「生きとし生けるものは皆、複雑性PTSDである」:トラウマ臨床への誘い

2022年7月9日に学生さん向けにお話をさせていく機会がありました。今回の記事はその原稿の後半部です。

心理職としてトラウマ臨床を行うやりがいについて感じることについて話していきます。

トラウマとは何なのか?

まずは、トラウマとは何か、ということについてです。PTSDの診断基準の中には「実際にまたは危うく死ぬ、重傷を負う、性的暴力を受ける出来事に晒される」と書いてあります。これはトラウマというのが単なる過去にあった嫌なことではなく、重大な心の傷つきであるということを示しています。

そのため、トラウマというものをなんだか、自分達には縁がない、遠くにあるものとして感じる方もいるのではないでしょうか。トラウマが背景にある人たちは、自分達と異なった、ある種特殊な、異質な人たちである。その人たちはトラウマのせいで、普通ではありえない症状や、歪んだ物の見方や考え方をしており、それがために苦しんでしまっている。

正直僕も臨床場面に出る前にはどこかでそう感じていたと思います。ですがトラウマが背景にある人たちのカウンセリングを進めていく中で、この見方は180°と言って良いほど転換していくことになります。つまりトラウマこそが現実であり、通常の見方と言われるものこそが歪んでいるのではないか、ということになります。

「生きとし生けるものは皆、複雑性PTSDである」

ここで表題を見てみましょう。精神科医の神田橋條治先生の言葉です。神田橋先生は釈迦を引き合いに出して、「この世に生を受けることが災害の原初である」と述べています。該当部分をちょっと引用してみましょう。

「生きとし生けるものは皆、複雑性PTSDである。そして生育の中での自然発生的なトラウマ焦点化治療が起こっているからこそ、なんとかまあまあ平和そうに日々を生きているに過ぎない」<中略>このアフォリズム(箴言:しんげん=物事の真実を簡潔に鋭く表現した語句)はボク自身の内省にとっては適応可能だし、多くの人を見ていても、あそこの人もそうだなとわかる人もいるし、相当軽い人だとわからないだろうなということを思って<中略>生病老死の生、この世に生を受けることが第一のトラウマであるというお釈迦様のおっしゃることが実にそうだと。生まれてさえこなければ、トラウマはないというふうに思っています。

飛鳥井望・神田橋條治・高木俊介・原田誠一(2022)『複雑性PTSDとは何か』

神田橋先生のアイデアは、通常の状態からトラウマという特殊な状態に転落するのではなく、むしろトラウマこそが普通の状態であるというのです。最初はびっくりしますが、少し考えると納得できます。トラウマ体験にいつも付き纏うのは、「つながり」が絶たれるという事象や感覚です。我々が経験する最初の「つながり」の離断は、母胎から離れるということです。離れてしまった「つながり」を必死に繋ぎ止めるために、愛着を築こうとする。

その後の人生においても、我々はその過程のそれぞれで「つながり」が絶たれるという経験をし、それに対して個々人で都合をつける。そうやって全ての人が個々人の特性に応じて「離断と再結合/失敗と学び/傷つきと対処」をしていくのであって、それを経て人格として形成されていく。なのである意味で、トラウマこそが必然で自然であって、それに対するリアクションが偶然で特殊な状態であると言えるのですね。こうした理解を持って、神田橋先生は「生きとし生けるものは皆、複雑性PTSDである」というのです。

神田橋先生はこの理解から始めて、その治療論である「コツ」を展開していくのですが、それを説明するのは僕の手に余る、というのが正直なところです。ですが、その「生きとし生けるものは皆、複雑性PTSDである」という理解については、日常の臨床の中で似たようなことを感じます。その視点から、トラウマという概念を見直してみましょう。

実存主義

ちょっと前にブログに書いたのですが、僕のトラウマ概念との出会いはジュディス・ハーマンによる『心的外傷と回復』を読んだ時です。それでハーマンを読んだときに、衝撃を受けたのですね。これはなんと実存主義的な本なのだろう!と。

実存とは、人間が自分の存在を意識することを意味する言葉で、それを主に扱う哲学のことです。キルケゴール、ニーチェらを先達として、ハイデガーやサルトルといった人たちが代表者です。精神医学に大きな影響を与えたヤスパースもその一人に挙げられますね。

実存主義のアイデアの一つとして、我々は普段の日常生活の中では、自分の存在について意識することはないと言います。ハイデガーは、このような状態を「頽落(たいらく)」と呼びます。この頽落の状態の一つの特徴が世間話であるというのですね。世間話をするときに、人は話をしている事柄の正確さには興味を持っていないと。一種のその雰囲気に合わせて話している。このようにして、人々は物事の事実から目を背けているといいます。

頽落とは、人間にとって確実な事実が隠蔽されている状態であると言い換えられます。この人間にとって確実な事実とは何か?それは人間がいつか必ず死ぬ有限な存在である、ということです。私たちがいつか死ぬ存在であるということを意識することは、非常に強い不安を呼び起こす。だからこそ私たちは、それを誤魔化すために日常を生きるのだ、というのです。

トラウマと頽落

ここで、PTSDの診断基準をもう一度見てみましょう。「実際にまたは危うく死ぬ、重傷を負う、性的暴力を受ける出来事に晒される」と書いてあります。こうした出来事に晒された時、どのようなことが認知されるか、ちょっと考えてみましょう。

まず来るのは、「自分は死ぬ存在なのだ」ということではないでしょうか。しかしこの中で、死なない存在である人はいないでしょう。つまり、トラウマが明らかにするのは、全ての人に当てはまる真実なのです。日常生活に頽落することによって必死に覆い隠そうとしてはいますが、生物学的な死の先には何もなく、死の世界には私たちは独りで行かなくてはなりません。死の世界には一切の繋がりがありません。この死が平等に訪れることは、自分の存在が何ら特別なものではないことを知らしめるのです。こうした言葉は、否定したいと願うものの、その一方でどうしようもない事実であるということは、心のどこかで私たちは認めざるを得ないのではないでしょうか。

言い換えるのであれば、トラウマ体験は頽落した状態を打ち破り、普遍的に真実を強制的に暴くものとして作用するのではないか、ということです。

トラウマによって明らかにされるのは、私たちがいつか死ぬ存在である、ということに限りません。トラウマ体験は偶然的なものとして生じます。私たちはなんら理由もなく、突然の不幸や暴力に晒される可能性を常に生きているのです。必然的に生じた被害というものは、この世に存在しないと言って良いでしょう。私たちの人生は、偶然的なものによって左右される。他にも、私たちの人生に究極的な意味などないこと、本当の自分といった存在はどこにもないこと。そうした認識も、トラウマ体験の後に生じるものとしては一般的です。トラウマが背景にある人の心の背景にあるのは、このどうしようもない事実なのです。

こう考えると、なぜ周囲にいる人たちがそれを打ち消したくなるのか、そしてなぜそれが被害者を追い詰め、反発を招くものであるのかがよくわかると思います。

皆、自分たちがいつかは死ぬ有限な存在である。いつなんの理由もなく暴力や不幸に襲われるかもしれない。人生に究極な意味などなく、本当の自分といったものも存在しない・・・・ただ日常を送るためには、それを忘れて頽落した状態にならなくてはいけないのです。だからこそ、トラウマによってその日常に穴が空いたのであれば、それを埋めるために、まさに被害者の「口を塞ぐ」ようにするのです。「気にするな」「考えすぎだ」「もっと前向きに」「起きたことはしょうがない」「なんとかできたはずだ」・・・こうした言葉は、真実を覆い隠そうとして発せられます。

しかし繰り返されるフラッシュバックや、人間関係での孤立が、必死に覆い隠そうとしている事実の元へと被害者を回帰させることになります。日常生活から遠ざかれば遠ざかるほど、その真実は被害者の生にとって重いものとしてのしかかってきます。「とても辛い出来事があったから、そうした見方をしてしまうのだ」という理解の仕方もまた、その孤立を深めることになっていきます。

生きとし生けるものは皆、複雑性PTSDなのです。そしてトラウマ体験は新しいものを付け加えるのではなく、皆が日常の中で「失敗と学び/傷つきと対処」をする中で身につけたものを、暴力的な仕方で破壊するものなのです。しかしそこそこ明らかになるのは、事実なのです。

僕は総合病院で働いているのですが、このことはすごく実感があります。交通事故後の外傷で入院した人がPTSD症状を発症することが度々あるのですが、よくよく話を聞くと幼少期から虐待的な環境にいたのだ、ということは珍しくありません。

「なんで、こんなに頑張ってきたのに、こんな目に合わなくてはいけないんだ」と彼ら・彼女らは涙します。そこに理由などないのです。それが真実なのです。僕が被害者ではなく、彼ら・彼女らが被害者である理由は、単なる偶然にしか過ぎません。このあまりにも不合理な真実に対して、向き合っていくのがセラピストの仕事になります。

トラウマ症状を異なる視点から見直す

生きとし生けるものは皆、複雑性PTSDである。トラウマこそが現実で、通常の見方と言われるものこそが歪んでいる。ここからPTSDの症状を見直すと、また別の角度から捉えることが可能となります。

話が逸れてしまうので簡単に述べると、まず記憶の問題です。フラッシュバックや過覚醒といった症状の背後にあるトラウマ記憶ですが、これは生々しい感覚と鮮明なイメージだけがある「言葉を持たない凍りついた記憶」と呼ばれます。それに対して、通常の記憶は漠然としたイメージの広がりでしかない一方で、物語として私たちの自己像や人生の歴史に組み込まれたものとなっています。いうまでもなく、元々の真実に近いのはトラウマ記憶です。トラウマ記憶を処理することで細部が思い出せなくなり、裁判の証言などに影響する可能性があることが治療の際に注意としてあげられるほどです。生々しい現実をそのままで保存することができないため、私たちは記憶として加工してソフトなものにして保存する。こうした自然なトラウマ焦点型治療法に失敗がPTSD症状であり、PEやEMDRはそれを人工的に促進させるものであるという理解は、作用機序的にも正しい理解であると考えられます。

そして、対人関係の問題です。ハーマンが強調するのは、トラウマ体験は基本的信頼感を脅かすものである、ということです。エリクソンは基本的信頼感を生後12ヶ月で乗り越える最初の発達課題としています。神田橋先生が言うように「この世に生を受けることが第一のトラウマである」とするのであれば、基本的信頼感は最初に行う自然発生的なトラウマ焦点型治療によって獲得するものである、と言うことができるでしょう。基本的信頼感とは「この世界って優しいな。自分はケアをしてもらう価値のある特別な人間なのだな」という感覚です。そしてそれが「基本的に他者は自分を傷つけることはないだろう」という、対人関係の基本となるスキーマを形成する。しかしトラウマ体験は「この世界が残酷で、自分はなんら特別ではない取るに足らない人間だ」という事実を開示します。そうなると「世界は/他者は突然自分を傷つけてもおかしくない」という不信感が、対人関係の基本となってしまいます。この認識は、例えば震災や通り魔事件のことを思い浮かべるのであれば真実であることはわかるでしょう。

頽落への誘惑と真実の証言者となること

PTSDや複雑性PTSDの症状と言ったものの中に入り込むと「トラウマを負った人の見方こそが現実で、通常の見方と言われるものこそが歪んでいるのではないか?」と言う疑問が度々浮かび上がります。そうした見方は私たちを不安にさせます。しかし実存主義哲学風にいうのであれば、それらは真実であるから、私たちを不安にさせるものなのです。幸いにして、日常生活の中では、真実が明らかになる機会は数としてはそこまで多くはありません。しかしそうなった稀な場合に、私たち人間という存在の性格を明らかにするのです。ここまで見てきたように、トラウマを体験の意味の次元には、そうした問題が一定数含まれていると思われます。

トラウマをこうした見方で見ることによって、それを治療する際のセラピストの立ち位置というものも、また違った角度で捉えることができると思います。ハーマンは『心的外傷と回復』の中で、治療者には真実の証言者になることが求められる、と述べています。ここまでの話を踏まえると、治療者にとってそれがいかに困難なものであるということが、わかると思います。

それはクライアントを通して、自らの中にある複雑性PTSDの要素、すなわち出生というトラウマから始まる、自分がいつか死ぬべき、有限で偶然的な存在であること、究極的には自分の人生は無意味であり、その存在が無価値であるという性格を覗くことになるからです。そのため、それらを忘却し、頽落することへの誘惑が治療者には常に働くのです。ついつい、クライアントの絶望を覆い隠すような言葉を述べてしまいそうになります。

治療者は、それに抗して、真実の証言者であることが必要になるのです。

トラウマ焦点型治療との関係

強調しなくてはならないのは、ここで述べたような「生きとし生けるものは皆、複雑性PTSDである」という見方は、DSM体系に基づいたトラウマ焦点型治療と矛盾しないということです。エビデンスある治療法は、症状としてのトラウマ反応を取り除こうとするものです。しかしこれはDSMを使うときの注意なのですが、それがターゲットとしたところにしか、まずは効かないものなのですよね。EMDRやPEを実施すると、フラッシュバックなどはかなり軽快します。しかしそれ以外の問題、例えば否定的自己イメージや対人関係の問題というのは別個として扱っていかなくてはなりません。また、トラウマ後の人生をどのように生きるかといった問題に、そうした治療法は答えを与えてくれるものではありません。個人的には、こうした見方はトラウマ焦点型治療法でカバーする範囲の外の部分を補填する見方だと思います。

有用性とは?

具体的に有用なところとしては、まずは心理教育です。抱えている問題を単なる不合理な症状ではなく、より幅広い視点で共有することは、治療に際しては重要な要素となります。

次に、治療同盟の構築するというところです。ハーマンはトラウマにおける治療関係を「実存的アンガージュマン関係」と呼んでいます。アンガージュマンとは「かかわりあい」とか「参加」とかいう意味であり、治療者は単に知識と理性だけを持つ人物ではなく、クライアントとともに当事者として参画することを求めます。「生きとし生けるものは皆、複雑性PTSDである」という見方は、それを助けるものとなります。

また神田橋先生が述べるように、こうした見方は医原性の再被害を防ぐものになります。まずは皆、複雑性PTSDであると構えて対処し、その中の一部が例外的に単純なPTSDであると捉えることがよろしい、と神田橋先生は述べています。ここでは詳しく述べませんが、現行の精神科医療システムとはある意味で正反対なアプローチになりますね。

最後に、セラピスト自身の成熟にもつながるということです。ハーマンは以下のように述べています。

かかわることの報酬は人生が豊かになったという感覚である。生存者の治療に携わる治療者はたずさわる以前よりも人生の評価が幅広くなり、人生を大切に思うようになり、他者を理解する視野が広くなり、新しい友情を結び、親密関係が深くなり、日々患者が示してくれる勇気と決断と諦念と希望の実例によって鼓舞されている感じがすると異口同音に語っている。

ジュディス・ハーマン『心的外傷と回復』@p239

こうした実感がもたらされるのは、クライアントと自分が同じ課題を持った人間である、という意識からだと思われます。

トラウマ臨床をするということ

最後に、私見として「つながり」という観点から、トラウマ臨床をするということについて、まとめてみたいと思います。

「生きとし生けるものは皆、複雑性PTSDである」。これは私たちは「つながり」から切り離されることで出生して、かろうじてそれに対処するために「つながり」を持つものの、いつか必ずその「つながり」は離断され、孤独に死ぬことになるという、どうしようもない、人間にとっての事実を指し示すものです。

ただし、これはあくまで事実であって、人間を人間足らしめる本質的なものではない、ということもまた言い得るのではないでしょうか。誰しもトラウマを負い、既存の「つながり」が絶たれてしまうことで出生する。しかしその状態では生きてはいけないがために「つながり」を持とうとする。つまり必然的な「つながり」の離断に対して、なんとかして「つながり」によって対処しようとするということ、この「つながり」が人間を人間足らしめる本質的なものなのではないでしょうか。

私たちは日常的に多くの小さな傷つきを経験しています。そのほとんどは、既存の「つながり」によって覆い隠すことが可能となっています。

しかしここで問題となるのは、そうした「つながり」そのものを破壊するような、大きな外傷が生じた時です。これこそが、トラウマと呼ばれるものです。そしてこのトラウマに対しても、私たちは「つながり」を用いて対処するしかないのです。しかしその「つながり」は、不安と不信の中で作られるものなのです。すると「つながり」は、時として危険なものとなってしまいます。そこで作られた歪んだ「つながり」は、また新たなトラウマを生むということになってしまいます。これこそが、トラウマの再演です。そうやってつながりと離断を繰り返していくのが、狭義の意味での「複雑性PTSD」です。

複雑性PTSDとは、人間を人間足らしめている本質的な要素である「つながり」に対する絶望であると、僕は理解しています。この絶望は、いつか「つながり」は必ず離断されるという、動かし難い事実の開示であるがために、それを否定することはできないものなのです。

そのため、この問題に対処するということは、「つながり」を否定するような、ありとあらゆる事実にもかかわらず、本質的な「つながり」を肯定するということが必要となります。これこそがトラウマ臨床をするということの究極的な要素であると思うのです。

逆説の開示としてのトラウマ臨床

トラウマ臨床の場所でクライアントが語るのは、ありとあらゆる「つながり」に対する絶望となります。その絶望は事実であるがため、頽落の誘惑に屈しないのであるとするなら、セラピストも否定することはできないでしょう。

しかしこうした場面でも、そこには肯定的な要素が存在するのです。それはありとあらゆる「つながり」に対する絶望にもかかわらず、セラピストとクライアントの間にはつながりがある、ということです。この逆説こそが、虐待者の、現実の、トラウマの持つ圧倒的な無の要素に抗って、人間の本質的要素である「つながり」の存在を示すことになります。

もしセラピストが、頽落の状態に逃げ込みたいという誘惑に争って、クライアントの語る「つながり」に対する絶望を肯定するのであれば、逆説的に新たな「つながり」の可能性を示すことになるのではないでしょうか。これはまさに、神学者のパウル・ティリッヒが、究極的な存在への勇気の源泉として述べたものと同一のものです。

「つながり」に対する絶望の瞬間にこそ、そこに「つながり」があるということが、強調されうる。つながりに関する、ありとあらゆる絶望にもかかわらず、ここでつながっているという事実こそが、トラウマ臨床を支える究極的な要素として働くものであると思います。この経験は、深いレベルでクライアントとセラピスト双方の変化を導くものであろうと思います。

「つながり」に対する絶望を、「つながり」の中で語ること。それがトラウマ臨床をするということであると思います。

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