続 マルハラスメント

本文の前に以前の記事を貼る。



私のこの溢れ出る気づきを書き留めておきたい。
そのため、超特急で文字を書き殴っている。
「。」という文末の句点が怖いという、マルハラスメントの価値観というか言い分が理解出来たのである。
理解と言っても、大半が私の思い込みであり、とてつもなく曖昧なものではあるが。
とにかく、言っていることが腑に落ちたのだ。


結論から言えば、句点の「。」がつくと急に格式ばっているように見えるのである。
だから、恐らく怖いと感じる人がいるのだ。
丸なのに格式ばるとはこれ如何に。
そんなしょうもないことも頭の片隅で思いついたので、蛇足がわかっている上でここで書いておく。


この気づきの元は、先程まで家族との内々のメールのやり取りをしていた時だ。
確かに、私は随分前から文が続いて分かりにくくならない限り、句点を使っていなかった。
例えば「〇時に帰ります」とか「もうすぐ着くよ」とか。
句点をつけずに会話をし、家族からも「了解」とか句点がない文章が返ってくる。


「。」を付けるよりも何も無い方が、よりニュートラルにも受け取れる。
そのような見方になぜ気がつかなかったのだろう。

私は『句点が無いと言われっぱなしで投げやりに感じる』と以前のnoteで書いた。
しかし、関係性ややり取りしている内容に寄っては、ふんわりとぼかしたような柔らかさも出せる。
例えるなら、薄めの鉛筆で書いているような感じだろうか。
「。」をつけると途端にくっきりと、例えば黒のボールペンで書いたような堅い雰囲気になる。
何も伝わらないかもしれないが、これが私の感じた句点の印象である。

若者たちの間でこのような会話のやり取りを子供の頃からやっていたら、句点のある会話というのが怖いという価値観も頷ける気がした。
会話をしていると言うよりも、面接のやりとりのような気がする。
思い込みというのは怖い。
「文章の最後は如何なる時でも句点を必ずつけるもの」
そう私はいつの間にか思い込んでいたのだ。  


これの微妙なニュアンスを、他にどう例えたら良いのか。
作文の原稿用紙に文章を書いてあるのと、ちょっと可愛らしいメモ用紙に文章が書いてあるのと。
そのくらいの気軽さの違いが、文末の「。」の有無で生まれている。
『ハラスメント』という言葉を使っているから、理解出来ないと匙を投げてしまう人が多いのでは無いかというような気もした。


それでも、こんな曖昧で薄ぼんやりとした話は何をどう書いても伝わらない人には何も伝わらないだろう。
仕方がない、価値観というものはそんなものだと思う。
だから、このnoteは誰かに分かってもらうとかではなく。
以前書いた私自身への反論であり、考え方の変化として記しておく事にする。

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