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【小説】大嫌いで大好きな花

 「わたしはいつまで経っても開かない蕾なんだよ」

 どこかでそう思っていたのかもしれない。

 シャクヤクの花が、好きだけど嫌いだ。

 五月になると、大きく伸び伸びと自分の美しさを誇るように大輪の花を咲かせるシャクヤクの花。その姿はとても優美で、可愛いけれど美しくもある大人の女性を思わせる姿だ。

 昔から咲いている姿は大好きだった。こんなに美しい花があるなんて。淡いものや濃いものまで、様々なピンクが女性らしさを象徴するかのように思えていた。

 その花を嫌いになったのは5年前。ちょうど今の季節にひとり暮らしをはじめてからだ。自分の好きな家具を集めて、お気に入りの雑貨を飾って、その中でも花屋にあった花瓶を少し奮発して買ったのを覚えている。置いてあるだけでも様になるこの花瓶と一緒に、毎日花のある生活を送るんだと思っていた。

 一人暮らしをしてはじめて買った花がシャクヤクだった。大きな大きな丸くて赤い蕾。この蕾が開いた時には、きっと何か良いことがあると思っていた。

 でも、その気持ちはすぐに無くなった。一人暮らしは楽しい、でも今まで実家に甘えていた分、大変なことを知った。気持ちの自由は増えたけど、気付けば時間が少しずつ減っていることに気付いた。仕事から帰ると、適当に食事を作る。メイクを落として、お風呂に入って。気付いたら日付が変わる直前になっている。

 もっと悠々自適で自分らしい生活が送れると思っていた。そんな生活が続くから、休日は思い切りだらけたり、遊ぶことに一生懸命になったり。何かを忘れるために時間を使うような日々が続いた。本当にやりたいことができないまま時間だけが過ぎていった。

 気付けば、部屋の隅に置かれた花瓶の中のシャクヤクの蕾は開かないまま。首をさげ、ゆっくりと葉と共に萎れていた。

 昔からイラストを描くことが好きだった。いつかイラストを仕事にしたいと思いながら、就職した会社は全く関係のない業種だった。だけど、実家にいた時は時間を見つけて描きながらSNSへ投稿していた。ご飯を食べて、お風呂に入って、寝る前に時間を見つけて。少しずつだけどコメントが付いたり反応があることが嬉しかった。続けていれば良いことがあるのかも。

 そう思っていたが、その気持ちも一人暮らしと入れ替えに少しずつ薄まっていってしまった。ペンを握ることもなく、タブレットは何も考えずに動画を見るための道具になってしまっていた。

 彼氏もできて、タブレットで一緒に動画を見る。とても楽しい瞬間だけど、その脇に刺さるペンの存在が気にならないと言えば嘘だった。いつか描こう。その想いだけがずっと私の中で根を伸ばしていた。

 その想いを少しだけ解してくれたのが彼だった

 「これ使うの?ペン付いてるけど」

 一緒に動画を見ながら、何気なく言ってくれたその一言が、私の時間を少しだけ戻してくれた。どうしよう。絵を描いてたとか言ったら引かれないかな。

 「こういうので絵を描く人とかいるじゃん?すごいよな」
 「すごいと思う?」
 「すごいじゃん。俺はできないし、人に見せられるようなもの描けない」

 意外だった。イラストを描くなんて、彼には言ったことがなかったから。その一言で気付いた。どこかで諦めて、言い訳をしていたのかもしれない。

 一人暮らしをしてから、自分でやらなければいけないことが増えていった。家事に慣れたと思えば、仕事の責任が増え、同時にキャリアも少しずつ上がっていった。
 私は仕事してるんだから。そう思って、そればかりで、本当にやりたいことから目を背けていた。きっと今更描いたって何も叶わない。そんな思いから逃げるように、仕事を言い訳にして。

 タブレットを手に持ち、写真アプリを立ち上げる。この中に、昔描いたイラストがまだ残っているはず。画面を何度もスクロールした。忘れかけていた写真に混じって、見覚えのあるイラストが現れる。大きく息を吸い込み、私はその画面をゆっくりと彼に差し出した。


 もっとやりたいことと向き合いたい。仕事から帰ると、タブレットを手に持ち、動画を見なくなった。代わりに立ち上げるのは、イラスト用のアプリになった。感覚が戻らない。前まではできていた表現やタッチがうまく描けなくなっていた。悔しい。描きたいものは、頭の中に浮かんでいるのに。

 少しずつ、少しずつ。私は昔の自分を追いかけるようにペンを走らせた。

 イラストを見せてから数週間後。彼が私の家に遊びに来ると、早々に部屋を物色し始めた。何度か部屋全体を見渡し、お目当てのものを見つけるとそれを手にキッチンへと向かっていく。あまり気にせずに見ていたけれど、リビングに戻ってきた彼は、一本の花が生けられた花瓶を手にしていた。

 「この花、見せてくれた絵に描いてあったやつだよね?」

 彼の大きな手の中の花瓶には、まん丸とした紅色の蕾が活けられていた。蜜に包まれて、まるで花の様相を感じさせないそれは、シャクヤクの蕾だった。

 「見せてもらってから調べてみたんだ。そうしたらこの花みたいだから花屋さんで伝えたら蕾しかなかった」

 私のイラストを見て、花の名前を調べてくれた。自分の描いたものが、初めて見た彼にも伝わっていたことが嬉しい。

 「ちゃんと世話すれば開くって。せっかくだから、咲いてるところ一緒に見てみたいと思って」
 「そっか。見たことないんだね」
 「それにさ、この蕾が開いたら、なんだか良いことありそうじゃん」
 「良いことって?」
 「やりたいこと、やれるようになるとか?」

 この部屋にきて、初めて飾った花を枯らしてしまってから、私は自分のやりたいことができているのだろうか。もし、この蕾を咲かせることができれば。少しだけ、何かが変わるかもしれない。

 「買ったはいいんだけど、なんだっけ。花の名前」

 困ったような笑顔で彼が問いかける。きっと花屋でも曖昧なままたくさん聞いてくれたのだろう。この花を探すために。その姿を想うだけで愛しくなった。ありがとう。
 彼が花瓶を持つ手に自分の手を重ね、まっすぐと目を見て私は答えた。

 「シャクヤクだよ。私の大好きな花」

 この蕾が開いたら、満開の花と一緒に彼の笑顔を描きたいと思った。



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この自粛期間で、少し時間の余裕ができました。今まで手を付けられなかったことに触れられる良い機会だと思っています。

シャクヤクが蕾から花を咲かせるまでの過程はとても見応えがあります。花が開いた時の姿は圧巻。こんなにも変わるんだと思わされます。

なかなか蕾から咲かすことができないという人がいて、その人に今年こそ咲かせて欲しいという思いと、その人自身にももっと大きく花開いて欲しいという想いが芽生えました。

シャクヤクは、蕾につく蜜を濡れたティッシュでとってやって、軽く揉むと開きやすくなります。

この時期だからこそ楽しめる花なので、ぜひ見かけたら飾ってみてください。

大久保忠尚

いただいたサポートは取材や今後の作品のために使いたいと思います。あと、フラペチーノが飲みたいです。