見出し画像

私は何者か、281


こんなふうに、恋をしている自分が其処にいるのはとてもふしぎである。beingとして、我はとどまり、刻は過ぎゆく。それにしてもの、2年半。頽れることなくバベルの塔か、ピサの斜塔か。努力など無くして、人を好きでいられる最長不倒である。無論、小学校6年生の担任とは既に何十年も心の相棒ではある。人を好きになって ingの場合、時々、脳みそが動かなくなる。フリーズ。ぴったりと、その、ふたつの存在の隙間がなくなるように、考えることのニッチなところさえ、蓋をしてしまいたくなるのだ。いてもたってもいられなくなる。などと、定家殿、ヤクヤモシオノミモコガレツツです。ただし、来ぬ人ではなく、ここに居る人。実体としての、ああ、私は昔から現実主義なのだから。水について。湧水は誰のものでもないとか。海岸とて、その理解。わたしたちのあの海岸。黒曜石の海岸は荘厳である。その海岸が民法上なんと謳われようがかまわぬ。サン=テグジュペリの真の、または想像上の砂漠と同じ。帰れぬのならそれはまたそれでよい。ひとりであることの平凡な寂しさは誰かといることの苦しみや悲しみとは比べようもない。不安は己への執着。そんなものぜんぶ不要である。ただ、其処に在ることの、これほど不思議で、これほど当たり前の、波の描く形而上的恣意。私とあなたと彼と、先生と、猫のモモ太郎と、エレベーターに乗るなら、それくらいの数で。同じところへ行くのだろう。だって、私の脳のなか。


好きなものに囲まれるしあわせ。


ストレスが押し寄せれば、さらに、孤高がキリキリ尖る。


マスクのなかで頬が影を増やし続ける。



そして、影はやがて隙間をうずめる。



私は何者か。



この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?