実存的危機としてのトラウマ(1):トラウマの実存的理解
初めてハーマンの『心的外傷と回復』を読んだ時は、以前やっていた宗教学・神学の修士課程を修了して、臨床心理学の大学院に入る直前の春休みであったと思う。たまたま父に「最初に読むならどの本?」と聞いて紹介された本の一つであったと思う。
その時に「なんて実存主義的な本なんだ!」という驚きがあった。そのままそれは本にメモしてあるのだけども、実務家になっていく過程の中でかつてのメジャーである宗教学・神学への興味が後退していく中で、そのことはやや忘れてしまっていた。
しかし自身が臨床を始め、そしてトラウマの問題に向き合う中でたまに思い出すようになってきた。しかしどうせすぐに忘れてしまうのが筆者である。なので今回、忘れないようにトラウマ臨床の実存的側面について簡単に思いついたことをまとめ、忘備録としておきたい。
実存的危機としてのトラウマ
実存的危機とは何か
一般的にPTSDの文脈で考えるのであれば、トラウマ的出来事とは、その診断基準にあるように生命を脅かすようなものであると考えられている。しかしそれは同時に、その人の存在そのものへの脅かしなのである。
人間が自分の存在を意識することを、実存(existence)と呼ぶ。このことから、トラウマは実存的危機の性格を持つということができるだろう。
実存的危機と生命の危機は、共通部分がありつつ、異なるものである。生命が奪われたとしても、その人の本質的な存在は損なわれないことがあり得るからである。その最も重要なシンボルが、ソクラテスの死である。ソクラテスは死を受け入れたが、それにもかかわらず彼の存在は損なわれなかった。哲学者が人間が怖れるべきとしたのは、生命ではなくその存在が脅かされる事柄についてであった。たとえばシェイクスピアのような作家は、トラウマ的出来事をそうした実存的危機と結びつけて描いていた。
こうした文脈を踏まえるのであれば、トラウマ的出来事を実存的危機として捉える見方は、むしろ歴史的には主流であったのかもしれない。
実存的危機とPTSDの診断基準
しかし現代におけるトラウマ概念の中心に据えられているPTSDという疾患からは、そうした実存的部分は除かれてしまっている。
現代におけるトラウマ概念の理解、そしてその治療法の開発に対しては、それがPTSDという疾病概念としてまとめられたという意義は果てしなく大きい。しかしこのPTSDという概念は、ベトナム戦争帰還兵というアメリカの社会問題を背景に、DSM-3という操作的診断基準というテクノロジーにおいてそれが形成されたがために、こうした実存的危機という側面を十分に反映することはなかった(ヤング,2001)。
ハーマンが複雑性PTSDという新概念を作り出さざるを得なかったのは、そうした背景もあるのかもしれない。『心的外傷と回復』が現在もなお他の書籍と一線を画した価値があるのは、実存的危機としてのトラウマ、そしてそれがもたらす絶望の描写の迫真さ故であると思う。
しかし、PTSDの診断基準の中にもトラウマの実存的危機という側面の影は見ることができる。DSM-5において、ようやく生命を脅かす出来事だけでなく、性被害というものも診断基準に含まれるようになった。また、ICD-11に収録された複雑性PTSDの項目の中にある「自己概念の変化」は、被害者の実存的問題をも含むものとして捉えることができる。
PTSDという疾患概念を十分に理解して治療を行うことと、トラウマを実存的危機として捉える見方は矛盾しない。少なくとも、PTSD治療の邪魔をするものではない。もしかしたら、ラポールの形成や治療動機を高めるものとして働きうるものかもしれない。エビデンスが重要視される風潮ではあるが、それぐらいの希望的観測を持つことは許されるであろう。
『心的外傷と回復』における実存的危機
ハーマンが描く実存的危機としてのトラウマ
ハーマンは『心的外傷と回復』の中で、繰り返しトラウマを実存的危機として描写する。そのもっとも顕著な部分の一つを、まずは引用してみよう。
ここで述べられるような、人間の体験に意味を与える信念のシステムの基盤を、心理学では基本的信頼と呼んでいる。ハーマンは続ける。
トラウマ体験は、非日常的な苛烈な衝撃である。それが生じたという事実、そして今後もそれが同様に生じ得るという可能性は、私たちが属する世界の安全性を粉々に打ち砕く。「正義は勝つ」「努力すれば報われる」といった素朴な世界に対する秩序の感覚(公正世界仮説)は否定され、生か死かという過酷な自然状態の認識へと引き摺り下ろされてしまう。
そうした状況下では、自分以外の他者とは自身の体験に意味を与えるようなつながりを結ぶことはできず、敵か味方かの過酷な間違えられない選択の対象でしかなくなる。究極的な価値の源泉である神や存在の根拠である母に対する助けを呼ぶ声に応答はない。
これらの結果として、自己の存在の否定という絶望の状態へと至る。これがハーマンが描写する、トラウマの引き起こす実存的危機の状況である。
死
他の角度からも、『心的外傷と回復』に描かれたトラウマの引き起こす実存的危機の状況について検討してみよう。
ティリッヒ(1995)の分類を手がかりにすると、実存的危機は三つの形態をとると考えられる。その一つ目は「死」である。人間は有限的存在であり、必ずいつかは死ぬ。しかし、その死がいつ訪れるかは誰にもわからない。死が現実的な問題となる時、私たちは自身の存在について問うことになる。
トラウマ体験は、直接的に、そして暴力的な仕方でその存在を死に暴露させる。それは「闘争か逃走か」あるいは「フリーズ」といった生理的な反応を引き起こし、過覚醒・侵入・狭窄というPTSDの基本症状のベースとなる。しかしハーマンは同時に、それは「極限の孤立無援感」にも直面させるとも述べている。
極限の孤立無援感、それが人間が死に直面させられた時に現出するものである。生物学的な死の先には何もなく、そして死の世界には私たちは独りで行かなくてはならない。死の世界には一切の肯定的な要素は存在せず、一切の繋がりもない。死が平等に訪れることは、自分の存在が何ら特別なものではないことを知らしめる。死は私たちをこの世界からの居場所を永遠に奪い、代わりに無を与える。
そのため絶えず私たちは、死を忘却することで生きていこうとする。多くの人たちが築くことができる愛着は、そうした孤立無援感を紛らわし、希望を与えるものとなる。無条件の生の祝福は、死の呪いを跳ね返す有力感を子どもに与える。たとえ死が変えられない終着点であると分かっていても、なおもそれを超えた地平を見ることができる。
しかし反対に愛着が築くことができなかった人たちは、そうした希望を持たず、醒めた目でこの世界を見ることになる。彼ら・彼女らは、大人であろうが子供であろうが、この世界は何の理由もなく理不尽に人に不幸を与えるものだという、どうしようもなく正しく認識を持っている。所詮は人間は独りなのであり、死に立ち向かう力などなく、終わりの日までそれが続くのだ、ということを知っている。
無意味
ティリッヒ(1995)が述べる次の存在への脅かしの形態は、「無意味」というものである。人間はただ単に生きるのではなく、人生を意味のあるものとして生きることを望む。言い換えるのであれば、人間は存在的(オンティック:ontic)だけではなく、精神的(スピリチュアル)でもあるのである。
先ほどあげたハーマンの引用は、トラウマがこうした人間の意味的・精神的な次元への攻撃であることを示す。トラウマは、その人の人生に意味を与える基盤そのものを打ち壊す。ハーマンは、これが神への疑念をもたらすもことを描写するが、このことは特定の信仰の有無は関係ない、一般的な経験を指し示すものである。ここでいう神とは、その人の全ての意味を与えるところ、その意味の源泉そのものである。心理学的に言えば、それは自分の人生には意味があると感じる基盤であり、つまり一次的な愛着対象との間で形成される基本的信頼感と呼ばれるものである。ハーマンが、被害者が母の名と共に神の名を叫ぶと述べるのは、そのためである。
自分の人生に対する一切の意味が剥奪された結果生じるのが、自身とその人生に対する圧倒的な空虚感と無意味性であり、その中で人間ではない存在としてただ生きるのみとなる。ハーマンは監禁状態の被害者が全面降伏に至る過程において、そうした非人間化が二つの段階を経て進行すると述べている。
トラウマ体験によって人生の全ての意味が剥奪され、絶対的受け身の態度で生きる姿が、ビリー・ピルグリム(ヴォネガット,2013)である。ドレスデン爆撃を経験したヴォネガット本人が投影されたビリーは、何を経験したとしても「そういうものだ(So it goes.)」としか語ることができなくなる。ハーマンは監禁された囚人においては、未来と過去とが廃絶され、果てしない現在、現在、現在に生きるだけの生き物になってしまうと述べる。ヴォネガットは次のように、その実存的絶望について表現する。
あるいは無理矢理その意味を外部から取り入れようとして、特定の誰かや価値観に対するしがみつこうとする。しかしそれらのほとんどが、支配と搾取の関係を前提とするものである。この関係について、共依存といった言葉で指摘するのは簡単ではあるが、己の生命、そして人生の意味の全ての源泉となるような絆を手放せということは、どれほどの苦痛をもたらすものとなるだろうか。ハーマンはこれを「外傷的きずな形成」と名付け、その体験の強烈さについて、苛烈なDV下に置かれた女性について以下のように述べている。
DVなどのパートナー関係のみならず、ヤングケアラーやアダルトチルドレンといった親子間といった臨床場面でも、こうした弱者の捕食者へのしがみつきはよく見られる。こうしたしがみつきはいくら説得しても離すことはできず、しばしば「病的」であると支援者からは表現される。しかしこれは、自身の存在が無意味へと転落してしまうことの恐れから生じるものであると理解することができる。しかし、当然ではあるが、そうした虐待者によって与えられた意味はあまりに脆い。被害者は遅かれ早かれ、再び意味の問題に直面してしまうことを避けることはできない。被害者たちの「私の人生になんの意味があったのか」という悲痛な声は、トラウマのもたらす無意味の絶望を表現している。
断罪
ティリッヒ(1995)が最後に述べる存在への脅かしの形態は、「断罪」である。存在、精神に続いて問題となるのは、存在の倫理的(モラル:moral)形式である。ここでいう「倫理的」という言葉は、アリストテレス的な意味で用いられている。つまり、人間という存在には、個々に達成するべき目的(テロス:telos)が課せられており、それに対して応答する責任がある、というような考え方である。日本文化ではこれが倫理的問題として扱われることは少ないが、「本当の自分とはなにか」という問いは多くの人が一度は持ったことはあるだろう。
心理学的には、これは超自我と呼ばれる機能の働きを示すものである。両親から取り込んだ価値観と愛着とのバランスが調和されている時、それはより高次の自己感覚の創出へと私たちを導くものとなる。だが「なるべき自分」となっていないと判断されるのであれば、自分自身でもある審判者によって断罪され、罪悪感が生じることになる。
トラウマ体験は、通常と全く異なる自己感覚を創出させる。とりわけ虐待的環境で育まれるのは「本当の自分」ではなく「ニセモノの自分」の感覚である。それは絶望を避けるためのものであるが、やがて自分自身によってそれは断罪され、そして結局は絶望へと至ることになる。
虐待者は明確に間違っている。しかし被虐待児はそれを超自我として取り込み、それを自我と調和させなくてはならない。そのためには自我機能、つまり現実をみるというものを捻じ曲げていくことなる。そのためトランス・解離の能力を伸ばしていくことになる。その一方で、自分が悪いのだという意識を引き込んでいくことになる。
こうした自己非難の様式は巧みに加害者に利用されていくことになる。『搾取的状況から拾い集めた満足がかすかでもあれば、その子の心の中ではこれこそ虐待の全責任が自分に負わされ、自分が劣っていることの証明になってしまう』のである。共謀に抵抗しようとするが失敗し、共犯者に仕立てあげられる。『このような恐怖のワナにはまった子どもは、虐待者の罪の責任はどうしてかはわからないけれど自分の方にあるのだと思い込むようになってゆく』。このような過程を経ることで、被害者には特殊なアイデンティティが形成されていくことになる。
この形式のアイデンティティは隠匿されている。しかし内なる審判者である自分自身に対して、それは隠していくことができない。そのため自分自身で「ニセモノの自分」を断罪するのである。
実存的観点から言うのであれば、これは常に自分の本質から疎外されているという、自己疎外の感覚である。私たちは「本当の自分となる」ということを課された存在である。しかしトラウマ的体験を生き延びるために、被害者は存在のこの倫理的側面を決定的に犠牲にして「ニセモノの自分」を育て上げなくてはならない。そこに含まれる邪悪性は虐待者のそれではあるが、それが自分の一部として取り込まれてしまう。それを否定するためには、自分自身をも否定するしかない。結果として、トラウマの生存者は自分自身を断罪し続けながら生きることになるのである。
実存的課題と治療
これまでの議論が厄介なところは、死、無意味、断罪といった実存的な事柄は、トラウマという特殊状況によってそれはとてつもなく先鋭化されているものの、普遍的な人間存在の構造にも根ざしているということである。これは神田橋(飛鳥井・神田橋・高木・原田,2022)が述べる「生きとし生けるものは皆、複雑性PTSDである」というアフォリズムと繋がる。
だからこそ、われわれは皆、トラウマを忘却したいのである。誰だって自分がいつかは死に、無意味であり、断罪されているという事実に直面したくない。ハイデガーはこうした一般的傾向を「頽落 (Verfallenheit)」と呼んだが、トラウマが実存的課題を鮮明にするとするのであれば、それはこうした傾向をさらに加速するであろう。クライアントからトラウマ的出来事を聞かされたとき、イワンから児童虐待の物語を聞かされたアリョーシャのように、セラピストもまた神の存在を疑うことになる。
しかし、セラピストが自分を守るために、安易にそこから目を逸らそうとするのであれば、真実を知るクライアントから嘲笑と諦めを込めた視線を向けられることになってしまう。そうならないためには、この厄介な問題に対してセラピストはクライアントと共に取り組んでいく必要がある。
人はいつか必ず死に、人生は無意味であり、私たちはいつまでも本当の自己にはなれずに自身を断罪し続けている。自身の中にもあるこの事実を認めなくてはならない。しかし、それにもかかわらず、「人生にイエスと言う」ことはいかにして可能となるのか?
これがトラウマ治療において、治療者とクライアントが共に立ち向かうべき実存的課題となる。
後半では、まずはハーマン自身によるトラウマ治療論を実存的側面から振り返る。そしてその後、死・無意味・断罪の実存的問題に対する解答を神学者であるパウル・ティリッヒの述べる「勇気」の概念を参照し、そのトラウマ治療との関係について考察することとする。
参考文献
飛鳥井望,神田橋 條治,高木 俊介,原田 誠一(2022)複雑性PTSDとは何か:四人の精神科医による座談会とエッセイ 紀伊國屋書店
ジュディス・L・ハーマン(1999)心的外傷と回復:増補版 中井久夫訳 みすず書房
パウル・ティリッヒ(1995)生きる勇気 大木英夫訳 平凡社
カート・ヴォネガット・ジュニア(2013)スローターハウス5 伊藤典夫訳 早川書房
アラン・ヤング(2001)PTSDの医療人類学 中井久夫・大月康義・下地明友・辰野剛・内藤あかね共訳 みすず書房
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