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サマーガール

夏が。おわった。

飯塚みさきは、畳の上で大の字になり天井を見つめている。

電灯のスイッチになる紐が目の前にぶら下がっていた。

手を伸ばせば届きそう、でも思っているよりも遠くてきっと届かない。そんな光景だ。

夏が。おわった。

みさきはもう一度思った。

彼女の頭の中には夏の終わりともう一つのことしか頭になかった。

宿題が終わってない。

十歳の夏休み。最終日にも関わらず、宿題の半分近くに手を付けていなかった。

七月二十日。

朝目覚めると、自分が10歳の自分として過去に戻っていることに気付いた。

誰かと入れ替わっているわけでもない。ラベンダーの香りを嗅いだ記憶もない。

精神的な部分は三十歳のまま、それ以外は十歳の自分になり、当時の世界の中に戻ってきてしまった。

はじめは訳が分からなかった。

母の姿は二十歳若返り、肌つやも良く、なかなか起きださない自分を毎日叱った。

ラジオ体操へ向かえば、地元を離れ、スマホの中でしか様子を知らない同級生たちが陽気に名前を呼んでくれた。

定年退職し、毎日テレビばかりみて過ごしていた父は暑い中ワイシャツを着て会社に向かっていた。そんな姿を毎日見守っていた。

田舎へ帰ると、すでに亡くなっているはずの祖母が一緒に自分の足で歩いてお祭りに行ってくれた。

祖父は裏の庭でできたというトウモロコシを嬉しそうにゆでてくれた。

そんな毎日を過ごしているうちに、何がきっかけかは分からないが、過去に戻ってしまったことに気が付いた。

どう現代に戻ればよいかもわからない。焦ったところで何もできない。

とにかく、みさきは10歳の自分として生きるしかなかった。

はじめは、周りの言っていることが理解できなかった。

同級生はみんな子どもだし、父も母も当たり前のことを何度も口うるさく言うし。

祖母も祖父も執拗なくらい、自分を甘やかした。

ただ、そんな日々を過ごすうちに、少しずつ心が三十歳の自分から10歳の自分へと変わっていった。

同級生の子ども達が発する言葉はとても純粋で、混じりけのない自分の意志や想いだった。

両親の言葉だって、三十歳の自分でもできているかもからない、当たり前だけれどどこかで見失っている気持ちや行動だった。

祖母や祖父の気持ちも、本来であればとても嬉しくて求めている優しさだと気付いた。

わたしは、色んな気持ちを見失ってしまっていた。

一か月の夏休みを過ごす中で、そんな気持ちに気付いた。

そして、もう一つ。

宿題が終わっていない。

そういえば昔からそうだった。

締め切りギリギリになるまで動けず、結局急いで間に合わせるか、間に合わずに上手くごまかすか。

そんな風に過ごしていた。

三十歳の自分はどうか。

変に強がって、周りに頼らずに、結局仕事の締め切り直前になると、周りに頼って。情けなかった。

みんなの優しさとか、周りを信じることとか、そういうものが気付かぬ間に見れなくなってしまっていた。

一筋のしずくが瞳からこぼれ、耳の中へと入っていった。

十歳の肌は、透き通るような色をしていて、なめらかだ。その上をなみだがゆっくりと走っていた。

結局、十歳から変わっていないじゃないか。

むしろ、十歳の頃の方が優しくて一生懸命だったんじゃないか。

そう思えば思うほど、天井を見つめる瞳には虹色の水がたまり、それは少しずつ溢れていった。

目の前の世界が、どんどんとぼやけていく。

鼻が詰まり、口で呼吸をすると自然とそこから弱々しい音が漏れていった。

鼻をすする音と、嗚咽に交じり、一筋の甲高い羽音が耳に入った。

心地よくないその音は、みさきの耳の周りを何度も何度も大きく、小さく、近づき、離れていく。

もう、なんなんだよ。こんな時に。

その羽音はしつこいまでに、みさきの周りを浮かんでいた。

まるで、あざ笑うかのように。

泣き面に蜂が刺すように、その一匹の蚊も自分に追い打ちをかけるべく好機をうかがっているのだろうか。

そう思うと途端に悔しくなってきた。

羽音が何度も往復し、どんどんと近付いてくる。

そして、右耳から入る音が今までで最も大きくなったとき。

みさきは目をつぶった。

そして、しわ一つない丸い小さな手で思い切り自分の右頬をひっぱたいた。

何かが破裂するような大きな音が頭の中で鳴り響いた。

まぶたを開けると、目の前の天井には無機質なフロアランプが浮かんでいた。

背中には柔らかなマットレスの感触があるが、汗で湿っている。

窓の外からは、熱せられた黄色い光が差し込み、部屋の中を温めていた。

右頬が痛い。

指先で触れてみると、指先には汗で湿ったねっとりとした感触が走った。

骨ばり、細かい皺の入った大きな手がそこにはあった。

少し前まで聞きなれていた電子音が頭の上で鳴り始めた。

手探りでそれを手繰り寄せると、久しぶりに見たスマートフォンが朝の七時を煩く伝えていた。

アラームを切り、画面を見直す。

七月二十一日。

令和元年。

どうやら、私はまた二十回誕生日を過ごしてしまったようだ。

再びスマートフォンが音を鳴らす。

画面には今日の予定が表示された。

そこには出社早々、社内プレゼンの予告がたくさんのビックリマークとともに写されていた。

まずい。早めに行って準備しないと。

みさきは、急いでベッドから飛び降りる。

リビングを出て、廊下から洗面所へ向かおうとすると、廊下に面したキッチンに見覚えのない一本のとうもろこしと手紙が置かれていた。

たまには、ゆっくり帰ってきなさい。お仕事がんばってね。

手紙には、一行だけ、母の優しくて温かい文字が綴られていた。

いただいたサポートは取材や今後の作品のために使いたいと思います。あと、フラペチーノが飲みたいです。