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運命の出会い

昨日から高度化Ⅰ、Ⅱの授業が始まった。うちの教職大学院の講義は、後期は選択制になっており、高度化の授業も選択して履修できる。高度化は、教育学部の先生に専門的なことを教えてもらえる講義になっているので、個別対応で、聞きたいことに答えてもらえるという何ともお得な講義だ。

私は、教育学部の先生に頼み込んで、高度化Ⅰ、Ⅱでの授業を行っていただいている。普通ならありあえないことだと言われたが、どうしてもお願いしたいという熱意?強引さ?に負けて、心優しい先生にOKをもらった。

そんな楽しみにしていた高度化の講義がスタートした。Ⅰは実践編なので、私が行った「ちいちゃんのかげおくり」を研究としてどうまとめていくか、どのように子どもの変容を見とっていくのか、について詳しく話を聞いた。

研究を進めていく際には、「量と質」が求められていくのだが、私のテーマ「自立した読み手を育てる」においては、質としては、一人一人の子どもの変容を追いかけること、量としては、理解方略を使い、(山元隆春先生:広島大学)子どもたちがどの方略を使って自分の考えを形成しているのか、%として見ること、この2つが妥当ではないだろうか…ということだった。

子どもたちを見とる方法として、ICレコーダーを数台用意し、対象児童3名程度の45分の発言やつぶやきを追っていくという方法を知って、なるほど〜と関心した。

余談:私が論文を読み漁っていたときに、これは!!!とビビビッときた山本隆春先生(読みの「方略」に関する基礎論の検討1993年9月受理)の論文があり、その山元先生の理論をもとに実践を行った、高瀬裕人先生の論文(自立した読者を育成するための<真正の評価>)に感銘を受けた。(高瀬先生は山元先生のゼミ出身だったそうです)実は、その高瀬先生が、4月からうちの大学の教育学部の国語科に赴任しており、私は運命の出会いだと感じた…(笑)そこで、必死に、高度化Ⅰ、Ⅱでの講義を頼み込んだのだ。

講義Ⅱでは、山元先生の文献研究を進めていくという内容で行われれることになった。先生とのお話の中で、「主体的」という言葉が本当に危うい、という話題があり、ややもすれば、どれもこれも、子どもたちがやっているから「主体的」というようになってしまいがち、という話があった。

その中でも教科特有の「見方・考え方」を働かせることが大切だということだった。国語ならば、やっぱり言葉にこだわる。「ちいちゃんは深くうなずきました」の叙述から、ちいちゃんのどんな気持ちが想像できるか、同じ叙述でも考えていることはそれぞれ違う…ややもすると、叙述や作品から離れて、ただ子どもたちが話し合えばいい、ただ問いを作ればいい、という授業になってはいないだろうか…先生の話を聞きながら、自問自答していた。

「ぼくや山元先生は、研究者として住み分けをかなり意識しています。先生は、実践家として、これからやっていくべきことは、理論と実践をつなげることだと思います。僕たち研究者ではできない。実践家だからこそできる研究、もしかすると、山元先生が示している9つの理解方略は、実践家から見ると、足りないのかもしれないし、他にもあるのかもしれない。理論があっての実践ではなく、実践から理論を見直す、そして理論が更新されていく、ということもあると思います。むしろ、教職大学院には、それが求められているのだと思います。」

この言葉に衝撃を受けた。これまで当たり前のように、大学の先生方が言っているのは正しくて、私たちは実践する側として、その理論を受けて実践をしている。そんなイメージしかなかった。しかし、高瀬先生のその言葉から、私も実践家として、対等に話をしてもよいのだと自信が持てた。それと同時に、もっと理論を勉強しなくては!という強い想いも感じた。

そして朝から西郷竹彦の文芸の授業をバイブルのように、読み込んでいます。

今日もまた1日、一歩一歩、がんばろう。







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