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私は何者か、145


夢の話を聴いてくれるのか。


同じ風景の夢だ。
何度も何度も見る。

そのうち、夢なのか。本当にあったことなのか。その区切りがわからなくなって。
眼裏にも、脳裏にもその風景はもう必ずそこに在るように、現のような夢が一人歩きしているのだ。

それは、何度も言うが、小学校の校舎であったり、駅であったり、雨上がりの花壇であったり、西陽を受けたススキノハラであったり、凪いだ海であり、空中に浮かぶ要塞であり、とりわけもっとその先を見てみたいと願うのは、ニュージーランドのモエラキボルダーのような丸い大きな岩がいくつも並んでいるような広大な場所に立つ自分。

それらは本当に何度も繰り返し見るものだから、懐かしい故郷のような気さえしてくる。

目を瞑らずにいても、頭の中のスクリーンにくっきりと映し出される。

それは、駅から、止まらないという列車に乗り、そのくせ、見知らぬ駅で下車する。

下車してから、真っ直ぐな土の道を歩き続けていると、道が二又になり、必ず、左の方向へ進路をとってゆく。

小さなホビットの家のように緑の苔に包まれた小屋があり、気がつくと周りには全体がぽってりと滑らかに丸くなった大きな岩がびっしりと並んでいる。
大き過ぎて、把握しきれないその岩の上に立ち、それは私ではない容姿の、けれど、どうも私であるような。

風に吹かれながら、次に何をどうするか、考えている。

何度も繰り返し、私は何を感じ、考え、やり直そうとしたのか。

巨岩の丸まった頂上に立ち、何を待っているのだろうか。

これらの夢はとても苦しかった時期によく見た。

その夢の中に救いがあったのかもしれない。

不思議なことに、私以外の人は誰も見えない。気配はあってもハッキリとは見えない。見えないと言うよりは、実は見ていないのかもしれないが。


ひたすら、ただ、そこに在ることで、バランスをとっていたような気がする。



自分の夢の中なのに、今まで自分が見たこともないモノを見る。


モエラキボルダーにそっくりだと分かった時の驚き。


在ること。


放つこと。



得ないことで、得る。




私は何者か。







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