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写真は撮りますが、「魂を撮ろう」と思ったことはありません。松原です。

石井妙子著「魂を撮ろう」を読みました。

(ネタバレするよ)
映画「MINAMATA」は見ていませんが、同著は、熊本県水俣市の公害・水俣病を現地に入り写真を撮った写真家・ユージンスミスとアイリーンスミスのを主人公に書いた本。

「どこから話をしようか」

ストーリーは2人の祖父母の時代から始まる。時代背景や生い立ちだけではなく、そのスタートの前からストーリーは始まる。
この本はどこから書き始めるねん!とツッコミを入れたくなったが、読んでみるとおもしろい。
結果的にユージンやアイリーンのことを書いているようで、彼や彼女にはどうにもできないストーリーがあるように感じられた。

いつの時代だって

水俣病を生んだチッソという企業ではなく、日本という国家への憎悪が込み上げてくる。そして、いつの時代だって犠牲になるのは、弱い人たち。
ふと気づけば、現代だって一緒。何も変わっていない。
公害というカテゴリーではなくなっただけ。

写真家のできること

写真家だけではない、当事者や声をあげる人たちだけでなく、アーティストの視座が人の心を動かし、世論を醸成する。

表現は誰のためのもの?

ユージンは撮った写真を現像という作業の中、細かく陰影などの操作をする。現代でいうフォトショップで印象を操作するのと同じだ。
デフォルメされ、本来そこにあったものとは別のものとなる。
このことに違和感を覚える人もいる。
切り取りのような効果や写真家の意見を載せたニュートラルなものでなくなる。写真から意思を感じるようになる。
いい意味では、このことで世論が形成される。
象徴づける1枚と呼ばれルようになる。

時の流れで変わるもの

表現されたものは、時代と共に読み取られ方が変わることがある。
作中にもある写真は今後、後悔しないで欲しいと言われる作品が登場する。
ある展覧会のポスターになったことで・・・と言われていたが、調べてみればポスターにはなっていなかったこともわかる。
悪気は無かったのだろうが、捏造されてしまったわけだ。
時と共に世間は変わる。写真を撮影した人も変わる。撮影された人も変わる。見ている人も変わる。全ては流れていて意見も変わる。
変わることで浮き沈みする作品。

意図などあったのか

ユージンスミスは写真にチッソを批判する意図、国家を批判する意図はあったのか。あったかもしれない。
しかしながら、それ以上に写真を撮ることが目的だったのではないだろうか。
ユージンスミスは、「魂を撮ろう」としていたのだろうか。
そうであるとすれば、他者に何を伝えようというよりも、そこにただ存在する魂を写し取ろうとしていたのだろか。それともそんなものは写らなかったのか。

魂が写っていたら

魂が写っている写真とは何か。被写体は命を落とし、なくなってしまったとしてもそこに写る写真の中の被写体は命を宿している(生きている)と感じられるはずだ。

作者は

作者はこの本に登場する二人を描くことで、生き続けさせようと思ったのではないか。魂のある本として。
そしてこの本は二人を媒介として、水俣の悲劇を訴えっている。
日本人よ目を覚ませ、水俣はまた起こるぞ。いや手を替え品を替え、もうすでに起こっている。このままでいいのか。
ユージンやアイリーンではなく、他の誰かの出番を待っている。

水俣を過去のストーリーにするな

終わったことにしない。次に命を落とすのは自分だと思えと。



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