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エブリデイ大原美術館19日目〜ピカソのクリエイティブ〜

明日から岡山県に緊急事態宣言が発令される。
とりあえず5月末までだが、我々はこれからどう生きるべきなのか、
ピカソに聞きにきた。

企画を中断していたわけ

しばらく「エブリディ大原美術館」をお休みしていた。
毎日のように美術館を訪れることは刺激的だが、
名画たちは
「私ってこうこう、こうだから素晴らしいのよ」なんて語ってくれない。
近づいたり、遠ざかったり、メモを取ったり、スケッチしたり、読み取る時間が必要だ。読み取れないこともある。感じられるようになるまで、ずっと一緒に過ごす。
これってすごく体力がいる。当たり前ですよね、相手は巨匠たち。
なので、体力不足でお休みしていました。

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パブロ・ピカソ作「牛の頭」

今日は狙い撃ちだった。
前回、訪れた時から次はこれ!と決めていた。
大原美術館本館に入ってすぐに「この1点」という期間限定ブースがある。
ここに「牛の頭」はある。(7月4日まで)

ピカソの版画

ピカソが版画をどれくらいやったのかは知らないが、きっとそれには意味があったのだと思う。クラシックばかりを演奏するソリストが、流行りのポップミュージックやジャズを演奏してみたりする。決してジャンルを転向しようとか考えているわけではない。何をやっているのか、おそらくみんな「原点回帰」をしてる。

ピカソは版画をすることで、クリエティブ(描く)とは何かを原点回帰したのではないだろうか。それには2つある。

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1 クリエイティブとは何か

聖書の初めに、神が6日で世界、動植物、人間などを創るストーリーが登場する。0から1への行為。まさにクリエイト。
人間の創造するものは、神の天地創造と比べるとクリエイトであるとは言えない。脈々と続くDNAに刻まれたものなど何かの影響を受け、何かの模倣をしリ・クリエイトされている。
作家は、0から1を作り出すことは可能なのだろうか?意図的にやるものは全て、リ・クリエイトにしかならない、神には近づけない。

人間の意図を消す。偶然・偶発的なものには神が宿る。0から1が生まれる可能性があるのではないか。

「牛の頭」は、4レイヤーでできている。
1 白いカンバス
2 グレー(版画部分)
3 手書きの線や丸(黒)
4 黒の背景(版画なのか塗りつぶしたのか)

世界は、全て「無」の世界から始まる。白いカンバスだ。
そこに幾つかのレイヤーが存在する。

グレーの版画部分は、幾何学的であるが故に法則的で不自由に見える。
均一ではない模様が残るが、それは表情というより記号のように映る。

手書きでおそらく「眼」や「鼻の頭」の部分などを描いている。
スケッチしてみればわかるが、不均質であるが故に描きづらく、自由だ。

絵の半分以上はこの「黒」で覆われている。
どこか重く、暗い印象なのはそのせいだと思う。
しかし、この黒の部分がなければ牛の存在(輪郭)は存在しない。
白いカンバスを「無」と書いたが、透明の「無」ではなく、
存在する「白」だとわかる。それと同等に「黒」は存在する。
白「blank」と黒「black」の綴りが似ているのは気のせいだろうか。

ピカソに戻ろう。
ピカソは、世界を4つレイヤーで分けた。
白・秩序・自由・黒
そして、構成要素を版画という規則性の高いものに、手書きという不規則なものを入れることにより、偶然性を入れる。世界の秩序と自由意思。

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2 自由意志は世界(芸術)を作れるのか

なぜ「牛」を描いたか。牛は神が作った「生命力の溢れる創造物」。
「命」の象徴として選んでいる。
この作品が「牛」となることが、ピカソの施した何かによって生命を誕生させうる。ピカソは牛に眼を入れている。神秘的ではあるが生命を宿しているようにも見える。

さあ、世界の中でピカソの意図(手書き)によってカンバスに命を生んだ。
白・秩序・黒だけでは、牛は存在しなかった。
が逆説的に言えば、奇跡的に並んだこの3つのレイヤーがなければ、ピカソの意図(手書き)があっても牛(生命)は生まれえなかったことにもなる。

ピカソは、芸術の偉大さと無力さをこの版画を通して気づいたのではないだろうか。

コロナと生きる

さあ、緊急事態宣言の岡山で私はどう生きるのか。
大袈裟に言えば、人類が滅びる可能性のある危機だとも言える。
ピカソは天地創造を版画から構想したとすれば、このレイヤーのどの部分が崩れ今、天地は危機に晒されているのだろうか。
そして、人(手書き)は何をできると言っているのだろうか。


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