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今をしっかり生きる

右肩鍵盤断裂、それが病名だった。
世間も慌ただしくなってきた年の瀬、じわじわと右腕が痛くなってくるのを感じた。この忙しい時期に病院なんて行ってられるか、と放置していたら痛みが悪化してきた。
ようやく重い腰を上げ受診した頃には年が明けて2ヶ月が過ぎていた。通院してみたものの一向に治る気配はなく、痛みの原因がわからないまま転院を繰り返すこと3回。
最後に行きついた病院で右肩鍵盤断裂と告られた時にはもう桜が散っていた。40代では比較的少ない症状らしい。

体を使う仕事だったため、通勤中の精神状態は毎日拷問を受けにいくような心境だった。流石にこのままではいけないと思い、手術を受けた頃には世間の子供達は夏休みに入っていた。
術後1ヶ月入院し、退院後5ヶ月のリハビリ生活、現在もその真っ只中、気付けば現役バリバリの無職、もとい自称主夫になっていた。


我が家では、私の他に妻1人と猫4匹が生活している。日中妻が働き、帰宅してから家事をする。これでは妻の負担が大きいと思い、少しでも役に立てればと家事を試みるも、病院から右肩の動きに制限をかけられており、退院後しばらくは、ほぼ全ての家事を妻が行なっていた。


始めのうちこそラッキーと思っていたが、次第に何も出来ない自分の無力さを痛感しだした。
働くことも家事も出来ずにいると、なんとも情けない気持ちに苛まれ

「こんな俺は生きてて良いのだろうか」

自分には存在価値が無いのではと悩み始めたのである。

何をするわけでもなく平日の真っ昼間から家にいると、ただただ暇なのである。暇になると人間色々と考え出すもので、そのうちに悪いことばかり気になりだし、「あー、俺はダメだ」と全く根拠もなく落ち込むようになっていった。


その日も例によって「もうダメだ」と落ち込んでいると不意に携帯電話のバイブ音が鳴り響いた。携帯を手にしてみたが着信画面にはならず、見慣れた待ち受け画面が映し出されている。

おかしい。

鳴り響き続けるバイブ音。
まさか怪奇現象?!
私は恐ろしくなり辺りを見渡した。そこには仰向けになりイビキをかく猫が1匹。

「お前のイビキか!」

思わず猫に突っ込んでしまった。少し安堵した私は全くもって間抜けな話だが、「なぁ、俺はなんてダメなんだろうな」と猫に向かって呟いた。
そうするとどこからか声が聞こえた。

『君の何がそんなにダメなの?』

あろうことか猫が私に返事をしたのだ。
無職の中年男性が真っ昼間に部屋に一人でいるとそんなこともあるのだ。きっと。

「いや、だってこんな怪我をして何の役にも立てないで、人生失敗ばかりだよ」幾ら落ち込んでるからといって、話が人生にまで飛躍するとは我ながら病んでいる。しかしそんな私に猫は言う。

『失敗?何か失敗したの?僕なんて働いてもないけど、毎日美味しいご飯を食べれて、暖かい寝床で寝れたらもう成功だよ〜。それに怪我したのも君が頑張ったからきっと神様が少し休めって言ってるんだよ〜』


猫なのに思いがけず良い事を言う。私はここぞとばかりに悩みを吐き出した。

「この怪我で仕事につけるのか不安だし、将来も問題だらけで心配なんだよ」

そんな私を横目にのんびりとした口調で猫は言う。

『大丈夫だよ〜。まだ来ない明日の心配より、まずは今をしっかり生きてこうよ〜』

目から鱗がこぼれ落ちた。そうか、そうなんだ。先のことばかり見据えて落ちこむよりも、まずは今だけを見据えてしっかり生きる。
1時間後でも5分後でもなく今をしっかり生きる。そう思えたら不安や陰鬱な気持ちはどこかに吹っ飛んだ。


「ありがとう」お礼を言うと、猫はつまらなそうに欠伸をして『にゃ〜』と鳴いた。

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