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表現

いまだに自分の心を正確に伝えられたと思えたことがない。
ひとが作った言葉を使っている限り、表したそれは「似た」もの以上にはならない。
それぞれの言葉のなんとなくの定義みたいなものが溢れかえっていて、皆それぞれ自分の中の「意味」で勝手に解釈するから、「似た」ものは受け手によって、もっと自分から離れたものに変えられてしまう。
さらに会話となると、返答の制限時間みたいなものが常に付き纏って、後からもっと似た言葉の存在に気づいて後悔してばかり。

だから、そのものを見せられる写真や映像の力も借りるけど、人は視覚情報には「見たらわかる」ことを期待するから「よくわからない」とか「美しい」と片付けられてその奥まで見ないことがほとんどだ。
音楽に関してはそもそも音自体を言語と捉える人が少なく、聴き手が「心地いいか」「心地よくないか」の娯楽として消費されることが大半だ。

そしてそういっている自分もまた、誰かの表現を自分の「意味」に勝手に当てはめて、好き勝手に解釈している。


そう気づいてから、伝えたいときには常に誤解への恐怖がつきまとうようになって、伝えたいと思うこと自体が虚しいもののように思えてきて。
だから「伝えるための表現」と「自分を正確に記録するための表現」を分けるようになった。
「伝える」ことを意識する限り、それは自分から離れ続けていくから、自分だけは、自分だけにわかる正確な自分を見つめ続けていたいと思った。

伝えるときには「似たもの」を表現し、受け手に委ねる。受け取る時には「似たもの」であることを絶えず意識する。
「似たもの」以上のものを伝えられない私たちが理解し合うためにできることはこれくらいしかない。

それでも、正確な自分を伝えたい人が現れたとき、どうすればいい。
「似たもの」を伝えて、自分から離れたものを受け取られるくらいなら、わからないままでいられる方がマシだと思う人が現れたときには。
一から相手との共通言語を創り出していくことしかないのかもしれない。

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