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自他の境界線はいかに作られるか:自他の境界線について(2)

今回は、自他の境界線(バウンダリー)について(1)の記事の続きである。前回の記事で、自他の境界線とは何か、どのようにそれが働くか、そしてそこに何が含まれるか、ということについて述べた。

今回の記事では、引き続きヘンリー・クラウド、ジョン・タウンゼントによる『境界線(バウンダリーズ)』(中村佐知・中村昇訳、地引網出版)にくわええ、上岡陽江・大嶋栄子『その後の不自由』(医学書院)を参考にしながら、そもそもこの自他の境界線がどのように成立するか、それがなぜ混乱するのかについて考察したいと思う。

心の発達と自他の境界線の成立

自他の境界線が発達は、人間が「自己」を確立していく過程の中で生じていくものである。まずはその過程を簡単に振り返ってみたい。

共生関係と自己の成立

生後しばらくの間、子どもは母親との間に「共生関係」という、まさに一心同体の時期を持つ。全てが満たされた母胎から切り離されるという体験は、凄まじい不安と恐怖感に満ちたものである。そこで幼児は母親と一体となることによって、安心感と愛着を得るのである。

この共生関係におけるつながりは「基本的信頼感」と呼ばれる感覚である。この感覚こそが自他の境界線の基礎となるものである。また同時にこれは、その後の人生の中で経験する、ありとあらゆるつながりの基礎となる。しかしその一方で、それがどのようなつながりよりも強いがために、私たちがひとりの人間となるためには、このつながりは手放さなくてはならないのである。

分離と個体化

幼児が安心感と愛着を得るようになると、子どもは自分と母親とは異なる存在であることに気づき、自律性や独立心が現れ始める。母親から離れて自分を成立させるという「分離」と、それを発達させていくという「個体化」の過程に移るのである。子どもは母親から徐々に離れていき、やがて外の世界に対して積極的に興味を向けていく。

そしてその過程の中で、必然的に親や世間との対決が生まれることになる。それが表現されるのは、「イヤ!」という言葉である。この「イヤ!」という言葉から、自他の境界線が生まれるのである。

ナガノ『ちいかわ(1)』

「イヤ!」の言葉は、子どもが自分が好きではないものから自分を分離させる、という自他の境界線の機能を持つ。またもう一つの大切なことは、子どもが「イヤ!」の言葉を発する時に、自分には拒否する力と権利があるのだという感覚を持たせるということである。イヤイヤ期になんでも「イヤ!」というのは、子どもが有力感を持とうとするからである。

「イヤ!」は人間にとって最も大事な言葉の一つである。「イヤ!」は心的な境界線そのものである。「イヤ!」が正しく機能する環境においては、自己の安全や権利は確立している。そのため、子どもの「イヤ!」という権利をいかに尊重し、育て上げることができるかということは、その後の人生における自他の境界線の問題に大きく関わる。

社会性の獲得のはじまり

やがて子どもは、養育者以外の他者がいることも認識していくことになる。社会という環境の中で、そうした他者とつながりながら生きていくという、社会性を獲得していくことが求められるようになるのである。

子どもにとって課題になるのは、他人の「イヤ!」も尊重することが求められる、ということである。自分の要求には限度があり、もしそれが他人の境界線とぶつかってしまうのであれば、そこでストップさせなくてはいけないことを、子どもは学ばなくてはならないのである。これは自分の「イヤ!」と相手の「イヤ!」がぶつかった時、交流を辞めてしまえばいい、ということではない。

そうではなく、相手とのつながりを維持したまま、双方の「イヤ!」を調整することが求められるのである。その調整の際に参照されるものが、道徳や倫理といったもので定められた規範である。それらは私たちが共生していくために必要な知恵が定められており、葛藤状況において、自他の境界線を引くことを助けてくれる。反対に言えばそうしたルールが届かない環境において、境界線の侵犯は容易に生じることになってしまう。

共生関係から分離と個体化へと移行し、社会性の獲得がはじまるのは、大体3歳ぐらいまでである。この時点で、以下の自他の境界線を確立するための3つの能力をもっていることが理想である。

  1. 自分を大事にしながら、他者と感情と結びつく能力

  2. つながりを失うことを恐れずに、他者に適切な「イヤ!」をいう能力

  3. 相手から離れることなしに、他者の適切な「イヤ!」を受け入れる能力

多くの人が同意すると思うが、この能力の獲得は簡単ではない。大人ですらできていない人が少なくないことを3歳児で達成するためには、本人の素質と養育者の知恵とセンスが必須となる。最初の一年は無償の愛情をひたすら注ぐことから始め、その後は段々と「イヤ!」を使う自身の能力と他者のそれを尊重する能力を育てる必要がある。そのためには、親自身が確固たる限界の設定する一方で子供の自主性を尊重するという難しいバランスを達成しなくてはならない。

親離れと自立のプロセス

3歳以降、子どもはアイデンティティの確立と自己調整の力を発展させていくことになるが、その作業の中で自他の境界線を確立することは必須の要素となる。また、それは子どもが年齢に相応な行動ができるようになることにもつながる。

学童期には、学校での勉強や遊びを通じて、子どもらしく伸び伸びと過ごすことに加えて、相応の社会性を身につけていく必要がある。自分らしさを失うことはなしに、計画を立てて課題を最後まで取り組むことができるような自制心を身につけていかなくてはならない。とりわけ日本の学校は同質性が求められることが多く、そのことが自他の境界線の問題に影響することは珍しくない。

中学生ごろから始まる青年期においては、アイデンティティの確立に向けての準備機関として、さまざまなことが課題になりうる。子どもが自意識の高まり中で、恋愛関係や複雑な友人関係といったものを乗り切るためには、安全基地としての家庭をベースにした、しっかりとした自他の境界線の感覚が不可欠となる。そのためには、親には子どもを監視し支配するのではなく、それを見守り影響を与えるという「親離れ」そして「子離れ」のプロセスを踏まなくてはならない。

親は子どもに対して、人間関係、SNS、時間の使い方、金銭の管理などについては以前よりもより自由を与え、同時にその結果については責任を負わせるという環境を用意する必要がある。しかしこれは、「何があってもあなたの味方である」という親のスタンスが前提となる。絶対に失敗してはならないという有言/無言のプレッシャーをもし親が与えているのであれば、子どもはチャレンジはできないだろう。子どもだけでなく、親の方にもしっかりとした自他の境界線の確立があることが求められる。

チャレンジに対して生じる結果は、子どもにとって年相応であり、そしてその行為に見合ったものでなくてはならない。その範囲を超えるものは、それは親が責任を持つ必要がある。しかしそれを超えないのであれば、その責任は子どもが追うべきである。言い換えるのであれば、親と子どもが双方に自他の境界線を築いていくことで、親離れ/子離れは達成することができる。そうして子どもは、親から離れたひとりの独立した人間となっていくのである。

自他の境界線と家族

このように自他の境界線は発達していくが、その主な場所は家族となる。家族がそこそこ健康で自他の境界線がきちんと保たれているか、それともしょっちゅう侵犯されている不健康な家族かによって、子どもの自己像や境界線の感覚は大きく異なる。それぞれについて、上岡陽江・大嶋栄子『その後の不自由』の記述を参考にしながら。以下で見ていく。

そこそこ健康な家族の場合

まずは、そこそこ健康な家族である。このそこそこ健康な家族というものが規定する最も重要な特徴は、二つある。まずそこに、いつまでも続くであろうという安定性があることである。安定性がある家族においては、その基本的な雰囲気は安全である。後に述べるように、いつ壊れるかわからないという緊張感の中では、子どもは境界線の感覚を発達させることができない。

次にそれは、その中心に子ども本人がいると感じられる環境である、ということである。真ん中に自分がいて、その周りには自分を助けてくれるような父・母・きょうだいが、次に祖父母やいとこ、その次に友達や近所の人たちがいる。少なくとも子どもの主観的な体験においてはこうした構造があることが、そこそこ健康な家族で育つということになる。中心にある子どもの境界線が、何重にも守られている状態である。『その後の不自由』においてはこれを自分のまわりに「応援団」を持っている状態である、と述べられている。

上岡陽江・大嶋栄子『その後の不自由』より

まずこうした環境においては、まず子どもは自身が体験する感情や思考にフォーカスすることができる。そもそも子どもは、自分自身の中にある感情や思考について、教えてもらうことなしにそれがどんなものであるかを把握することができない。こちらの記事で使った麻雀のメタファーで言えば、まずは自分の手元にある牌がどのようなものかを、周囲から教えてもらわなくてはならないのである。守られた構造の中で、子どもは親とのやりとりの中で自分自身の境界線の中にあるものを正しく知ることができ、それは安定した自己像の土台となる。

そして、自分が真ん中にいるということは、きちんと自分の痛みを一番の優先にすることができる、ということである。このことは、正しい自他の境界線の感覚の構築に直接的に影響する。さらに応援団がいるから、その痛みも自分だけで背負わなくても良い。抱えきれないものは「誰かになんとかしてほしい」と訴えることができる。そしてそこで慰撫され、勇気づけられるのである。こうした経験があるからこそ、他人の応援団のメンバーとなることを要請されたとしても、自分が引き受けれる範囲の問題だけを引き受けることができる。自分は誰かの救世主にはなれないことを自覚し、応援団になることができる。

また応援団があることは、生活全体のストレス耐性を増す。会社や学校など外の世界で何か嫌なことがあったとしても、自分のコミュニティに帰ってきて、そうした外部の価値が全てではないということに気づことができる。こうした「失敗しても大丈夫」だと思えるような環境では、新たなコミュニティに参加することはより簡単になる。

不健康な家族の場合

それでそこそこ健康的な家族と対置されるような、不健康な家族とはどのようなものか。この家族の基本的な特徴としてまずあげられるのは、基本的な雰囲気が安心ではなく緊張であるということである。支配や暴力が存在しているため、いつ壊れるかわからないという、緊張感がその家族を支配しているのである。そしてそうした家族に置かれると、子どもは中心に自分ではなく、他人を置くようになる。その他人は家庭でアルコールを飲んで怒鳴る父だったり、それに耐えて愚痴をいう母親であったり、贔屓されて優先されるきょうだいだったりする。そうした人物が自分に成り代わって、真ん中に居座ってしまっているのである。

なぜこうしたことが起こるかというと、子どもが家族を維持するという調整役を担ってしまうからである。子どもには、周囲の事柄を自分の視点からしか見ることができないという自己中心性というものがある。これが緊張感ある過程の状況と結びつくと、「自分が頑張らないと家族が壊れてしまう!」という認知が自然に出来上がってしまうのである。また実際、子どもが他の誰を優先して調整役を担うのであれば、緊張は緩和することになる。しかしすぐに自分ではない誰かが起こすトラブルによって緊張が生じてしまい、そしてまたその調整を子どもが行わなくてはならなくなるのである。しかしもちろん、大人の問題や痛みは子どもが背負えるようなものではない。結果としてその試みは必ず失敗し、「自分のせいだ」という自責と、喪失に由来する抑うつへと帰結してしまうのである。

こうした環境においては、子どもは自分の感情や思考がなんであるかを知るよりもまず、他人の感情や思考を知らなくてはならない。そのためそれは、子どもの自己像の発達に深刻な影響を及ぼす。その一例が、自分にとって良いもの(内的価値)で満たされるのではなく、誰かにとって良いもの(外的価値)で満たされることを指向するようになることである。これはしばしば思春期・青年期以降の自己愛の葛藤として表出される(参考:臨床で扱う自己愛の問題)。その他にも、自分の感情や思考がなんであるかを正確に把握できないことはさまざまな影響を及ぼすことになる。それは、不安定な自己像や対人関係の問題へと帰結してしまうことになる。

また調整役として父や母の問題を自分のものとして背負っていると、その痛みも自分のものとして感じることになる。そうなると、今自分が感じているる痛みが、自分のものか他人のものかわからなくなってしまうのである。こうなると、何が自分が責任を取らなくてはいけない問題で、何が自分が責任を取らなくても良い他者の問題のか、全くわからないという混乱状態に陥ってしまう。つまり、自他の境界線の混乱が必然的に生じてしまうのである。

そして応援団がないことで、子どもは何かストレスがあってもそれを自分一人で抱え込まなくなる。閉じられた家族の中で、小さな子どもがそうした役割を担っていることは誰も知らないのである。孤立した環境の中で、子どもは「私が頑張らなきゃ!」と他人の痛みを背負う。しかし自分の痛みは誰も背負ってはくれない。こうした絶望的な状況が背景にあると理解すれば、もし誰かと繋がることができたときに強烈な執着と依存の関係が生じてしまうことは想像に難しくないだろう。

『その後の不自由』ではこの状態を「ニコイチ」と呼び、DVやモラハラといった危険な関係と表裏一体であると指摘している。健康な人の持つ応援団の距離では、いつ離れていってしまうか不安になってしまう。だからこそ密着を求め、そしてそれが満たされない場合に攻撃という手段を用いてしまうのである。他人に対しても応援団の距離ではなく、救世主になろうと献身的な犠牲を自ら引き受ける。しかし成人した世界において私たちは、幼児と母との間にあった共生関係を維持することはできない。ニコイチの関係はいつか必ず破綻し、そしてまた絶望してしまうのである。

また応援団の不在は、生活全体のストレス耐性を著しく減少させる。かろうじて存在する人間関係やコミュニティに対して過剰にコミットしてしまい、ちょっとのミスでも自分自身で許すことができず、強いストレス反応を引き起こしてしまう。こうした環境では、新たなコミュニティに参加するハードルは極めて高いものとなってしまう。

境界線が侵犯された家族

不健康な家族ほど極端ではないものの、子どもの境界線への配慮がなされなかった家族で育った場合、その発達に影響を及ぼすことになる。ここではいくつかそのパターンをあげることとする。

まずは「境界線からの引きこもり」のパターンである。これは子どもがいう「イヤ!」に対して、親が情緒的な絆を切り離すことで対応してしまうような場合である。これは子どもがわがままを全部聞かなくてはならないということでも、怒ってはいけないという意味でもない。親が子どもと問題を直接話し合うのではなく、情緒的な絆を切り離すぞ!という脅迫を用いてはならない、ということである。このパターンには「あなたが怒るとお母さん(お父さん)は傷つく!」と、親の感情を管理する責任に子どもに負わせることも含まれている。実際には子どもは両親の感情を管理することなどできないのであるが、自己中心性を持つ子どもがする勘違いを逆手にとって、そう思い込ませて脅迫する、というパターンがこれである。

次に「境界線に対する敵意」のパターンである。これは子どもが親から物理的・心理的に独立しようとすると腹を立てる、という場合である。監督責任がある親は、時に子どもに対して強制権を持つことはある。しかし「私の言う通りにしなさい」に加えて、「喜んでそれをしなさい」と強制するのであれば、それは子どもの境界線を侵害する。「親にたてつくものではありません」というような言葉の裏には、そうした境界線への敵意が隠されている。親は子どもが自分と異なる考えを持つことや、不従順や、あれこれ試して見ることに対して、寛容さを持たなくてはならない。親が敵意を示している状態では、子どもは「イヤ!」と言って境界線を持つような試みをすることはできない。

他には「過度の支配」のパターンである。これは、親が子どもに間違った選択をさせまいと厳しすぎる規則や制限を設けることである。例えば「あの子とは遊んじゃいけません!」と交流関係を制限したり、「私の言う通りにしていればいい」と選択を奪ってしまうような場合である。自由に行動して失敗する余地が全くない状況においては、子どもは自らの行動に責任を持つことができず、自他の境界線の感覚を発達させることができない。いくら危ないからといって、SNSや金銭管理といったものについて年相応の自由を与えないことは、結果的に子どもの利益を損なうことになる。

また「限界の欠如」というパターンもある。子どもの行動に対して一切の限界を設けずに許容してしまうことも、境界線の侵害のパターンとなる。子どもの失敗をなんでも親が後始末をしてしまう、ということがこれに当たる。これも愛情深さの一つの表現であるかもしれないが、とるべきところで責任をとる方法を学ばないで居続けるのであれば、人生から大きなしっぺ返しを喰らうことになってしまうのである。

最後は「一貫性のない限界」というパターンである。親自身に何か問題があり、その対応に一貫性がない場合、子どもの境界線の感覚は大きく混乱してしまう結果になる。予測ができないからである。子どもにとって、安定した外部の刺激は必須のものとなる。親からこれが与えられない場合は、自分でそれをなんとか確立しなくてはならない。その方法の代表が依存である。ほとんどの場合、このパターンの背後には未治療の親の問題というものが隠されている。親へのサポートを行うとともに、子どもに対して一貫性を持った他者の存在が不可欠となる。

自他の境界線とトラウマ

ここまで家族の問題について扱っていたが、自他の境界線の感覚に深刻な影響を与えるものが、もう一つある。それがトラウマである。

境界線の感覚の混乱と汚れた自己像

ここでいうトラウマは、単なる嫌な過去の出来事という意味ではない。トラウマとは、自他の境界線と人とのつながりの基礎となる、基本的信頼感を脅かすような体験である。

家族関係とトラウマが自他の境界線に与える影響の性格の違いについては、それを森の木に例えてみるとわかりやすい。家族の影響で自他の境界線が十分に機能しないことは、土地がやせていたり、光や水が多すぎたりという理由で十分に木が育たないという状態である。一方でトラウマは、雷が木に落ちるようなものである。

トラウマは基本的信頼感を脅かすことによって、「世界はそこそこ安全である」「私は自分の人生を所有している」という感覚を揺るがすことになる。こうした状況においては、誰でも自他の境界線は混乱することなり、他人と距離をとったり、反対に密着してしすぎてしまうことが起こる。

また境界線の中にある自己像への傷つきも深刻である。特に対人関係でのトラウマ体験によって、そこにある自己像が「汚れた」ものとなってしまうのである。加害者への抵抗や状況の打開の試みが失敗したという経験によって「こんなことになったのは自分のせいだ」「こんな自分は恥ずかしい存在だ」と、自分は汚れてしまっており、もう取り返しがつかないと感じてしまう。時には、もはや自分は生者ではなく死者だという思いにとりつかれてしまうことすらある。

トラウマを負うことに責任はなく、そうした扱いは不当である。それに対する行動も、その場では合理的なものである。しかしそのことを頭ではわかっていたとしても、心に自分自身の否定的イメージが刻まれてしまう。そしてこうした否定的な自己イメージを、いわゆる「セカンドレイプ」という周囲の反応によって強調されることは、非常に残念なことに一般的である。

トラウマと虐待の影響

トラウマ体験を追った場合でも「そこそこ健康な家族で育つ」ことができている場合は、一時的な境界線の混乱はあったとしても、やがて応援団の中でそれを回復させることができる。しかしあまりにもトラウマ体験が苛烈で反復したり、加害者が狡猾であった場合には、自他の境界線の感覚の混乱が継続し、自己イメージの障害や対人関係の障害が生じてしまう。ICD-11ではこれらは複雑性PTSDの症状としてまとめられている。

またトラウマ体験自体が比較的シンプルだったとしても、不健康な家族や境界線の侵犯された家族で生育していた場合、複雑性PTSDと類似した自己イメージの障害や対人関係の障害が生じることがしばしばある。これはフラッシュバックなどPTSD特有の症状を伴わないものであり、発達性トラウマ障害や(診断名ではない)愛着障害と呼ばれることもある。

さらに深刻な場合が、児童虐待である。これは不毛な地で雷に打たれ続けるという状態である。もちろん、通常のような自他の境界線の発達は、全くもって不可となる。虐待後においては、この次に述べる自他の境界線の混乱によって生じることの、全てが起こることがデフォルトとなる。さらには、現実と空想の境界線をも侵犯され、そのことで統合失調症と診断されるような症状が生まれることも頻繁である。

児童虐待によって起こる、境界線の中心にある自己イメージの汚染はさらに深刻なものとなる。子どもにとって絶対的に力があり、逆らうことができない存在である養育者から暴力を振るわれたり、支配的な扱いをされたりしてしまうと、子どもはどうしようもない。しかし、この「どうしようもない」状態を子ども自身が認めてしまうことは子どもにとって、生きる希望が断たれることと同義となる。そのため子どもは、希望を残すために「大人ではなく、自分が悪いのだ」と思い込む。自分が悪いからこうなったと思い込むことで、その後なんとかなるという希望によって生き残ろうとするのである。

精神科医のハーマンは、これを「加害者の悪を取り込む」と述べる。その結果、自分を「普通の人間関係に入れない人間」と思い、自分は汚れた、世をはばかるものだという自己概念に染まってしまうのである。

こうして取り込んでしまった自己否定感が境界線の真ん中に置かれてしまうと、自分の内側に良いものを全く取り込むことができず、反対にどんどんと悪いものを取り込んでしまうという、健康な人とは逆転した自他の境界線の機能が身に付いてしまう。それによって自傷や他害、あるいは再演と呼ばれる、トラウマを負った人の一見矛盾するような行動が生じることに繋がってしまうのである。

この次の記事で、自他の境界線に混乱にはどのようなパターンがあるのか、そしてそれは具体的にどのような問題を引き起こすかを述べる。そしれ最後に、自他の境界線の問題に対してどのようにアプローチするのか、その方法について論じたいと思う。

参考文献

ヘンリー・クラウド、ジョン・タウンゼント(2004)境界線(バウンダリーズ):聖書が語る人間関係の大原則 中村佐知・中村昇共訳 地引網出版
上岡陽江・大嶋栄子(2010)その後の不自由:「嵐」のあとを生きる人たち 医学書院

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