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ランニングシューズをかう話(寝物語2)

私も世間一般の人々の例に漏れず、コロナ禍で不要不急の外出を控えるようになった。はじめは気楽なリモートワーク生活を謳歌していたのだが、最近になって異変に気づいた。やたらと肩こりや腰痛が気になるし、寝ても疲れが取れない……。スポーツマンの全盛期とはいかないまでも、まだまだ足腰が衰える年齢ではないはずだ。調べてみると、どうやら筋肉量が低下し、首や上半身などを支えられなくなったことが体の痛みとしてあらわれているらしかった。言われてみれば当たり前だ。肉体のさまざまな不調は長引く引きこもり生活によってもたらされたものだったのだ。私は体を鍛える必要性を認識した。ジョギングがちょうどいいと思った。有酸素運動による内臓脂肪の燃焼と、体幹を鍛えることによる筋肉の増量。靴さえあれば他に道具も場所もいらないというのも私のしょうに合っている。最悪走ることに疲れたら散歩に切りかえて、近所の喫茶店に寄って帰ればいい。そんなわけで私は近所のスポーツデポに足を運んだ。私は何事も形から入る。

私は途方に暮れた。スポーツ店では無限にも等しい数のランニングシューズが陳列されていて、なにがいいのかさっぱりわからない。大会向け、練習用、ナイキ、ミズノ、アディダス、ホカ、ON、アシックス……。いったいどれを選べばいいのか。そこまで安くもない買い物だ。後悔はしたくない。お手ごろな値段で、足腰膝が弱く、足はやや甲高で幅の広い初心者に最適な靴はどれなのか。店員さんに聞けばよかったのだが、「なにかお探しでしょうか」という声掛けに、とっさに「大丈夫です!」と反応してしまった手前、再び話しかけるのも忍びなかった。靴ひとつ満足に買えないのか……。それもこれも、外出する機会が減って、店員さんと話すことも少なくなったせいだ。と、コロナに責任を転嫁し、結局なにも買えずに店を出て、肩を落としながら公園を歩いていた……。

そのダンボール箱は池を囲むように作られた遊歩道の中腹にあった。一度雨に振られたようで、薄汚れ、腐敗が進んでいる。

中にいたのは一足の靴だった。薄汚れてはいるが、くたびれた黒い毛並みをもった、まだ子どものランニングシューズだ。どこかで見たことがあるぞと思って記憶を手繰り、思い出す。さっきの店のアウトレットコーナーにもあった種類だ。

彼は私の姿を認めると、まるで私が救世主であるかのように、いかにも哀れっぽく鳴き、つぶらな瞳でこちらを見つめた。

「ああ、それは捨てホカだね」

私に声をかけたのはアウトドア風のファッションに身を包んだ老紳士だった。

「捨てホカ、ですか?」

「最近増えてるらしいよ。だってさ、ほら」

老紳士が示すまま、私たちの後ろを駆けていった若者の足元に目をやると、ハニカム構造のようなアウトソールが目に付いた。いかにもクッション性の高そうな厚底は、先日発売されたばかりのランニングシューズ、ON CLOUDMonsterである。彼らは誇らしげに主人の足に推進力を与えている。

「ちかごろじゃあれが大流行りだろ。旧モデルになったホカは捨てられちゃうのさ」

「でもああなったら、ホカたちはどうやって生きていけばいいんですか!? 野良ホカに戻れるんですか?」

「……一度人に飼われた靴たちが野生に帰れるわけがないだろう。まさか知らないのかい? 捨てられた靴がどうなるか」

「どうって……」

「殺処分だよ」

私はケージに囚われたホカたちがベルトコンベアに載せられ、ぱちぱちと火の粉をあげる焼却炉の中に次々と放りこまれていく様子を想像した。不安げに身を寄せあうものたち、隅っこで震えるまだ子どものホカ……そのすべてが灼熱に飲まれ、塵となる。中には主人とともに有名なレースを完走したものもいただろう。これからどんな道を走るのか、希望に胸をふくらませていたものもいただろう。いろんな思いが、火の中に消えていったのだ。おそらく、いま、この瞬間にも炎の中で身を焦がし、無念の声をあげながら死んでいく靴たちがいる。その事実は私の頭の温度を急激に冷やすのだった。

「そんなひどいこと……許されていいのですか!」

「でも現実なんだよ。じゃあきみに聞くが、捨てられた靴たちをいつまでもとっておくつもりかい?」

「それは、なんとか必要な人の元へ届けられるように保護して……」

老紳士は肩をすくめた。

「理想論だね。この世界は人のためにできている。靴たちは人間の都合のために繁殖させられて、いらなくなったら捨てられる。そういうふうにできてるんだよ。ペガサスも、ゲルカヤノも、新モデルがでたらみんな捨てられるんだ。特にランニングシューズは消耗品だ。フルマラソンのトレーニングをしている人なんかは年に何足も買い換える」

悔しいことに、私は彼の言葉に何も返せなかった。奥歯をかみ締めながらもう一度ダンボールの中のホカを見た。無邪気に舌を揺らす子靴には、なんの罪もないはずなのだ。アゴを撫でるとすぐに大人しくなり、こちらに身を委ねてくる。人懐っこく、大人しい靴だ。サイズを見ると、私の足にぴったりだった。

「……ぼくがこの子を連れて帰ります」

「なんだって?」

「ぼくが飼います。この子は、うちでたいせつに育てます」

「おいおい、あまり勢いでものを言わないほうがいいぜ。靴のメンテナンスがどれだけ大変か……」

「でも、ぼくは目の前で消えていこうとしている命を、見捨ててはおけない。あなたとは違って」

私は彼を睨みつけた。私の態度の変化に驚いたのか、老紳士は「やれやれ」とでも言いたげに去っていった。

私はホカを抱きしめ、さめざめと泣いた。私はこのホカクリフトン8を一生たいせつにすると誓った。


そして四十年が経った。

私は病院にいた。

あれから様々なことがあった。妻が娘を連れて出ていったり、娘が問題を起こしたり……。すべてはあっという間だった。現在の状況はある程度落ち着いている。小鳥の鳴き声が聞こえる、平和な午後だ。

窓の外を眺めてたびたび思う。これでよかったのだろうか、と。

わからない。ただひとついえることは、私はずっとホカと生きてきた。

花瓶の隣、窓辺に飾られたクリフトン8。西陽を吸い込んでなお光沢を放つオールブラック。しかしかつての厚底は、いまでは見る影もない。

「おじいちゃんっていつもなにか考えてるね」

「……ああ」

声を出したのは私の孫だった。十歳になる孫だけがたまに私の様子を見に来てくれるのだった。娘の差し金だろう。直接顔は出さないが、娘が下の階にいることを私は知っている。孫は大人たちの事情を理解しつつも私との時間を楽しんでくれているような気もした。悪いとは思うものの、人恋しさから彼女たちに甘えてしまう。

「おじいちゃんってさ、どうしていつも同じ靴を履いてるの? 膝を壊したのも、そんなボロボロの靴を履いてるからじゃないの?」

「どうしてって……」

私は彼女の頭を撫でた。できるだけやさしく、たいせつに。たまらず小さな彼女を抱き寄せると、すべての時間が蘇った。

「おじいちゃん、どうしたの?」

「捨てられなかった……」

「おじいちゃん、泣いてるの?」

「捨てられなかったんだよ……」


おわり




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