレが長すぎるんじゃないか。早く席に戻れ」

(四)


 事件のあった当日は、当事者の金山を始めとした幹部連中、そして佐山の動きはなかった。川上陽子も、若干表情は固いが、普通に業務をこなしている。剛としても、彼らがなんらかのアクションを起こしてこない限りは、ことを公にするつもりはない。だがその翌日、事態は大きく動き出した。
 まず川上陽子が、体調の悪化により業務続行が難しいという理由で、現場を去ったのだ。事前の通達などなにもなく、いきなり姿を消してしまったのである。そしてついに佐山が、剛に接触してきた。とくに急ぎでやることがないため、自席でウトウトしていると「薬師神さんと二人で話したいことがある」と声を掛けられ、一階の社員食堂へ場所を移したのである。
「薬師神さん。実はメンバーの中から、あなたの、このプロジェクトに対する適性を疑問視する声が上がってきています。辞めさせるべきではないのかと。ただ、薬師神さんがこちらに着任されて、まだ四日目です。その間に、ペンディングとなっていた仕様が固まって、作業がピークを迎えたのはたったの一回。私としては、適正を判断する期間も材料も著しく不足していると思うのですが、頭からメンバーの意見をはねつけるわけにもまいりません」
「自分のクビを主張しているのは、金山さんではありませんか?」
「ほう。なぜそれを」
 剛は、昨日目撃した、金山と川上陽子の一件を佐山に伝えた。
「なるほど。実にお恥ずかしいところをお見せしてしまいましたね。もしそれが事実ならばですが」
「事実もなにも。では、川上陽子さんが突然現場を去ってしまったことをどう説明するんです?」
「プライベートで、例えば親族に不幸があったなとどいう理由ではないですか。私は詳細を聞いておりませんので。最近では大戸君以下、何名かの人材が育ってきましたので、チームの運営を部分的に任せております」
 剛は、佐山の言葉に違和感を覚えた。彼はもはや、メンバーの行動を完全に掌握する絶対君主ではないのだ。彼の影響を受け、頭角を現してきた幹部が暴走し始めているのである。
「自分は、あのときの会話を録音しています。なんでしたらお聞かせしましょうか」
「録音?」
 剛は激しく後悔した。つい口が滑って、言わずもがなのことを喋ってしまったからである。会話の録音があるという事実は、もっと効果的に切り札として使える局面まで温存しておくべきだった。
「録音ねえ。薬師神さん。あなたはいったい何者ですか? システム開発の手伝いをしにこられたのではありませんね。
 新しく着任された技術者さんに対しては、その日の夜から翌朝にかけて特別講義、略して『特講』を行うのが通例となっています。目的は、ここで働くにあたっての諸々を徹底的に、頭に叩き込んでいただくことなんです」
「睡眠不足でフラフラにして判断力を奪い、洗脳するわけですね」
「洗脳とは人聞きの悪い。あくまで意識改革をしていただくのですよ」
「なぜ自分はその『特講』を施されなかったんです?」
「疑念があったからです。あなたは普通の技術者とは違う。ある目的を持ってここにこられた。まずそれを見極めようと思いまして」
「なるほど。自分は“泳がされた”わけですか」
 剛は、鼻腔に強烈な硫黄臭を感じた。上着のポケットに入れている、退魔のアミュレットを無意識に操作して、『退魔経』を紡ぎ始めていたのだ。平素からの稽古の賜物だが、いま『悪霊・黙示録大佐』を佐山から分離してしまうと拙い。電脳魔界に逃げ込まれたら、破魔のヘッドギア、吸魔のUSBメモリーがない状態では、インスタンスを捕獲することができない。となれば、ミッションの七割は失敗となる。ここは落ち着いて、エンジニア同士の理詰めの会話に戻さなくてはならない。
「自分が何者かをお話しする前に、佐山さんに確認したいことがあります。ここの現状についてですが」
「薬師神さんが期待されているような回答はできないかもしれませんよ。ただ、ご覧いただいている通りの状況なので」
「別段、佐山さんの口からあれこれ説明していただく必要はないです。この現場は、極めて特殊な状況になっていますね。なぜなんだろう。佐山さんの目的はなんなんだろうと、ずっと考えていまして、自分なりに仮説を立ててみたのですが、それが正しいか確認したいだけなんです」
「なるほど」
「自分は、佐山さんが、アイ・ピー・システムのメンバーを指揮してやられていることは、外部に対するデモンストレーションだと考えています。技術者を二十四時間待機させ、開発を進められる部分があれば、昼夜を徹して一気に完成させる。そうすることによって、『うちはこれだけやっているのに、他社の対応が遅いからスケジュールが遅れるのだ』と、責任を押しつけられる。そうなると他社も、定例の進捗会議で吊し上げられるのは御免だから、アイ・ピー・システムの真似するようになる。他部門の開発を請け負っている他社も、うちのような体制を取っていると聞きます。
 そして、各社がそのように、決定事項について可及的速やかに開発を完了できる体制を整えたにもかかわらず、それでもスケジュールが遅延するのは、顧客の意思決定が遅いせいだと。そこがボトルネックになって、現場が大火事になっているんだと彼らに思い知らせ、プレッシャーを与えるのが最終目的なんですね。
 プロジェクトの発注側と受注側、パワーバランスがどちらに傾いているかは明白で、一対一ではとうてい敵いませんが、数社ある受注側が意識統一されれば、天秤の傾きが変わる可能性は充分あります」
「ご明察です。ご明察ですが薬師神さん、あなたがシステム開発の支援ではなく、この現場をサーベイする目的でいらっしゃったのなら、それぐらいのことは見えて当然ですな。プロならね。さては、菊川の依頼で? 随時報告はなさっているんでしょうな。しかし、私はやりかたを変えるつもりはない。このプロジェクトが完了するその日まで」
 菊川とは、アイ・ピー・システムの代表取締役の名である。
「菊川社長からの依頼で、自分がここに来たのは確かですが、目的は調査ではありません」
「ではなにをしにきたのか、貴様!」
 佐山の顔つきが変わった。柔和な顔立ちが一転、両目が吊り上り、口は元の一・五倍ほどに広がったように思える。『悪霊・黙示録大佐』が前面に出ようとして、人格転移を起こしつつあるのだ。
「自分の任務は、佐山さん。あなたを始め、アイ・ピー・システムの皆さんを救うことです」
「大きく出たな。では、N社IT推進部へ出向いて、担当SE川俣の胸ぐらを掴み、早く仕様を確定するよう脅してこい!」
 川俣という名は初めて聞く。これは極めて重要な情報だ。その人物こそ、プロジェクトが前に進まない元凶なのだと、剛は判断した。
「体型からして武闘派のようだからな。貴様。頭を使うより、体力勝負が得意だろう。早く行かぬか。もうこのような会合は終わりだ。時間の無駄」
「待ってください。薬師神さんに事情をお話ししましょう。もしかすると、突破口を開いてくれるかもしれない」
「こんな若造に、なにができるというのだ!」
「この人は“違う”でしょう。その証拠に、あなたの力が“滑る”ではありませんか。IT推進部の川俣と同じように」
「ううむ」
「すべての意思決定は私が行い、あたたはそれに力を貸す。そういう取り決めです」
 剛は、狭山の身に起こっている異変に驚愕した。佐山の体に宿ったふたつの意志が、討論を始めてしまったのだ。装社実から受けたレクチャーによると、IT妖怪に憑依された人間の意識は、消えはしないものの、完全にIT妖怪とシンクロするはずだが、佐山と『悪霊・黙示録大佐』の関係はかなり特殊なケースだ。
 IT妖怪が技術者に憑依して、結局なにがしたいのか、そしてなんのメリットがあるのか、まったく分からないのだが、もしかすると、“通力を振るいたい”だけなのかもしれない。なぜならIT妖怪とは詰まるところ“プログラム”なのであって、そのように作られているだけだと考えれば疑問は氷解する。
 ただこれは、“プログラム”であれば製作者が存在するはずであって、では彼らの意図はなにかという問題にすり替えただけかもしれないが、たとえばコンピューターウィルスやワームを作る者の心理を考えてみれば、己の技術を誇示したい、他人が慌てふためくところが見たいという、愉快犯的側面が強いのであって、それと同じなのではないか。
「薬師神さん、平気な顔をされていますね。さきほどの私の状態をご覧になれば、普通驚愕して逃げ出します。もし逃げ出さないとすれば、『先ほどの状態になることも想定内である』からです。ということは、私がこのような状態だからこそ、あなたがやって来たということになりますな」
 剛とて驚かなかったわけではない。IT妖怪に憑依された技術者の実物を見るのは初めてなのだから。だが、予備知識としてそのようなことが実際にあると認識しているだけだ。逆に剛は、内心興奮していた。
 佐山の言は極めて論理的である。とてもIT妖怪に憑依されて、まっとうな判断力を喪失しているとは思えない。もしIT妖怪の通力を人間が制御可能なら、トラブルを抱えた開発現場の状況改善に逆利用できる。しかし、この現場の悲惨な状況を見ると、それは実現不能の淡い期待に過ぎない気もする。
「私がここに着任したのは六月一日です。システム全体の本番稼働は八月末で、すでにプレスリリース済みですから、うしろへずらすことはできません。本来ならば、フェーズ的には、サブシステム内のプログラム開発を終え、サブシステム間の連動テストに入っていてしかるべきなのに、半分も物作りが終わっていないのです。
 そのわりには、現場は悠然と構えています。ずっと私語を交わす者あり、ネットサーフィンに明け暮れる者あり、ひどいのになると、ジャグリングの稽古をする者ありです。不思議に思って理由を尋ねると、『仕様が全然確定しないから』という答えが返ってきました。本番稼働が八月末に迫っているという、危機的状況を認識しているのかと問うと、『心配ないです。他社さんも同じような状況ですから』と言うのです。メンバーの士気は落ちるところまで落ちていたのですね。そこで私は、今のやりかたを選択する決意をしました。
 このプロジェクトのように、キーパーソンが調整能力、意志決定能力に著しく欠ける場合、いくら言葉で強く言っても無駄で、行動して追い詰める必要があります。泊まり込みの体制を作り、周囲を巻き込んで一気に物事を前に進めれば、工程遅延の元凶が明らかになるのです。これは、私の上司が昔選択していたやりかたでしてね」
「しかし、そのやりかたが現代で通用するでしょうか。バブル景気で開発案件が山ほどあり、イケイケのころは、リーダーの号令一下、技術者たちは一丸となって燃え盛る業火の中へ突入していたでしょうが、いまの技術者は進んでそのようなことをしたがりませんね。昔は“プロジェクトの完遂”を至上命題として、意識統一されていたかもしれませんが、価値観が多様化した現代では難しいのでは。
 自分がここに着任するとき、上司が興味深いことを言っていました。七年ほど前でしたか、参入していたプロジェクトの責任者、汎用機時代にいくつもの修羅場を乗り越えてきたらしいですが、そのかたに『『昔は一人二人死人が出ても、その屍を乗り越えて納期は守ったもんだが。それに引き換え今の若い連中ときたら。どう思いますか』と問いかけられたそうです」
「ほう。どこかで聞いたセリフですな。失礼ですが、あなたの上司のお名前は?」
「自分の上司は、装社実といいます」
「あなたは装社君の部下だったのですか。それを彼に言ったのは私ですよ。五年ほど前でしたか、突然うちとの取引をやめて音信不通になりましてね。元気でやっておられるか、気になっていたのです」
 五年前といえば、ちょうど装社実がIT妖怪ハンターに転身したころである。
「上司ということは、彼も、あなたと同じようなことをやっておられるわけだ。なるほどね。彼は昔から少し変わったところがありましたからな。修羅場と化した現場にあっても、どこか醒めているというか、斜に構えていたように思います。
 たとえば、付き合い残業などは全否定してましたね。チームのメンバーが残業、徹夜となれば、特に自分の担当分が遅延していなくても、付き合ったほうがいいかなと思うのが人情ですが、彼はその点非常にクールでした。チームの皆が残業食のカップラーメンを啜るのを尻目に、平然と定時で上がったり。もちろん、自分の担当分はかっちりスケジュール通りに終わらせていましたが」
 装社実が普通に、システム開発の仕事に従事していたころの話しを聞くのは初めてだ。
「彼と私は仲がよかったので、プライベートでも付き合いがありましたが、事あるごとに『ねえ佐山さん。この業界、どこかがおかしいと思いませんか』と疑問を投げかけてきましたねえ。そのような疑問を持つ者は、彼の年代では珍しくて、私などは『嫌なら辞めればいいじゃないか』と思っていましたよ。もちろん口には出しません。
『ワークライフバランス』という言葉をご存じでしょう。それが出てきた経緯ですが、小難しい定義はさておいて、要するに『仕事ばっかりしてないで、もっと家庭や自分の生活を大事にしろ』ということですね。私たちが現役でバリバリやってたころは、とにもかくにもシステム様が最優先。胃や十二指腸に孔を穿って一人前。忙しすぎて家庭がないがしろになり、非常に離婚率が高かったのです。IT業界人は総じて晩婚なのに、離婚率が高いとはまさに踏んだり蹴ったりですがね。
 装社君は当時から、もちろん『ワークライフバランス』という言葉はありませんが、近い概念を意識していて、かつ『ライフ』のほうに針が振れていたようです」
 剛は、自分がここにきた目的を見失いそうになっている。なぜなら、打倒すべき相手があまりにも普通だったからだ。装社実より数段、話している内容がまともである。装社実は、普通人か怪人かの二元論で言えば、確実に怪人なのだ。
 そういえば、佐山の論理的な、ですます調話法に聞き覚えがあると思っていたが、装社実に似ているのだ。しかしこれは話が逆で、装社実が佐山に影響されたと考えるべきである。このようなシチュエーションで出会ってしまったことが残念でならない。上司と部下、リーダーとメンバーという立場なら、学ぶべきことが多くあっただろうに。
「ただ、彼はプログラミングそのものは好きなんです。フリーランスになってから、何冊かプログラミング解説書を著しておられるようですから」
「本当ですか?」
 これも初耳である。
「彼は、プログラミングは好きだが、システム開発の仕事は嫌いだったんですね」
「えっ? その二つは切り離せるものなのでしょうか」
「『システム構築の世界に身を投じた者は、まずはプログラマーとなるのが一般的だ。業界に身を投ずるものは、プログラミングに興味があるはずだから。最初は右も左もわからず、指示されるままにプログラムを作り散らかすわけだが、だんだんと斯界の仕掛けというか、からくりというか、そういった裏が見えてくるようになる。プログラマとしての矜持と相反する指示を受けることもある。
 そうこうしているうちに、とうとう悟りを啓くのだ。わかった。この仕事の主役は“システム様”なんだ。“プログラム”はその“システム様”を構築する手段に過ぎない。今はたまたま、コンピューター上で“プログラム”を使用しなければ“システム様”は作れないけれど、将来“プログラム”に変わって、もっと簡単で短期に“システム様”を構築できる手段が登場すれば、“プログラム”はお役ごめんになるだろう。そうか。この仕事は“プログラムを作る”ことではなかったのだ』と、これは装社君が自分のサイトに記述していたロジックです」
「非常にメタな発想ですね。コンピューター上でプログラムに構築されるからこそ、システムじゃないのかな」
 もしかすると、装社実こそ、厄介な大幹部レベルのIT妖怪にとり憑かれているのではないかと、剛は不安になってきた。
「装社君の話しはこのへんにしておきましょう。本題から外れてしまいましたな。いやあ、懐かしい名前を聞いたものですから、つい」
「いいえ。大変興味深いお話を聞かせていただきました」
「プロジェクトの状態を鑑み、今のやり方を選択する決意をした私は、まずメンバーの説得にかかりました。しかし、誰も納得しませんでしたね。当然です。今どきの若い技術者たちですからね。年配の者は外部の人間で、ほぼフリーランスですから、まず個人の都合優先です。何名か女性もいますし。実際皆、化け物かなにかを見る目でしたよ。
 それが、もっとも早くプロジェクトを終息させる手段であると。こんな辺鄙な場所まで、今後半年一年、毎日通い続けたいのかと。しかし無駄でしたね。『工程が遅延しているのは自分たちのせいではないことが明白なのに、なぜそんなことをしなくてはならないのか』というのが、彼らの理屈です」
「それはそれで間違っていないと思います。なぜなら、そのやり方しかないのだと言われても、彼らの誰もが真偽を判断できないからです。誰も経験したことがないわけですから。外部に問題がある場合は、まず窓口となるリーダーがそれを解決せよ。それができて、物事が前に進み始めたら、自分たちも協力するにやぶさかでないというスタンスですね。頼りないのは、佐山さんが着任する前のリーダーです。いったいなにをやっていたのでしょう」
「メンバーと一緒になって、『なにも決まりませんね。困ったな』と手を拱いていたのです。だから私がここへきたわけですが」
「今どこにいるんです、その頼りないリーダーは? 解任され、本社に戻って、いまごろホッとしてるんじゃないですか。自分は悔しいですが」
「ここに残ってもらっていますよ。頭数は多いほうがよいですから。金山さんです」
 セクハラ金山か。あいつじゃしかたないなと、剛は苦笑いを浮かべた。
「薬師神さんは、金山君を評価されないと思いますが、彼を始め、大戸君、曽根君の三人は、真面目で優秀な将来の管理者候補です。ただいかんせんまだ若い。予定調和的な通常のプロジェクトなら、充分リーダーとしてやっていけますが、このプロジェクトはちょっと荷が重かったようですね」
 剛の様子に反応して、すかさず部下をフォローするのはさすがである。IT妖怪ハンターの適正なしとしてゼロ課を放り出されたら、アイ・ピー・システムに転職して、佐山の部下になってもいいなと考えてしまう剛である。ただし、憑いているIT妖怪が落ちてくれるのが絶対条件だが。
「メンバーは笛吹けど踊らず。強硬な者は辞職の意志すら伝えてくる状態で、私は途方に暮れました。一日でも早くこの現場から彼らを解放してやりたいのに、そして、ほかに策とてないのになぜだという、どちらかといえば怒りの感情を覚えたのです。そして、なにかに祈りました。自分に力を与えてほしいと。なにに祈ったのか。私は無宗教なので、神仏ではなかったように思います。即効性のご利益があるが、禍々しい何者かです」
「その結果、奴がコンタクトしてきたのですね」
「はい。私は“彼”と呼んでいますが、突如強烈な硫黄臭が鼻腔を襲ったかと思うと、首筋から服の中へ、ひんやりと冷たい、グニャグニャとした物体が入ってきたような感覚があって、頭の中に直接声が響きました。『お前に力を貸してやろう』と。
 それからは、嘘のように皆が従ってくれるようになりました。私がなにかを喋るたびに、高僧の説法でもあるかのように、目を輝かせて真摯に静聴してくれます。逆に気持ちが悪かったですがね。まさか自分に、いきなりカリスマ的指導力が備わるとは考えにくいので、“彼”が意識を操作したのでしょうな。そしてそれは、アイ・ピー・システム内だけに留まらず、他社まで拡大していきました。ところが」
 佐山は大きくため息をついた。
「佐山さんが呼んでおられるところの“彼”。自分たちには別の呼び方があるのですが、その“彼”の通力が及ばない人物がいるのですね。先ほど名前の出てきた。誰でしたっけ?」
「N社IT推進部の、川俣晶一(かわまた・しょういち)です。彼は、サブシステム間インターフェースを取り決めるという重要なポジションにいるのですが、まったくもって無能なのです。
 たとえばA社とB社が別個に担当しているサブシステムがあり、いくつかのデータをやり取りしなくてはならないとします。ここで、相手がどのようなデータを欲しているのか、逆に、相手はどこまでこちらの要求するデータを提供できるのかを明確にしないと、まず機能設計ができません。さらに、データの受け渡しをファイルで行うとすれば、単純なCSVであるか、複雑な構造を持つXMLであるかに関わらず、フォーマットを決めないと、プログラムが作れませんでしょう」
「川俣はそれを決めることができないのですね」
「いや。決めてくれるのですよ。しかも、こちらの要望を最大限に取り入れた、夢のような仕様です。ただし、関連する他社との調整を一切やっていないのですがね。しかも、他社には、彼らの要望を最大限に取り入れた、これまた夢のような仕様を確定版として指示しているのです。こうして作られた代物を連動させてみたら、結果は明白ですよね。
 週一回開催される全体進捗会は大揉めですよ。『話が違うじゃないか。どうして取り決め通り作らないんだ!』『それはこっちのセリフだバカヤロー』『バカヤローはそっちだバカヤロー!』『バカヤローはそっちだバカヤロー! てなことを言うバカヤローはそっちだバカヤロー!』と、開会直後から罵声の応酬で、会議になりません。
 川俣は会議を紛糾させた張本人なのですから、普通は謝罪するか、責任を感じて、隅で小さくなっているものでしょう。ところが彼は平然と『まあまあ。私が責任持って調整しますから、この場は治めてくれませんか。いがみ合っていても、前には進みませんよ』と言い放つのです。一瞬にして場が凍りつきましたね。もう怒りを通り越して、寒気すら感じましたよ。コホン、ちょっと失礼」
 佐山は椅子から立ち上がり、ズボンのポケットを探っている。ようよう取り出したのは、小銭入れだった。皮製のようだが、相当年季が入っていて、ところどころ剥げている。
「作務衣は楽でいいんですが、ポケットが、スラックスなど内側が広く作ってあるでしょう。小銭入れのような小さなものを入れると、取り出しにくくて敵いませんよ。こうもたくさん喋ったのは久しぶりなので、喉が渇きました。薬師神さんはコーヒーでよろしいですか」
 なんと、佐山は剛にコーヒーを振舞おうとしている。
「いえ。自分はコーヒーを飲みませんので」
「では、アイスティーにしましょう。ミルクと砂糖は少量でいいですね」
「あ。はい」
 佐山は、自動販売機でカップのアイスコーヒーとアイスティーを購入し、席に戻ってきた。
「いやあズズー、久しズズズーに、人間らしい会話ズズズズをしたような気がッズズズしまズズズズズズ」
 アイスコーヒーを啜るか、喋るかどちかにしてもらいたいが、装社実と初めて会ったときも、同じようなことがあったような記憶が剛にはある。
「佐山さんは、コーヒーを飲まれるんですね」
「コーヒーを飲む人間が珍しいですか?」
「いえ。着任したとき、作業中に水分は多く摂取しないように。なぜならトイレが近くなって作業効率が落ちる。特に利尿作用のあるコーヒーは厳禁だと言われましたので」
「誰に?」
「大戸さんです」
「私は、メンバーに対してそのような指示を出した覚えはありません」
「携帯電話の件もでしょうか」
「携帯電話?」
「着任当日に没収されました。違法性があるかと問われると、なんとも現場の方針と言われれば、それまでですが」
「それも指示しておりません。おそらく金山君たちの発案だと思われます。薬師神さん、実は“彼”と私が憂慮しているのはそこなのですよ。私が着任して、もうすぐ一ヶ月になろうとしていますが、本来もっと短期で決着させるつもりだったのです。さもないと、“彼”の能力が悪いほうへ働くぞと、“彼”自身に釘を刺されましたのでね。私自身が、“彼”の波動に影響されて、この体制を快いものと感じ、永遠の存続を望むようになるのです。正直なところ、そのような考えが芽生えていないといえば嘘になる。そして、金山君らの側近。おっと“側近”という言葉が出ること自体、かなり危険水域に達していますな。彼らも影響を受け始めているのですね」
「影響を受け始めているどころか、暴走し始めているのではないかと、自分は思います。軽々しく使用すべき言葉ではありませんが、完全に“カルト集団”です」
「二週間。それがリミットでした。二週間だけ“彼”の力を借りて“詰まり”、すなわち川俣のことですが、それをを取り除けば、あとは一気に流れるはずだったのに、やつには“彼”の力が及ばないのです」
「先ほど“滑る”とおっしゃってましたが」
「はい。え? なに。すみません、“彼”がメッセージを送ってきましたので。薬師神さんの場合は“滑る”というか、手ごたえなく流されるのですが、川俣の場合は“撥ね返される”ようです」
「結論を出すのは早急ですが、川俣にも“彼”の眷属が憑いていますね」
「“彼”はそれを完全に肯定しています」
 なんということだろうか。このプロジェクトでは、二体のIT妖怪が戦いを繰り広げているのである。行使される通力の方向性が互いを否定するものであれば、充分考えられることだが。
「佐山さん。自分を川俣との打ち合わせの場に参加させてください」
 佐山は瞑目し、黙って首肯した。
 剛が参加したのは、週一回開催される定例進捗会議だ。佐山から、剛を参加させると聞いたとき、幹部連中は、憎悪とも嫉妬ともつかない目で剛を睨みつけたが、彼はまったく意に介さない。もしねちねち絡んできたら、三人まとめて叩きのめす自信はあるから。
 会議の出席者は、N社IT推進部の川俣、アイ・ピー・システムからは佐山、金山、そして剛。基幹システム側のデータ抽出を担当するNビジネスソフトウェアのリーダー山本と部下の草野、CADシステムと連動する原価計算及び部品管理システム担当のオートマチック・ソフトウェア株式会社から若林と、合計六名である。
 Nビジネスソフトウェアは、N社本体の名を冠しているところから見て、システム運用保守をアウトソーシングされている連結子会社のひとつであろう。身内である分、本体IT推進部との軋轢は相当なものがあるはずだ。それは山本の態度に現れている。まさに面従腹背、川俣へ投げかける視線の冷ややかさたるや、ただ事ではなかった。
 山本と草野、そして若林は、襟の黄ばんだワイシャツと、完全にスジが消えうせたスラックスという、くたびれ果てた姿で、こんな連中と仕事をやって大丈夫なのかと思わせるに充分だ。その点、それなりにパリッとした作務衣姿の佐山たちが、非常に凛々しく見える。
 問題の人物、川俣晶一であるが、彼は剛が思い描いていた人物像と若干違った。まず、責任ある立場にいるわりには、見たところ三十手前とかなり若い。しかも茶髪、色つきの洒落た眼鏡をかけ、ブランド物と思われる三つボタンスーツを着こなしているという、どちらかというと“チャラい”雰囲気の男だったのだ。大企業のN社で、若くして現在の職務についていることを考えると、決して馬鹿ではないはずだ。高学歴を背景に、持ち前の乗りのよさで周囲を幻惑しつつ、着実にステップアップしてきたのである。
 剛は、そういうタイプとは生理的に合わないので、「お前の命運もこれで尽きるぞ。自分がここへきた限りは」と、『妖怪憎んで人を憎まず』がモットーの、IT妖怪ハンターにあるまじき決意をしてしまったのである。
 会議は、開始直後いきなり「部品の単価データはどこが揃えてくれるんだ?」という、押しの強そうなオートマチック・ソフトウェア株式会社の若林が叫び、責任の擦り付け合いが続き、最終的に、担当を割り振っていなかったなあ、川俣さん、ちゃんと決めてくださいよということになってしまうという。佐山から事前に聞いていた通りの、実りがなさ過ぎる展開だったが、川俣が発言している間中、捜魔の無線光学マウスが休むことなく光を放ち続けたので、成果としては充分である。
 閉会後剛は、佐山の指示により返却が叶った携帯電話で、装社実に連絡を取る。

―― なるほど。プロジェクト内に二体のIT妖怪。しかも対立しているとは。これは極めてレアな事例ですね。初仕事からそのような事例にぶち当たるとは。薬師神さん、引きが強いですなあ。
「……」
―― 先日お送りいただいた報告から、佐山氏に憑いているのは、やはり『悪霊・黙示録大佐』と見て間違いないでしょう。そして、その川俣某に憑いているのは、被憑依者の行動パターンからして『妖樹・其場死乃木(ようじゅ・そのばしのぎ)』であろうと考えられます。『妖樹・其場死乃木』は、特段に強い通力を持つIT妖怪ではありません。ただ、被憑依者がおかれている立場によって、『有言不実行な、いい加減な奴』で済む場合もあるし、今回のように進捗停滞の元凶となり、周囲に多大な悪影響を及ぼす場合もあるのです。
「『そのばしのぎ』。なんかそのままですね。もう少しひねりの利いた名前はないのかなあ。センスが悪いですね」
―― 黙らっしゃい。我が国におけるIT妖怪の命名者は、この私なのです。
「え? 失礼しました」
―― コホン。とにかく現場はかなり危険な状況のようですから、大至急退魔礼状を取りましょう。薬師神さん、二体の波動パターンは採取していますか。
「はい」
―― では、吸魔のUSBメモリーにコピーして、バイク便でこちらに送ってください。決して普通のUSBメモリーは使わないでくださいね。IT妖怪の通力で、データが揮発させられるおそれがありますから。その点吸魔のUSBメモリーには、結界プロテクトがかかっていますので。
「了解しました」

(五)


『悪霊・黙示録大佐』そして、『妖樹・其場死乃木』の退魔令状が降りたのは、会議から二日後のことであった。『退魔令状』とは司法上の逮捕状にあたり、警視庁サイバー犯罪対策課特命分室・IT妖怪班の要請を受けて最高裁判所が発令する。
 ただし、そのようなものをIT妖怪の眼前に「これが目に入らぬか」とばかり突き出しても、神妙になろうはずはない。どちらかというと、IT妖怪に憑依された技術者が所属する組織のトップに対して提示するためにあるのだ。退魔令状が発令されれば、客先でもなんでもアポなしで乗り込むことができる。また、憑依されている可能性のある人物が抵抗や逃走を試みた場合、暴力にて身柄を拘束することまで許されている。
 そして即日退魔令状がものを言い、『緊急対策会議』という名目で、関係者が招集された。
 参加者は、川俣晶一と佐山雅のIT妖怪憑き二人。佐山の側近金山敏弘。ゼロ課の装社実と松本瑠美衣、そして剛である。
 金山は不要なのだが、「佐山先生をそのような場でおひとりにさせるのは忍び難い」と泣き喚くので、仕方なく参加させたのだ。佐山のことより、自分が蔑にされるのが耐えられなかったのだろうが。
 松本瑠美衣に出馬願ったのは、『妖樹・其場死乃木』を撃退してもらうためだ。残念ながら、ひとりのハンターで、二体のIT妖怪と闘うことはできない。二対一で不利であるということ以前に、IT妖怪個々に、棲み家とする電脳魔界を構築しており、ハンターが両方にジャック・インできないというのがその理由だ。彼女は、ユニフォームである黒のライダースーツと、『ゼロ組』と染め抜かれた半被を装着済みであった。「よくその姿でここまで来られましたね。恥ずかしくなかったですか」と耳打ちしたところ、脚の悪い装社実が、電車による長距離移動に耐えられないので、ナマちゃん所有のGクラス・メルセデスベンツに同乗してやってきたという答えが返ってきた。さらに、「あんたの作務衣はどうなんだよ。そっちこそ恥ずかしくねえのか?」と切り返された。
 慣れというのはおそろしいもので、仕事中に作務衣を着るのが当たり前のように思っていたのだ。剛としては、案外作務衣を気に入っており、松本瑠美衣に対抗して、IT妖怪ハンティングの際のスタイルにしようかと考えている。ナマちゃんと薇研一は、駐車場に停めた車の中で、状況をモニタリングしてくれているらしい。
「新人ハンターちゃんの初陣に、なぜ課長代理であるボキを立ち会わさせないのか」と駄々をこねる袴田端正は、松本瑠美衣がこんこんとその緩みきった肉体に言い聞かせ、留守番として残してきたようだ。
 佐山と装社実は、お互いを確認すると、目で挨拶を交わしたようだが、残念ながらゆっくりと久闊を叙している暇はない。
 さらに、装社実がその謎の人脈でもって圧力をかけたのだろうが、会議には、平素川俣に仕事を任せきりにしていたIT推進部部長、新井信二(あらい・しんじ)が出席している。いや、強制的に出席させられているといったほうが正しい。
 被憑依者からIT妖怪を“切り離す”ときに、彼が所属する部署の責任者を同席させるのは、必須事項だ。役職者の監督不行き届きにより、部下に悪い物がとり憑いてしまったじゃないかという事実を認識させるためと、あとになって、知らぬ存ぜぬで押し通されるのを防ぐためである。
 IT妖怪の中には、顧客情報を始めとした保護すべき情報を流出させてしまう奴もいるので、そのような事実が明るみに出た場合、プライバシーマーク(日本工業規格『JIS Q 15001個人情報保護マネジメントシステム―要求事項』に適合して、個人情報について適切な保護措置を講ずる体制を整備している事業者等を認定する制度)の認定は一発で取り消しとなる。
 そもそも、「社員が悪質なIT妖怪にとり憑かれてしまうような会社ってどうよ?」と、コンプライアンス的に問題のある企業とのレッテルを貼られるおそれがあるから、IT妖怪撃退の謝礼、その実は口止め料として、それなりの金額がゼロ課に支払われるのだ。剛としてはこの口止め料に対し、モヤモヤとした気持ちを禁じ得ないが、それがゼロ課の重要な収入源だから仕方がないと諦めている。IT妖怪ハンターの仕事は、かなりの危険を伴うのだから。
 従って、同席させる者の役職は、課長よりは部長、部長よりは役員、役員より代表取締役と、高ければ高いほどよいが、N社のような大企業の場合、新井レベルで限界だろう。彼とて、曲がりなりにも肩書は副部長なのだ。
 会議は、ラボ統括本部及びラボ責任者の執務室がある、十七階建てビル最上階の第一会議室で開催されている。その階はラボの建物内とは完全に別世界で、廊下には足首まで隠れそうな絨毯が敷き詰められているのだった。会議室も、本社から重役が視察に訪れたときにしか使用されない、とてつもなく豪華な作りで、テーブルなどは、何百万円するか見当もつかない、マホガニーの一枚板だ。
 スクリーンを背にした議長席に新井副部長、その右隣に川俣、対面に装社実と佐山が並んで座り、佐山の隣に金山。装社実の側に剛、松本瑠美衣の順に座っているという布陣である。
 新井は最初から不機嫌極まりなかった。その理由は、「私は非常に残念です。『ハイパー・ブループリントシステム』は、確かに今期の目玉プロジェクトですが、並行して開発中のもの、そして運用中のものと、重要なプロジェクトは多数あります。私はIT推進部の責任者として、すべてを見る責務がある。だから、そのなかのひとつに過ぎない「『ハイパー・ブループリントシステム』の問題に時間を取られている暇はないのです。川俣君に一任しているはずなのですがね」という、彼の第一声によく表れている。
 アイ・ピー・システムは、システム開発を発注している、単なる一業者に過ぎない。さらに、装社実という男が率いる、『スリースターズ・ユニバーサル・なんとか・かんとか』なる長ったらしい名前の会社は、そのアイ・ピー・システムへ技術者を派遣している、いわば孫請けなのであって、彼らからすれば、自分などは雲上人ともいえる存在のはずだ。それなのになぜ、彼らの呼び出しを甘んじて受けねばならないのかという怒りで、はらわたが煮えくり返っているのである。
 また、開催される場所が気に入らない。『ハイパー・ブループリントシステム』の定例進捗会議は通常、ポンコツ事務棟と一階会議室で開催されており、それでもう充分で、会議室が割り当てられるだけ贅沢というものだが、なぜ、ラボ統括本部の会議室なのか。新井自身、過去一度だけしか入室したことがなかったのに、なにが悲しくてSIer風情を通さねばならぬのだ。
 ただ、今は新井が、議長席の肘掛付きふかふかチェアーに腰掛けている。おそらく定年まで二度と経験することは叶わぬだろうから、それがまだしもの救いだと考えることにする。
 新井は、怒りだけではなく、どうにも耐えきれない居心地の悪さを感じていた。「緊急対策会議に出席せよ」という指示は、N社において、新井からすると雲上人にあたる筋から通達されたもので、「忙しいから」という理由で断っても、まったく聞く耳を持たれなかった。あまつさえ、この○○命令を拒否する場合は、馘首も視野に入れるべしと厳命されたのだ。
 ○○のところがよく聞き取れなかったが、確か“出頭”であったように思う。“出頭”などとはまるで、犯罪の容疑者扱いではないか。どうにも納得がいかず、部長に問いただすと、どうやら上層部に圧力がかかったらしい。アイ・ピー・システムなどは、N社からすれば吹けば飛ぶようなSIerだから、圧力などかけようがない。とすれば、消去法により、眼前にいる柔和な顔立ちの初老の男、風采の上がらない中間管理職然とした装社実が、N社上層部に圧力をかけたとしか考えられないのである。
 『ハイパー・ブループリントシステム』プロジェクトが、このように薄気味の悪い連中を呼び寄せるような事態に陥っていることを新井はまったく知らなかった。川俣からは、万事順調に進捗しており、八月末の本番稼働にあたって障碍となるファクターなど、一切存在しないとの報告を受けていたのに。
「新井部長。ご多忙の中、お時間を取っていただき、まことに恐縮でございます」
 佐山が口を開いた。いよいよ決戦の火ぶたが切って落とされたのだ。
「本会議は、御社IT推進の目玉であります、『ハイパー・ブループリントシステム』開発の危機的現状を新井部長にご報告したく、開催させていただいたものであります」
「『危機的現状』とはどういう意味かね。川俣君からは、八月末の本番稼働に向け、一片の不安要素もなく、万事粛々と進行していると報告が上がっているが」
「ハッ、お笑い草だぜ。なんにも知らねえでやんの、このオヤジ。ボンクラの上司は、やっぱボンクラってことだぜ」
 松本瑠美衣が素っ頓狂な声をあげたが、佐山と装社実に睨まれて、顔を赤くし、頬を膨らませている。若干フライングを犯してしまったことに気づいたようだが、彼女の性格からすると、茶番は一分一秒たりとも耐えられないのだ。実は、剛も同じ気持ちなのである。
「なんだねその女は。失敬じゃないか君。そもそもなんだねその姿は。退出したまえ!」
「まあまあ。彼女のことは気にしないでください」
 いきり立つ新井を装社実が制した。
「分かりましたね」
 静かだが、有無を言わせない命令口調だ。装社実がどのような立場の人間か、見極めがついていない新井は、ただ従うほかはない。
「よろしい。では佐山さん、続けてください」
「『ハイパー・ブループリントシステム』の本番稼働まで、残すところ二ヶ月となりましたが、システム間の連動テストはおろか、各社担当分の開発すら終了していない状態です。それはなぜか」
 佐山は、あろうことか、さも会議そのものに興味を持てないという様子で、スマートフォンを弄っている川俣を指さした。
「この川俣という男があまりに無能なため、サブシステム間インターフェース仕様がまったく確定しないからです。この男には、システム全体を俯瞰して調整するという能力が一切ない。その場を凌ぐためだけに、適当なことをほざくのみ。現実味のない施策、果たされない約束。もうたくさんだ。
 私は、彼の任を解き、有能、とまではいかなくとも、もっと“まとも”な担当者のアサインを要求します」
 剛には、佐山の指先から川俣に向かって迸る“気”の塊が見えた。それが、川俣の体を覆う“気”の球体にぶつかって霧散する様子を。川俣はただ無言で、不敵な笑みを浮かべているのみだ。仕方なく新井が対応することになった。
「まず最初に断わっておく。SIerの人間風情に、うちの要員配置をどうこう言われる筋合いはない。川俣君。ええっと、この男は誰だったか?」
「メインフレームと、設計システム間のデータ連携部分を担当していただいている、アイ・ピー・システムの佐山氏です」
「そうか。佐山氏は先ほど、君を糾弾したが、それは事実かね?」
「まったくの事実無根ですよ部長。フッ」
 川俣は確かに笑った。しかも、佐山に向かっての嘲笑だ。剛はこの川俣という男の精神構造が、まったく理解できなかった。
「さすがは『妖樹・其場死乃木』憑きだけのことはある。堂々としたものだ」
 横で、装社実が呟く。
「新井部長。佐山氏の姿をご覧ください。作務衣ですよ。社会人としてあり得ない。この男はね部長、システムを作りにここへ来たのではないのです。メンバーをここに監禁して、自らの独立王国を作りに来たのですよ。私が熟考の末に仕様を決めても、本当に些細な問題点を穿り返し、無に帰そうとするのです。なぜでしょうか。それは、独立王国を永遠に存続させるためなのです。メンバーの中には幾人か女性がいます。当然のことながら、全員この男の性奴隷と化しているに相違ありません。イニシエーションとかいう、わけの分からない名目でね」
 金山が思わず目を伏せた。彼にはやましいところがあるから、自分が指摘されたように感じたのだ。
「そんな男と私と、どちらの言を信じるのですか、部長」
「分かった。では、即刻アイ・ピー・システムとの取り引きを停止し、別のSIerを選定しよう。川俣君、これまで付き合いのあったSIerから数社見繕って、見積を取ってくれたまえ」
「了解しました。それでは諸君、会議はこれで」
「そうはいかぬぞ、〇△%■$&#▽□!」
「往生際が悪いぞ■$&##▽□〇△! 俺の勝ちだ」
「なに%■$&#〇△%■$&♪▽▲☆_★」
「貴様こそ、〇△%■$&■$&#〇△%」
 二人は、とても人間が理解不能であるどころか、発音すらできない言葉で罵り合い始めた。同時に、会議室内に硫黄の臭いが充満する。
「臭い」
「なんだ?」
 参加者の数名かが、口と鼻を覆った。ただ、二人の様子を見て呆然としているだけの者もいる。当然、装社実と松本瑠美衣は硫黄臭を嗅ぎとっているだろうが、慣れているのか、眉ひとつ動かさず、涼しい顔をしている。
「驚きました。IT妖怪同士が罵り合いを始めましたよ。これは極めて貴重なケースです。聞きましたか薬師神さん。なにをってあなた、最初にお互いが放った意味のない音のられるですよられる」
「られる、ではなくて羅列ですね」
「そうそう、そのられる。あれ? どうやら興奮しすぎて、ろれるが回らなくなったようです。あれは、それぞれの名前ですね。私が勝手につけた綽名ではなく、彼らの真の名前ですよ。これは大変なことになりました。のちほどナマさんに解析してもらいましょう。
 薬師神さん、録音はしていらっしゃるでしょうね。まさか、『録音を忘れちゃった』などと、間抜けなことを言わないでくださいよ。あ、している。それは重畳」
 剛は、装社実がこれほど興奮しているのを見たことがない。
「%■$&#〇△%■$&■$&#▽□!」
「△%■$&♪▽▲☆_★△%■$&♪▽▲☆_★!!!」
 二体の妖怪の罵り合いは続いている。佐山の顔は、首筋まで真っ赤になり、まさに憤怒の形相となっていた。川俣に憑いた『妖樹・其場死乃木』が、意味が分かれば耳を覆いたくなるような罵声を佐山に憑いている『悪霊・黙示録大佐』に浴びせているのだろう。『妖樹・其場死乃木』は、口八丁が売り物のIT妖怪だから、口喧嘩では『悪霊・黙示録大佐』のほうが分が悪い。
「いい加減にしろ、この野郎!」
 剛は、怒声と共に、あるものを川俣に投げつけた。それが、川俣の眉間に見事命中する。
 バフッ。
「ぴぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
 小さな爆発音とともに川俣の悲鳴。彼の周囲には、薄ボンヤリした光を放つ珠が、数十個散らばっている。
「薬師神さんでば。まさか、怒りにまかせて『退魔のアミュレット』を投げつけたんじゃないでしょうね。無茶はいかんよ無茶は。高いんだから。てなことはどうでもよくてあなた、『退魔のアミュレット』なしで、どうやって闘うの? 阿呆と違いますか」
 装社実が興奮すると、平常時と違って剽軽になる。
「違いますよ。あれは自分が作った練習用の模型ですが。小麦粘土製の」
「も、模型?」
「模型っつても、薬師神先生の念がこってり乗っかっちゃってるんだぜ。そんなシロモノをぶつけられてみろっての。さしものIT妖怪だって、ダメージを喰らわあな」
 松本瑠美衣が横から、かなり説得力のある推論を披露した。
「そんな。小麦粘土のアミュレットに念がこもってですね、IT妖怪にダメージを与えるなんてですね、科学的根拠がないじゃあ、あありませんか」
「じゃあ、ホンモノのアミュレットの効果を現代科学で証明できるってのかい? できねえだろ。IT妖怪について分かってることなんてのは、たったひとつしかねえぜ。なあんも分かっちゃいねえってことだけさ」
「ううううううううぅぅぅむ」
「二人とも、そんなことよりあれを!」
 剛手製の模型アミュレットがぶつかった川俣の額に亀裂が入り、そこから黒い霧のようなものが噴出して、サッカーボール大の塊になり蟠っている。
「『妖樹・其場死乃木』が川俣から分離して、インスタンス化しつつあります。薬師神さん、松本さん。一気にカタをつけましょう。退魔経を!」
「任しときな」
 松本瑠美衣が『退魔のアミュレット』を取り出し、操作を開始した。剛もそれに倣う。
 ― 93 8C 95 FB 8D 7E 8E 4F 90 A2 96 E9 8D B3 96 BE 89 A4 93 EC 95 FB 8C 52 92 83 97 98 96 E9 8D B3 96 BE 89 A4 90 BC 95 FB 91 E5 88 D0 93 BF 96 E9 8D B3 96 BE 89 A4 96 6B 95 FB 8B E0 8D 84 96 E9 8D B3 96 BE 89 A4 92 86 89 9B 91 E5 93 FA 91 E5 90 B9 95 73 93 AE 96 BE 89 A4 東方降三世夜叉明王 南方軍茶利夜叉明王 西方大威徳夜叉明王 北方金剛夜叉明王 中央大日大聖不動明王!
 退魔経の詠唱で、川俣の眼前で蟠っていた霧の塊が見る見る膨れ上がり、醜悪な人面を形作っていく。松本瑠美衣はそれに向かって退魔のアミュレットを突き出し、小柄な女性とは思えない大音声を発した。
「IT妖怪正体見たり。妖樹・其場死乃木! 貴様に命ずる。この男を解放し、疾(と)く去れ!」
「おのれ口惜しや」
 霧の塊が急激に収縮し、細長い糸状になって、会議室の隅に設置されている無線LANルーターに吸い込まれていく。新井と金山は、既に席に座っていなかった。逃げ出したのではない。あまりの衝撃に椅子から転げ落ち、腰を抜かして床にへたり込んでいたのだ。
「逃がすかよ」
 松本瑠美衣は、手馴れた所作で『破魔のヘッドギア』を装着し、電脳魔界にジャック・インする。
「グボッ」
 装社実の横で、佐山の口から声と言うよりも爆発のような音が漏れ、バスケットボール大の黒い煙の塊が吐き出された。そしてその塊も、無線LANルーターに吸い込まれる。佐山は、IT妖怪が分離した衝撃で気を失い、机に突っ伏してしまった。
「『悪霊・黙示録大佐』も、佐山さんの体から分離しました。薬師神さん、奴を追うのです」
「了解」
 剛も『破魔のヘッドギア』を装着した。
「魔界公開鍵生成!」
(BCAD4DF502015-01-2511:56:1431131407D3E3CBEY3Nhc2NzY2NhYXNjZGJiZmJnbmZnbWxra3R5a3R5a3R5a3liZXJidncyNTc1Mjc1Mjc1Mjc1MjAwMjA5OTY5OTg2OTg2ODk4Njkzc3NjYWFzdnN2YXNzYX2015-01-2511:56:1431131ZiYmRkYnNzZGJybmVuZXJuZXJubnJyZXJlaGpqeXVpeXVpdXlpc2ZzZHNkc2Voc2Voc2Voc2VoeGNieGRiZ21mZ21mZ2tya3JlZ3dlZ3dxMTIzNTQ1Nzc3OTZ0eWRmc2JzZGR2c2JmZG4=6B5AF8D2CF74C7A0B04E9bcad4df50407d3e3cbe6b5af8d2cf74c7a0b04e9A70E06B70BE518474c2NhYWNdmFzYXZzYXN2ZXdoZWhld2h3aGVxcXdmdzEyNDI0MTU1NDc1OTc5Nm91a2ZnZG5mZmJzZ3Jwb2l1eXRyZXdsa2poZ2ZmdmRiZWJycnJlbg==zYWNzNDNoaDQzMzRoM2g0aDM0M2g0MzRo984QkNBRDRERjUwNDA3RDNFM0NCRVkzTmhjMk56WTJOaFlYTmpaR0ppWm1KbmJtWm5iV3hyYTNSNWEzUjVhM1I1YTNsaVpYSmlkbRjMU1qYzFNamMxTWpjMU1qQXdNakE1T1RZNU9UZzJPVGcyT0RrNE5qa3pjM05qWVdGemRuTjJZWE56WVhaaVltUmtZbk56WkdKeWJtVnVaWEp1WlhKdWJuSnlaWEpsYUdwcWVYVnBlWFZwZFhscGMyWnpaSE5rYzJWb2MyVm9jMlZvYzJWb2VHTmllR1JpWjIxbVoyMW1aMnR5YTNKbFozZGxaM2R4TVRJek5UUTFOemMzT1RaMGVXUm1jMkp6WkdSMmMySm1aRzQ9NkI1QUY4RDJDRjc0QzdBMEIwNEU5YmNhZDRkZjUwNDA3ZDNlM2NiZTZiNWFmOGQyY2Y3NGM3YTBiMDRlOUE3MEUwNkI3MEJFNTE4NDc0YzJOaFlXTmRtRnpZWFp6WVhOMlpYZG9aVFHVnhjWGRtZ2015-01-2511:56:1431131HpFeU5ESTBNVFUxTkRjMU9UYzVObTkxYTJablpHNW1abUp6WjNKd2IybDFlWFJ5Wlhkc2EycG9aMlptZG1SaVpXSnljbkpsYmc9PXpZV056TkROb2FEU2015-01-2511:56:1431131XpNelJvTTJnMGFETTBNMmcwTXpSbzk4NDE5OTVCMEM0QTcwQzdDOTc1MjcyYTcwZTA2YjcwYmU1MTg0NzQ5ODQxOTk1YjBjNGE3MGM3Yzk3NTI3Mg1995B0C4A70C7C975272a70e06b70be5184749841995b0c4a70c7c975272)
 魔界公開鍵の認証が完了し、ゴーグルに取り付けられた有機ELスクリーンに、電脳魔界へと繋がるゲートが映し出された。
「ジャック・イーーーーン!」 
 

(六)


―― ハンター薬師神。君は私がフォローする。
 電脳魔界にジャック・インした剛に、ナマちゃんのからのマカイムスのボイスチャットが入ってきた。駐車場に停めた車からモニターしてくれているのだ。実際、剛はナマちゃんのフォローを心強く思っていた。なぜなら、初めてジャック・インした電脳魔界の様相が、シミュレーターとかなり違っていたからである。
 シミュレーターの電脳魔界は、八方向シューティングゲームの如き2D世界だったのだが、実際は奥行きのある3D世界なのだ。しかも無(NULL)がタイル状に敷き詰められた無味乾燥な空間ではなく、地面があり空があり草が萌え、木々が生い茂り、遠くには山々が聳え、ときおり聞こえる鳥のさえずり、小川のせせらぎといった聴覚効果もあるという、極めてリアルな空間なのである。
「あの、ナマさん。シミュレーターとは、かなり違うように思うんですが。鳥が鳴いたりなんかしてます」
―― 当然だ。そんな世界を忠実にシミュレートしてみろ。どれだけ工数がかかると思っているのだ。シミュレーターの中でが鶯がホーホケキョと鳴いて、なんの意味がある? シミュレーターはあくまでシミュレーターだ。だだ、技術的に無理だと言っているわけではないぞ。暇がないからやらんだけだ。よいかハンター薬師神。電脳魔界を俯瞰的に捉える努力をしてみろ。そうすれば2Dと同じではないか。
「は、はい」
 なんとなく、適当に誤魔化されたような気もする。さらにシミュレーターと勝手が違っているのは、グルグルと歩き回っても、一向に妖怪の本体と遭遇しないことだ。電脳魔界にジャック・インするやいなや、勇壮な闘いのテーマが流れ、戦闘に突入するのではなかったのか。
「こちら薬師神。ナマさん。一向に敵と遭遇しませんが、どうぞ」
―― うむ。妖怪の座標は逐次捕捉しているが、どうも君との遭遇を避けて、常にランダムに移動し続けているようなのだ。意図がさっぱり分からん。これは極めてレアなケースである。IT妖怪は、電脳魔界への侵入者には非寛容で、速やかに排除すべく攻撃を仕掛けるはずなのだが。『悪霊・黙示録大佐』の行動パターンは非常に謎が多いな。
「現在の座標が分かっているのなら、ブロック転送で移動します」
―― まあ待て。『悪霊・黙示録大佐』の行動アルゴリズムはまったく不明なのだよ。出会い頭に接近戦となれば、経験不足の君は不利だ。作戦を考えてみるから、もう少し散歩を続けてくれ。
「散歩って」
 散歩せよと言われても、この電脳魔界には、道らしき道がない。道がないと目標が定まらず、非常に歩きにくいのだ。仕方なく剛は、川沿いを歩いてみることにする。空気は美味い、ような気もするし、川のせせらぎの音が心地よい、気もして、自分がここになにをしにきたのか、分からなくなってしまう。途中、水を飲みに山から降りてきた小鹿に、怖い顔で威嚇された。
「こちら薬師神。小鹿のバンビがいたりしますが。電脳魔界は、主であるIT妖怪以外生物がいない、死の世界ではなかったのですか。もしかすると、IT妖怪が化けているのでは? どうぞ」
―― こちらでは、小鹿のバンビは捕捉できていない。電脳魔界は、現実に存在する世界ではなく、有機ELスクリーンに投影されたイメージにすぎない。IT妖怪の思念とハンター薬師神の精神状態が融合して、世界が構築されているのだ。
自分はいま、多分にバンビ的な精神状態であるということか。実際『悪霊・黙示録大佐』と闘おうという気がしない。いや、この世界が『悪霊・黙示録大佐』の思念との融合だとすれば、彼も剛と闘う気がないということなのか。
―― ハンター薬師神。ついいましがた、ハンター松本が『妖樹・其場死乃木』を退魔した。
―― こちら松本ですどうぞ。なんでい。まだ梃子摺ってんのかよ。こっちは早々にカタぁつけてやったぜ。
 松本瑠美衣から割り込みのマカイムスチャットが入ってきた。
「おめでとうございます。さすがですね」
―― それほどでもねえよ。ホント、口ほどにもねえ野郎だったからな。ま。そもそも口が上手いだけの奴なんだがよ。どうでい、助太刀してやろうか。
「無用です。ここは自分がひとりでやりますから」
―― あんたのことだから、そう言うと思ったぜ。まあ、頑張んなよ。無事アポカリのバケモノを倒して戻ってきたら、ご褒美としてほっぺにチューしてやる。
 剛の場合、ほっぺにチューしてもらいたい女性はほかにいるし、松本瑠美衣が本気で言っているとも思えないが、「じゃあいっちょやったるか」という気持ちにならないと言えば嘘になる。
―― 其場死乃木の消滅を感じとったのかどうかは不明だが、『悪霊・黙示録大佐』の行動に変化が現れたぞ。ランダムな移動をやめて、先ほどから一定座標に止まったままだ。移動方向の演算を行っている様子も伺えぬから、停止してハンター薬師神の接近を待ち、迎え撃つつもりだろう。
「向こうがその気なら、こちらから仕掛けてやります。奴がいる座標は?」
―― X座標8F3E、Y座標F8A7、Z座標D3だ。
「いきなり16進で数値を言われても。そもそも自分がいる座標が分かりません」
―― スクリーンの右下に、現在位置が分かるウィジェットがあろう。
「景色を眺めるときの邪魔になったので、ウィジェット類を非表示にしていました。そんなに便利なものだったのか。シミュレーターには存在しませんので、見方が分からなくて、消しちゃったんです。
―― 嫌味かね。シミュレーターはあくまで戦闘訓練用だから、そんなもの不要なのである。とっとと表示に切り替えるのだ。コマンドアイコンやゲージ類の助けを借りずにIT妖怪と闘おうなどというのは、少なく見積もって一年五ヶ月と十八日と六時間早いぞ、ハンター薬師神。
「申し訳ありません」
―― 僕はキュルキュルキュルナマさんの見積はキュルルすぎると思うキュルルルルルー。ぼキュルルルルー、九かげチュルルルルルルル
「だ、誰ですか?」
―― ドクター薇だ。珍しくエキサイトして、五倍速モードで動いておられるのだ。ドクター薇は、ゼンマイが巻き戻る速度をスイッチで切り替えることによって、自らの動作の緩急を調整することができるのである。これドクター薇。動作モードを通常に戻してくれないだろうか。でないと、なにを言っているか、さっぱり分からぬ。
―― 失礼。僕は、ナマさんの見積は厳しすぎると思う。僕なら九ヵ月と八日と十五時間三十二分〇七秒と見積もるね。ただし、プラスマイナス五秒程度の誤差は大目に見てほしいが。
―― だそうである。私としてはこの件について、ドクター薇と徹底的に激論を交わしたい気分だが、どう考えてもいまは、そんなことをしている状況でないのは明白だ。
「はあ」
 剛には、彼らの、細かすぎる見積の根拠がよく分からない。彼ら天才の論理は、凡人である剛には永遠に理解不能なのである。ウィジェット類をすべて表示に変更すると、スクリーン左下に現在位置を現す、四角形のマップが現れた。点滅している黄色いドットが剛の現在位置だ。黄色いドットから、かなり離れたところにある赤いドットが『悪霊・黙示録大佐』の位置を示している。こんな便利なものがあるのが分かっていれば、バンビに威嚇されずに済んだのに。確かに剛が接近していっても、赤いドットは動く気配を見せない。
「『悪霊・黙示録大佐』との距離がかなりありますので、トコトコ歩いて行っては埒があきません。近くまでブロック転送移動してもいいですか?
―― かまわぬが、くれぐれも座標の計算を慎重にやるのだぞ。いきなり敵の眼前に出現してしまうという、ポカだけは犯すなよ。背後から行け背後から。
 背後から行けと言われても、小さなドットでは、どっちを向いているか分からないではないか。小細工が嫌いな剛は、最初から『悪霊・黙示録大佐』のすぐ近くに移動してやろうと思っていたのだ。「ポカを犯すな」と釘を刺されたが、ポカではなく確信犯的結果なら問題なかろう。
「ここまでやって来たのか貴殿。只者ではなかろうと踏んではいたが、やはりハンターを生業とする者であったか」
 近いにもほどがあって、剛がブロック転送移動で実体化したのは、『悪霊・黙示録大佐』の目の前、距離にして二メートルもない地点だった。周囲を見回すと、四方が幕に囲まれている。戦国ものの時代劇に出てくる武将の本陣なのだろうが、よく見ると幕は白と黒のストライプで、これでは葬儀会場である。また『悪霊・黙示録大佐』は鎧兜の武者姿だが、腰掛けているのは、木製の折りたたみ式ディレクターズチェアという、とんでもない構成だ。IT妖怪の思念と自分の精神状態が融合した結果がこれかと思うと、情けなくなってくる。
「〇△%■$&#▽□を打倒したのも、貴殿なのか?」
相変わらず〇△%■$&#▽□のところが聞き取れなかったが、文脈から判断して『妖樹・其場死乃木』のことを指していると推測される。
「自分ではありませんが、自分の仲間です」
「では、貴殿の役目は我を打倒することなのだな」
「はい。一応そういうことになります」
「討たれてやってもよい」
「は?」
「佐山の要請により、〇△%■$&#▽□を打倒するため彼の体に宿ったものの、手を拱いているうち、横から現れた貴殿たちに先を越されてしまった。これは極めて屈辱的な結果である。〇△%■$&#▽□が打倒されたいま、この世界に留まることは無意味だ。このまま我が住まいしたる世界へ戻りたいが、貴殿はそうはさせぬのだろう」
「確かにそうなのですが、自分の本来の使命は、あなたたちを倒すことではなく、窮地に陥った技術者たちを助けることなのです。『ハイパー・ブループリントシステム』の進捗を妨げ、技術者たちを苦しめていたのは、川俣に憑いていたモゴニョゴニョであって」
「無理に発音しようとせんでもよい。貴殿らの呼び方でよいぞ」
「『妖樹・其場死乃木』です」
「その場凌ぎか。なかなか秀逸な命名だ。あやつにふさわしいわ」
 そうだろうか。剛としてはあまりにダイレクトすぎると思っていたのだが、確かに大向こうに受けそうな命名ではある。
「其場死乃木が倒れれば、現場の状況は劇的に改善されるでしょう。従って自分にはあなたを打倒する理由が見つからないのです」
―― ハンター薬師神。なにをひとりでブツブツ言っているのだ。敵が動かないなら、さっさとリファレンスアンカーを打ち込んで捕獲し、ヌル初期化砲でとどめを刺せ。
「しかし、相手はまったく攻撃を仕掛けてきませんよ。無抵抗の相手にヌル初期化砲をぶちかますなんて、撃退じゃなくて殺戮じゃありませんか」
―― IT妖怪ハンターの仕事はIT妖怪の捕獲と駆除だ。本分をわきまえよ。さらにIT妖怪の中には、心理的に攻めてくる奴もいると聞く。精神を絡め取られるな。
 彼らには、『悪霊・黙示録大佐』の声がモニターできていないに違いない。声が聞こえていれば、心理的にどうこうという言葉は出てこないはずだから。
「闘いに集中したいので、暫くマカイムス通話を切ります」
―― 待て。無茶をしてはいかん! マカイムスを切ってしまったら、IT妖怪本体と君の位置程度しかモニタリングできなくなってしまうぞ。初陣の君には、まだ我々の後方支
 グツッ。
「自ら本営との通信を絶つとは、思い切ったことをする。あとで懲戒を受けるのではないか」
「別に気にしてません。ここでは自分自身が指揮官なので」
「なるほど。では、邪魔者がいなくなったところで貴殿に問おう。我をどうするつもりなのだ?」
「まず『リファレンスアンカー』という武器を撃ち込ませていただきます。これは、アドレスのポインターのポインターでして、いくらあなたが目に見えないほど遠い場所に移動したとしても、瞬時にアドレスを捕捉できるのです」
「それで?」
「リファレンスアンカーが指し示すアドレスから、、これ。このとおり瓢箪の形に見えていますが、『吸魔のUSBメモリー』という道具でして、これに、あなたの体を構成しているバイト長分をコピーして取り込み、バイナリ―ファイルとして保存します。要するに捕獲するのです。あなたのデータはサーバー『アカシック』に保存され、今後またあなたがどこかでインスタンス化したときの対策検討用資料となるわけです。捕獲が無事完了すれば、最後は『ヌル初期化砲』という武器で。あっ!」
 黙示録大佐が突然、膝からその場に崩れ落ちた。見ると、右手に持った刀で、腹部が真一文字に切り裂かれていたのだ。
「貴殿には申し訳ないが、虜囚の辱めを受けるわけにはいかぬ」
「自決だとぉ?!」
 問われるまま、呑気に解説をしている隙に、『悪霊・黙示録大佐』はとんでもない行動に出たのだ。途端、剛の眼前に広がっていた仮想世界が形と色を失い、ただ虚無と16進数の羅列で表現されるメモリ空間に変容する。自刃を断行して深手を負った『悪霊・黙示録大佐』が、仮想世界を維持することができなくなってしまったのだ。

『悪霊・黙示録大佐』本体中央部がヌル(00)で分断され、それが徐々に全体へ広がりつつある。立っていられないほどの激痛だ。なぜ剛にそれが分かるのかというと、彼、厳密には彼の“アルバタール”が黙示録大佐にシンクロし、腹部に亀裂が生じたからだ。こらえきれず抑えた手には、血糊がべったりと付着している。
「フフッ。大砲の如く近代的な兵器ではないが、これぞ『ヌル初期化刀』というところさ。貴殿、済まぬが介錯してくれぬか。これ以上は辛い」
「承知しました」
「冥土の土産に聞いておこう。貴殿たちは我をなんと呼んでいるのか?」
「悪、いえ。えっと『闘鬼・戦国武将(とうき・せんごくぶしょう)』です」
 剛は嘘を吐いた。だが、眼前の者は『悪霊・黙示録大佐』という名では、断じてあり得ない。
「我に似つかわしくない、勇壮なる名だが、気に入った。今後またこの世界へ転生することあれば、自ら名乗ることとしようぞ。では頼む」
「御免。ヌル初期化砲発射!」

 瞬時にして、『闘鬼・戦国武将』の実体が虚無(ヌル)に置き換わる。剛は、自分を感情の振幅は激しいものの、涙脆くはない人間と自負していたが、さすがに『闘鬼・戦国武将』が消滅したときは、こみあげてくるものを堪えるのに一苦労であった。やがて、有機ELスクリーンに射影されていた光景がフェードアウトし、真っ暗になる。剛の意識が現実に戻ってきたのだ。
「ふう」
 剛は、『破魔のヘッドギア』を取り外しながら、ひとつため息をついた。
「お疲れさまでしたね、薬師神さん。首尾は上々というところでしょうか。ところで、マカイムスが切断されたままですね。私の携帯に、ナマさんから連絡が入っています。スピーカーモードにしますね」
―― もしもし私だ。ハンター薬師神。まずは、勝利おめでとうと言っておこう。で、インスタンスは捕獲しただろうね。
「インスタンスは捕獲していません」
―― なにぃ! なぜかね。
『吸魔のUSBメモリー』を使用する前に、自決によりヌル化が始まってしまったのだ。だがこのことは、報告しないほうがよいと剛は判断した。
「攻撃を受けて負傷したため軽いパニックに陥り、手順を間違えました。申し訳ありません。
―― なんということだ。『悪霊・黙示録大佐』のインスタンスがあるとないでは、報奨金が一桁違ってくるのだぞ。
「まあまあ。ナマさん、カリカリしなさんなって。初陣だからしょうがねえや。俺なんざ初陣の時、妖怪野郎のあまりに恐ろしげな姿にテンパっちまって、いきなりヌル初期化砲ぶっぱなしたんだぜ。
 ラッキーなことに、相手があっちこっちに出るやつでさ。インスタンスサンプルなんぞ、もう間に合ってますてな具合だったから助かっただけなんだよ」
「松本さんの言う通りだぞナマさん。薬師神さんは、腹部を負傷しています。作務衣に血が滲んでいるね。おそらくスティグマティクスでしょう」
 スティグマティクス(聖痕現象)とは、電脳魔界において、IT妖怪の攻撃がハンターのアルバタールに命中し、プログラムの一部が破損したとき、現実の肉体にも損傷を受けるという現象のことだ。
「可哀想に。よしよし。あとで赤チン塗ってやるからな。てことで、勘弁してやんなよ、ナマさんてばよう」
―― ううむ。そういうことなら仕方がないが。しかし納得がいかぬ。それでは普通のハンターではないか。私は、ハンター薬師神の適正を高く評価しており、その程度のことで手順を間違ったりせぬと思うのだが。買い被りすぎたのか。
「同じ過ちを繰り返さないよう注意します。なお、ナマハゲさんだけではなく、皆さんに申し上げておきたいことがあります。彼の名前は『悪霊・黙示録大佐』ではなく、『闘鬼・戦国武将』です。もし『アカシック』に名前が登録されているのなら、訂正をお願いしたいですね」
「『闘鬼・戦国武将』ですかあ?」
『悪霊・黙示録大佐』の命名者である装社実は、若干不満げだ。
「本人がそう名乗っていたのです」
「でも、あのときはなにやら、とても地球人では発音できないような名を呼び合っていたようですが」
「電脳魔界にジャック・インすると、直接頭に響いてきまして、意味が理解できたのです」
「本当ですか? IT妖怪が名前を名乗るなんて、これまで経験がないですがなあ」
 装社実は、あくまで食い下がってくる。
「昔の武将は、合戦のとき名乗り合ったのでしょう、『やあやあ』って。彼が名乗ったのは『戦国武将』だからこそじゃありませんか。課長、自分は嘘が大嫌いな性格です。なんならもう一度、佐山さんに憑いてもらって」
「装社君。横からこのようなことを申し上げてなんだが、私は彼と一ヶ月近く付き合ってきたわけで、『悪霊・黙示録大佐』よりは、『闘鬼・戦国武将』のほうがしっくりくるよ」
『闘鬼・戦国武将』が分離したときの衝撃から、ようよう回復した佐山が、剛を擁護した。剛はまた嘘を吐くことになったが、これこそ“嘘も方便”の典型的な例である。
「分かりましたってば。薬師神さんの言葉を疑った私が悪いんですね」
「冗談じゃないよ!」
 突然素っ頓狂な声を張り上げたのは、金山だ。
「なにが『闘鬼・戦国武将』だよ。化け物じゃないか。僕たちは、この化け物に操られてたんだ。なんなんだよこの作務衣はよぉ!」
 金山は作務衣の上着を脱ぎ、くしゃくしゃに丸めて佐山に投げつけた。間近であったため、佐山の顔面に命中する。
「僕がリーダーを続けていればよかったんだよ。こんな化け物を呼ばないでさ。そうすればこんなことにゲハッ」
 際限なく佐山を罵り続けていた金山の体が、くの字に折れ曲がった。剛の蹴りが彼の腹部を襲ったのだ。
「いい加減にしとけよ。このセクハラ・パワハラ野郎。誰のせいで佐山さんがIT妖怪と手を結ばなくちゃいけないことになったんだ。元はと言えば、お前が頼りなかったからじゃないか。
 いいか、これからすぐ病院へ行って、内臓が損傷してないか診てもらえ。もしなにかあったら、治療費を請求しにこい。自分は、株式会社ツサ・システムゼロ課の薬師神剛だ。逃げも隠れもしない」
「あんた。マジ格好いいな」
 松本瑠美衣が、剛の首に腕を回してグイッと引き寄せ、頬に口づけした。身長差があるので、松本瑠美衣からアクションを起こす場合、かなり強引なことをしなくてはならない。
「ええっと。これは約束してたご褒美だ。勘違いすんなよ。色恋沙汰抜きで、戦いの場から無事生還した、恰好いい男には、ほっぺにチューしたくなるんだよ。それが女の子ってか」
 松本瑠美衣は、ほんのりと頬を染めている。
「ありがとうございます。男は、可愛い女性にキスされると、恋愛感情云々は関係なく、気持ちが昂るものです」
「そうかよ。それなら、恥ずかしいのを我慢して、チューしてやった甲斐があるってもんだ」
―― おおい。一部始終こちらに中継されているぞ。やってられん。とっとと仕舞いして、車に戻ってきてくれ。

(七)


「そうですか。志位が辞めたいと言いだしたんですか」
「そうなのよ」
「まだ完成してないんでしょう、山岡血清のシステムは」
「うん」
「ある程度、先が見えてきたとか?」
「ぜえんぜん。まだ途中もいいところね。出口の見えない真っ暗な迷路の中を手探りで進んでるって感じかな」
 剛と、かつての上司である城富美子は、渋谷道玄坂にある『レオン』というバーで、カウンターの隅に並んで座っていた。時刻は午後九時を少し回ったところである。『レオン』は、ツサの本社がある新宿からは遠いのだが、通勤に東急田園都市線を利用している富美子にとって都合がよいので、システム二課の飲み会があるときなどは、半ば強引に二次会の店となることが多い。
 カテゴリー的にはガールズバーだが、男が何人行こうが、一番モテるのは富美子だ。今夜は、ミルクちゃん、マロンちゃん、スモモちゃんの三名の女の子が入っているが、剛たちのほかに男性客が二人来店しているので、そちらの相手をしていた。
 富美子は、剛が見たこともない、一度聞いたぐらいでは覚えられないほど複雑な名前のカクテルを飲っている。剛はといえば、どこへ行っても麦焼酎のロックである。彼は、ベタベタと甘いくせに、度を過ごすと大変なことになる、カクテルという飲み物が嫌いなのだ。ついでに酎ハイというやつも、あまり好きではない。
「今日、課長が自分を呼び出したのは、自分に志位君の慰留をさせるためですか?」
「ちょっと剛君。ここで『課長』はやめてくれないかな。確かにそれもあるけど、きっかけに過ぎないわ。川田との一件があってから、全然音沙汰なしでしょ。ちょっと寂しいじゃないか」
 富美子は、トレードマークの黒縁眼鏡を外しながら、わずかに唇を尖らせ、剛に流し目を寄越してきた。かなり心臓に悪い仕草だ。『ツサのリアルベヨネッタ』と呼ばれて、男女問わず萌えている者が山ほどいるが、やはり、眼鏡を外したほうが五割り増し色っぽいのである。
 富美子は沖縄県出身であるため、顔の彫りが深く、目に鼻に口などのパーツが大造りであって、本人はかなり気にしているようだが、剛などは、個々のパーツの形がよく、これだけ配置が整っているのに、悩むのは贅沢すぎると思っていた。
 富美子と剛は、上司と部下という関係から若干逸脱し、友達以上恋人未満の関係になっている。剛がシステム二課に所属していたときは、二週間に一度程度、仕事帰りに外で落ち合って、食事をしたり酒を飲んだりしていたのだ。
「すみません。ちょっとバタバタしていて」
「ふうん。私のこと忘れちゃうぐらいバタバタしてたのね」
「そんなことは。ないです」
「そんなことは。で、間が空いたところが怪しい」
 剛は嘘を吐いてはいない。ただ、暫くは『闘鬼・戦国武将』と『妖樹・其場死乃木』とのダブル妖怪案件で手一杯であったし、一件落着後も、山岡血清の川田に憑依している『邪神・言った言わんの馬鹿』打倒が彼の頭を支配しており、それに付随して、ときおり富美子のことを思い出すのみであったのだ。いずれにせよ、硬派でかつ野暮な剛は、男女間のかけひきというやつが大の苦手であるから、話がややこしくなる前に、話題を元に戻すことにした。
「志位のやつ、自分との約束を破るつもりなのかな。山岡血清のシステムを必ず完成に導くと約束してくれたのに」
 先ほどから話題に上っているのは、志位・紗夫雄(しい・しゃふお)。ひとことで言えば、まさにプログラマーになるために生まれてきたような男だ。だが、ゼロ課のナマちゃんと違い、努力型の天才である。
 参考書の購入やセミナー受講料に給料のほとんどをつぎ込み、プライベートの時間まで勉強に費やし、昼休みも技術系サイトの閲覧に余念がない。とにかくプログラミングが三度の飯より好きなのであって、そんな怪物に一般人が太刀打ちできようはずもない。今年二十五歳で、剛の一年後輩であるにも関わらず、システム二課の絶対エースであるのはもちろんのこと、他の課からも技術的な相談が持ち込まれるほどなのであった。
 えてして、そういう人間は狷介かつ孤高かつ傲岸不遜なものだが、彼もその例に漏れず、所属長の富美子も含めて誰もが扱いあぐね、機嫌を損ねぬよう、まさに腫れ物に触るように接する。ただしそれは剛を除いてはなのだ。志位はなぜか、剛の命令には黙して従うのだ。理由が知りたくて、本人に尋ねると、「薬師神先輩は、いくら私が努力しても、決して手に入れることができないものを持っている気がするので」という、これまた禅問答のような答えが返ってきた。
 富美子といい志位といい、システム二課は禅宗の修験者の集まりなのか。とにかく、剛と一旦交わした約束は、必ず遂行してくれる志位であったから、今回の途中離脱が信じられない。
「志位君を責めないであげて。剛君が、あいつの上司やその他お歴々が同席する定例会議で、議事録を時系列に全部揃えて、あいつのこれまでの悪行を全部晒したでしょう。『進捗がダダ遅れなのは、全部こいつのせいだ』って。あの捨て身の一撃のあと、暫くは大人しくなったんだけど、また『言った言わない』がぶり返してきたの。しかも、さらにパワーアップしてね。それでまた、プロジェクトが立ち行かなくなってきちゃったんだ。
 それで、志位君に匙を投げられちゃった。『これはもう、システム開発の仕事ではありませんね。薬師神先輩と約束はしましたが、私が残っていたところで、どうにもならない気がします』って」
「……」
「あいつ変なの。絶対変だわ」
「川田ですか」
「うん。剛君のやりかたを参考に、議事録をまとめて応戦しようとするじゃない。そしたらね、議事録が改竄されているの。川田に都合のいいように。ひどいときには、一回分丸ごと消えるのよ。ありえないわ」
 ツサでは、Wikiをカスタマイズした、独自のドキュメント管理システムで議事録を管理している。顧客側と開発側、それぞれの責任者がお互いに承認しないと、ドキュメントの登録、内容の変更、削除はできないはずだ。
「だから、二転三転するあいつの要求を呑まざるを得ないの。あんまりひどい場合は、四方システム本部長に調整をお願いするんだけど」
 変更や削除が不可能なはずの議事録が改竄される。それこそ『邪神・言った言わんの馬鹿』の通力であり、その通力の発現は、すでに装社実が予測していた。やはり山岡血清の川田は、IT妖怪に憑依されている。疑いようがない。
「ねえ剛君。システム二課に戻ってきてくれないの」
「えっ?」
「潔くツサを辞めちゃったのかと思ったら、ゼロ課に残ってるっていうじゃない。どうしてそんなことするの? 剛君らしくないじゃないか」
「申しわけありません。でも、自分は一旦ツサを退職しました。これは本当です。あのときはもう頭の中が空っぽで、なにをどうすればいいか、途方に暮れていたんですよ。そんなとき、ゼロ課の装社課長から直々に誘いを受けたんです。まあ、拾ってもらったという感じです。それに、正社員ではなくて、契約社員というか、アルバイトというか、そんな立場ですし」
「雇用形態なんて、どうだっていいのよ。で? 剛君はゼロ課でなにをやっているわけ?」
「はい。ええっと。システム開発の仕事です」
「嘘! 社内では、ゼロ課の評判最悪よ。だって、なにをやってるか分からないんだもの。ゼロ課の事務所だけ違う場所にあるしさ。なにかの用事でゼロ課の事務所に行った人が、とんでもないものを目撃したって噂よ。ナマハゲとか、ゼンマイ仕掛けのアンドロイドとか、ぱっつんぱっつんの薄汚いホームレスとか、女だてらの博徒とか」
 富美子は噂と言ったが、かなり事実が正確に伝わっているようだ。
「私、聞いてるのよ」
「なにをですか?」
「ちょっと、しらばっくれないでくれますか。その『女だてらの博徒』、松本瑠美衣って娘(こ)と、ウッフンな関係になってるって話よ」
 どこから噂が流れたのだろう。城富美子は、四方システム本部長の秘蔵っ子であるから、装社実から四方システム本部長経由で情報が流れた可能性が高い。やけに富美子の言動にトゲがあるなと思ったが、それが原因なのか。確かに剛としては、若干後ろめたい、ほのかに甘酸っぱい記憶があるにはあったが、以降二人の関係にはなんの変化もない。そもそもあれ以降、一度も顔を合わせていないのである。
「ウッフンな関係になるほど、彼女と顔を合わしていません」
「あらそうなの。剛君は嘘が下手だから、吐いてりゃすぐ分かる。どうやらウッフンな関係にまでは至ってないようね」
 最近、大分嘘が上手くなったが。
「そもそもゼロ課って、首魁の装社課長が怪しいのよね。課長職以上は参加必須の経営戦略会議に出てこないのよ。少なくとも私が課長になってから、一度もお姿をお見かけしませんことよ。一体なにをなさってるのかしら。きっと、化け物屋敷の興業かなにかね」
「……」
「あら。答えられないんだ」
「守秘義務がありますので」
 システムゼロ課では、その主要業務について、口外無用の規定はない。IT妖怪の存在について、外部の人間に話しても、別段咎められることはないのである。しかし、現実主義者の富美子にIT妖怪のことを話しても、まず信用はすまい。
「あのねえ薬師神剛君。君にはほかに、やるべきことがあるでしょう。二課に戻って私たちと一緒に川田と闘いなさいよ。のんびり化け物屋敷のモギリなんて、やってんじゃないわよ!」
 富美子の口調が荒くなってきた。かなりエキサイトしてきている。しかしそれは、剛とて同じことだ。
 バン!
「ゼロ課を馬鹿にしないでください!」
 剛は、中腰になって両手で机を叩き、大声で叫んだ。店内にいる人々が一斉に彼を見る。富美子は、剛の怒気に押され、身を固くしている。
「ちょっと。大きな声出さないでよ。座りなさい」
「あっ。すみません。でも自分は、山岡血清の川田を打倒するためには、システム二課にいるより、ゼロ課にいたほうが有効な手を打てると信じています」
「どうして? 意味が分からない。ゼロ課は、山岡血清のプロジェクトとなんの関係もないじゃない」
 剛は、富美子にIT妖怪の存在を伝えるしかないと決心した。おそらく信じないだろうが、そんなことより、自分が選んだIT妖怪ハンターの仕事に自信を持てなくてどうすると考えたのだ。
「川田は、IT妖怪に憑依されている可能性が高いのです」
 富美子の動きが止まった。しかも、ポカーンと口を半開きにしている。
「ごめん。よく分からなかったんだけど。アイ、なに?」
 聞こえなかったわけではない。音としてはしっかり耳に入ってきたものの、理解に苦しんでいるのだ。
「アイ・ティー・よう・かい。です」
「ようかぁい? ってあの、ゲゲゲの鬼太郎とか、妖怪ウオッチとかの妖怪?」
「はい」
「剛君、ふざけてるの? そんなシチュエーションじゃないと思うんだけど」
 剛が装社実からIT妖怪の存在を知らされたとき、なんの疑いもなく、すっと胸に落ちたのは不思議だ。常識的に考えると荒唐無稽すぎる。しかし剛には、以前よりプロジェクトの遂行を妨害する、人智を超えた悪意ある者の存在を感じ取っていたところがある。だから、いとも簡単にIT妖怪の存在を受け入れたのだ。しかし、富美子はそっちのタイプではない。
 装社実とチャーリー・マクラーレンの出会い。そして、伝説のアトランティス大陸で活躍していたシステムエンジニア、ハスケルの話から始めると、おそらく彼女は即刻席を立って帰ってしまうだろう。そしてもう二度と会話すらしてもらえない。剛は、可能な限り現実に即して説明しようと考えた。
「IT妖怪とは、そうですね。コンピューターウィルスの超強力かつ超悪辣なやつと考えていいでしょう。そして、システムゼロ課は、そのIT妖怪撃退を使命とする集団です」
 装社実に聞かれると文句を言われそうだ。「IT妖怪と低レベルなコンピューターウィルスを一緒にしないでください。IT妖怪はIT妖怪なのです」と。富美子はといえば、ふうん、それでというような表情をしている。
「で。そいつはなにをしでかすわけ? ハロウィンの日に発症して、手当たり次第に不幸のメールを送り散らすとか?」
「通常のコンピューターウィルスは、コンピューター上のプログラムやデータに被害をもたらしますが、IT妖怪はそれに加えて、人間の心身にも悪影響を及ぼします。その具体例が川田なんです」
「ちょっと待ってよ。人間に悪影響を及ぼすコンピューターウィルスなんて。そんなもの、現代のソフトウェア工学で作ることできないでしょ。いいえ。現代科学を駆使しても難しいって言い切っていいわ。いったい誰が作ったの?」
「ですからIT妖怪は、高度な科学力を持つ、地球外生命体もしくは異次元よりの侵略と考えることが、あの」
「やめてよ!」
 解説は大失敗に終わった。そもそも現実に即して、理詰めにIT妖怪について説明するなど不可能なのだ。
「しかし現実的に、川田は業界の約束事に照らし合わせて、と言いますか、人間としてあり得ない行動ばかりとっていますし、手が出せないはずのファイルを改竄してしまうという、不可解な事象も引き起こしています。これらをどう説明するのですか?」
「見損なったわ」
「どうして。なにが?」
「そもそも『妖怪』ってなに? 昔は医学や科学が発達していなかったから、説明不能の現象は全て『妖怪』としておこうってスタンスだったわけでしょ。川田が非常識な行動をとるのは、心理学とか精神病理学で説明できるはずだし、ドキュメント管理サーバーがアタックを受けたのだって、私たちには気づかないセキュリティーホールがあるかもしれないじゃないの。もしかして川田の仕業じゃないかもしれない。
 それをIT妖怪なんて、非現実的なもののせいにする態度はどうなの? それって逃げじゃないかしら。剛君の思考パターンは江戸時代の町民と同じレベル? それじゃあ、いつまでたってもプロジェクトマネジメントのテクノロジーは進歩しないわ。あっ君、もしかして怪しげな宗教に嵌ってるんじゃないでしょうね」
 富美子の意見は事実ではないが正論だ。正論であるがゆえ、剛には彼女を論破することができない。
「IT妖怪はいる。いるんだからしかたがない。闘ったんだからしようがない!」
「どこかで聞いたことあるフレーズね。悪いけど剛君、逆ギレしないでくれますか。もしその、IT妖怪っていうコンピューターウィルスのお化けみたいなのが本当に存在するとしたら、なんでシマンテックやトレンドマイクロ、マカフィーなんかがワクチンを出さないの? すごいビジネスチャンスじゃない」
「彼らとしても手を拱いているわけではないようです。従来のセキュリティーソフトとは概念を異にしますが、極秘で『KEKKAIウォール』という対IT妖怪用のセキュリティーシステムを開発中と聞いています。これには、個人向けのパーソナルエディション、プロジェクト向けのプロフェッショナルエディション、そして企業向けのエンタープライズエディションが準備される予定で」
「もういい! あのねえ、こう見えても私だって、IT関連のニュースサイトをマメにチェックしてるのよ。でもIT妖怪なんで見たことも聞いたこともない。私もう帰るわ。ものすごく無駄に時間を費やしてる気がするから」
「しかし」
 富美子に見限られても、剛としては簡単に引き下がるわけにはいかない。『邪神・言った言わんの馬鹿』打倒は、システムゼロ課の悲願だからだ。彼はそこで、彼女に重要なことを伝え忘れていることに気づいた。それは、装社実の左脚が不随意になった経緯である。装社実は、過去に『言った言わんの馬鹿』と闘って一敗地にまみれ、神経系統の一部を損傷して、現役から退かざるをえなくなったのだから。しかし、この頭の固すぎる女にそのことを話したところで、「まあそうだったのね。ごめんなさい。私が間違っていたわ」とはなるまい。
「しかし、なによ。分かった、こうしましょ。今ここで、そのIT妖怪が存在するって証拠を見せてみて。言っときますけど、剥製とかミイラとか化石とか、そんなの出してきても無駄よ。全部インチキなんだから」
 彼女にかかると、IT妖怪も河童や人魚と同列になってしまう。
「ここでは無理です」
「あっそ。じゃあ大幅に譲歩してあげるわ。君の都合に任せる。いつでもいいからIT妖怪の存在を証明してちょうだい。もし証明できたら。まあ無理だと思うけど。そうね、私が君の付き人になって、下足番でも使い走りでも、タイムカード刻印代行でも、なんでもやってあげる。その代わり、存在が証明できなければツサを辞めてね。それだけじゃないわよ。業界から足を洗って、二度と私の前に姿を現さないで!」
「……」
「あら。怖気づいたの?」
「賭けにならないです。自分が勝つに決まってますから。IT妖怪はいるんだから仕方がない。闘ったんだからしようがない。撤回したほうがいいです」
「ま、またそのフレーズ! バカにしてるのね。もう帰る!」
 富美子は、勢いよく席を立った。体全体がブルブルと小刻みに震えている。怒りが頂点に達したということか。
「あの。駅までおくります」
「いらない!」
 富美子は、コートに片方の腕だけを通した状態で、テーブルやソファーに片っ端からぶつかりつつ、店を飛び出してしまった。
「別れ話? さては浮気しましたね。悪い男ですぅ」
 剛の前に、店の女の子が立っていたのだが、まったく気づかなかった。確か、スモモちゃんとかいう名前だったはずだ。やたらフリフリがくっついた、ロリータっぽい装いの女である。ふれこみでは短大生、小柄でしかも童顔なので似合わなくもないが、これで実年齢二十五歳を超えているとかなりイタい。まん丸のトンボメガネをかけているので、剛などは、スモモちゃんよりアラレちゃんと名乗るべきだと思った。
「あっ。いいえ、違います。仕事の話です」
「うそ。男と女が、あんなに感情むき出しで仕事の話します? 城先輩、ちょくちょくこの店に寄ってくれるけど、お酒を呑んでもクールで格好よくて。あれほど取り乱してるところなんて、見たことないですぅ」
「……」
 富美子は、ここでは『城先輩』と呼ばれているようだ。彼女たちにとって、『いい女としての先輩』といったところか。
「いやだ。城先輩、眼鏡忘れちゃってるよ。持って帰ってあなたが渡す?」
「え? いいえ、申し訳ありませんが、お店で預かっていただけますか。多分、暫くは逢わないと思いますので」
「すぐフォローしなきゃだめでしょぉ。この眼鏡、いい口実なりますぅ」
「いいんです」
「ふうん。あのぉ。城先輩とお別れになったのなら、アタシに乗り換えてほしいですぅ」
「はあ?」
 彼女の『すぅすぅ』がかなり鼻についてきた剛である。
「アタシ、実はオーラが視えるヒトなんですぅ。あなたのオーラ、ものすごぉい。燃え盛る炎って感じ? 離れたところにいてもビンビン感じて、クラクラしてました。ちょっとやそっとじゃお目にかかれない、強烈なオーラですぅ。さすがは城先輩のカレシだなあと思いましたぁ。だから、アタシに乗り換えてくれると嬉しいですぅ」
 スモモちゃんは、トンボメガネを外し、剛に艶っぽい視線を寄越してきた。わりと愛くるしい顔をしている。
「ありがとう。でも、今はちょっとそんな気分じゃないので」
 剛としては、いちいち眼鏡を外して秋波を送ってくる女はうんざりだ。しかも不思議ちゃんぽいので、丁重にお断りする。世の中の仕組みというのは複雑怪奇であって、IT妖怪を撃退されると困る勢力が存在する可能性もある。彼らにとってゼロ課のやっていることは大変目障りであって、IT妖怪ハンター剛を調子に乗らないうちになんとかしてやろうと考えるだろう。
 この一見ポニョンとしたスモモなる女性は、実は彼らの工作員で、ハニートラップを仕掛けてきたのかもしれないではないか。おそらく杞憂だろうが、これからは用心するに越したことはないのだ。
「そう。残念ですぅ」
 スモモちゃんは、ファンシーな模様のついた、少女趣味なメモ帳にボールペンを走らせ、ちぎって剛に手渡してきた。
「これ、あの、アタシのケータイ番号ですぅ。気が変わったらいつでも連絡くださいですぅ。いまどき、ケータイ番号なんて、ホイホイ教えないでしょ。アタシの本気、わかってほしいナ」
 剛は、ついつい弾みでそれを受け取ってしまった。男の性なので仕方ない。鼻の下を伸ばして連絡さえしなければ済む話だ。
「あの。誰にでもこんなことする女と思わないでほしいですぅ。アタシいま、すっごく恥ずかしいのを我慢してるんですからぁ」
 スモモちゃんは両手で頬を押さえて、身をよじっている。これが演技であれば、かなり凄腕の工作員といえる。
「お酒のおかわり、なさいますかぁ?」
「いいえ。もういいです。僕もそろそろ帰りますので」
「まだカラオケのチケット一曲分残ってますよぉ。もったいないですぅ。あなたの歌を聴いてみたいな」
 剛は、もうどうとでもなれという気分になっていた。
「じゃあ、KANの『愛は勝つ』お願いします」
「ふ、古うぅ。あ。ごめんなさぁい」

#創作大賞2024 #オールカテゴリ部門


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