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月の泉

〇朗読や絵などに活用してくださいませ。
あらすじ
『私(アオイ)』には幼なじみの『桂樹(ケイジュ)兄ちゃん』がいる。
私たちは、暇さえあれば自転車に乗って、家からほど離れた場所にあるダムへ遊びに行き、その美しいエメラルドの鏡面にうっそりとして過ごしていたのだが…
時が経つにつれて兄ちゃんと疎遠になる
──思い出の場所に帰ってきた私。
決して交わることのない二人の話。


許可不要ですが、『 #月の泉 』とつけてSNSにアップして頂ければ、喜んで拝見しに伺います。

──────



草むらを掻き分け、金網を潜り、懐かしい抜け道を進む。
かつての自分と比べ、随分と体の柔軟さが失われたことに苦笑しつつ、私はゆっくりと、だが確実に、濡れた土を踏みしめて進んだ。

もうすぐだ。もうすぐなのだ。

勢いよくススキの壁を抜けると、突如として切り開かれた視界に、黒く朽ちかけたコンクリートの塀が飛び込んだ。
気が急いて、足がもつれるのも気にせずに、壁をよじ登る。コンクリートの塀の縁、そこから見える景色……

ああ、ここだ。
エメラルドの水面が鏡となって空を映す、この光景。

帰ってきてしまった。桂樹くんの、ダムに。

子どもの頃の私は、家から少し離れたダムに、自転車に乗ってしょっちゅう遊びに出かけていた。近所に暮らす高校生の男の子がいて、私は彼を「桂樹くん」とか「桂樹兄ちゃん」と呼び、彼は私の面倒を見てくれていたのだ。


「帰ったよ。桂樹兄ちゃん。今さら顔合わせにくくて、先にこっちに来ちゃったけど。」

ダムが返事をするはずも無く、まとわりつく風に目を細めて、独り、黙って座った。

それから私はしばらくダムを眺め、空に夕陽が射す頃まで離れられずにいた。
赤い光を淡く受け止めるダムは、遠い昔に取り残されているようで、大人になってしまった私だけが酷く滑稽な存在に思えた。

久しぶりに田舎に帰ってきたのに、挨拶もそこそこで飛び出したのだから母親も悲しんでいるだろう。

私は、一つため息をついてから、塀を降りて、金網の外に放り出していた自転車を取りに行った。
とぼとぼと歩きながら、坂をくだる。

私と桂樹兄ちゃんが一緒に過ごしたのは、私が小学校三年生から中学二年生になったあたりの五、六年だったと思う。短い幼少期の思い出は、大して覚えてもいないくせに、甘美な補正が掛かってしまうものだ。
なんせ、幼い子どもから見た高校生は、多分に魅力的で、私は憧れと尊敬の念ばかりで彼を見ていたのだから。

桂樹くんは、格好良かった。絵が上手くて、優しくて、私の話をたくさん聞いてくれた。それから、手が大きくて、それから、あとは、ええと、声が…匂いが……。
どうしようもなくなった。
私は、彼のことを何も知らないのだ。何も覚えていない。彼のことを指折り数える度に、彼が遠ざかる感覚に目眩がする。


辿りついた玄関の戸は重く、「ただいま」と掛ける自分の声は大層不機嫌だった。

「おかえり。葵、どこいってたのよ」
「友達に、会ってたんだよ。」
「そう。早く着替えなさい。大月さん家行くんでしょう。」
大月さん。桂樹くんの家だ。

「うん。」



久しぶりにこの呼び鈴を押す。背伸びしていたボタンはいつの間にか低くなって、触れた指先がビリビリと緊張した。

「あらあら。葵ちゃんいらっしゃい。」
「ご無沙汰してます。」
「桂樹も、奥で待ってるわ。」
「ありがとうございます。」

綺麗だったおばさんは、随分老けてしまっていた。
よく知るこの家は昔のままで、勝手知ったる奥の部屋に上げてもらった。

桂樹兄ちゃんは、微笑んで待っていた。

「よ。桂樹兄ちゃん」

土産を置いて、私は、あの頃と何も変わらない兄ちゃんに……
兄ちゃんの写真に、線香をあげた。


「うーん……久しぶり、ならさっき言ったし。遅くなってごめん、もなんか違うかな……なんで、じゃなくて……」

心の中では、言葉が泉のように溢れるけれど、どれも文章にもならなくて、結局私は兄ちゃんに何も言えなかった。

兄ちゃんの部屋は相変わらず無愛想で、私が入り浸っていた頃より、幾分か変わっている所もあったが、殆どそのままだった。埃一つなく、おばさんがこまめに掃除しているのだろう。けれど懐かしいとは思えなくて、どこか不気味で心細くなるような部屋に一変していた。


桂樹くん、ダムに飛び込んで死んじゃったんだって。


それも、もう、何年も前のことだ。とっくに上京していた私に、母から電話があった。
衝撃だった。同時に、私は、桂樹兄ちゃんならやると思ってしまった。
何故だか、そう思ってしまったのだ。

彼の声はひとつも思い出せないのに、霞掛かったあの横顔が綻んで過ぎる。

私は、きちんと並んだ彼の本棚から、少しの罪悪感を抱きつつも、見覚えのあるノートを拝借した。
日に焼けたそれを、パラパラと捲ると、文字は無く、代わりに絵ばかりが描かれていた。

2008年。2009年。

あのダムの絵や、樹や花、風景が沢山描かれる中で、ノートを捲る手を止めた。

一際綺麗な横顔だった。

今さら桂樹兄ちゃんの知らない部分に触れて、逃げ出したくなった。腹の底をそわそわさせる妙な淋しさに、指を冷たくして、もう一枚ページを捲ると、あの横顔など無かったように、いつもの彼の絵に戻った。

その後も同じ顔が描かれることはなかったが、代わりに絵画の模写が増えていた。
右下の方には心細そうな字で題名が添えられている。
『アポロンとダフネ』
美しい男から逃げる少女の絵だった。少女の指先から、草や枝が伸びている不思議な絵だ。

妙に心惹かれて眺めていたら、部屋をノックする音がして、驚いた私は『アポロンとダフネ』のページを破って、そのまま持ち帰ってしまった。


「大月さんとこ、どうだった?」
「どうだったって?」
家族四人が囲む食卓で、年の離れた弟が口を開く。
「元気にしてたのかなって。俺、あんま知らないし。」
「……それなら母さんとかに聞きなよ。」
「さすがに私だって聞けないわよ。大変だったみたいよ。桂樹くんが浪人している間に離婚したりで、今も一人きりだそうだし」
「え、そうなの」
「そうよ。だからアンタ、兄ちゃんに構って貰えなくていじけてたじゃないの」

知らなかった。

残った生姜焼きはもはや喉を通らず、私は急いで外に出た。


兄ちゃんは、格好良かった。絵が上手くて、優しくて、私の話をたくさん聞いてくれた。それから、

……それしか知らない。


切れ切れの息で私は走った。

天井のひらけた森の中。満月がぽっかりと浮かんでいる。
コンクリートに囲まれて、誰にも忘れ去られたようなこの真っ黒の穴にも、二つ目の月が浮かんでいた。

夏にしては肌寒く、夜にしては明るい空だ。

そういえば、昔もこんな夜に二人でダムに来た覚えがあった。

その日は蛍を見に行ったというのに、ただうるさい蚊ばかりで蛍の一匹も無く、落胆して、大笑いをしたような、そんな記憶だ。蛍が出ると言い出したのは、どっちだったろうか。

私は、盗んでしまった彼の『アポロンとダフネ』の絵を、ポケットから出して見つめた。
裏返すと、別の絵があった。携帯の光を翳して目を凝らす。

『オフィーリア』

口の中で転がした途端、フと思い出した。

少し掠れた優しい声や、霞掛かっていた彼の横顔が、すっかり輪郭を取り戻した。
静まり返った木々と陽だまり、コンクリートの縁に足を投げ出して並んだあの頃のこと。普段ニコニコしてばかりの兄ちゃんが、珍しく自分から言い出したあの日。

「僕、好きなんだ。」
「なにが?」
「……このダム。エメラルドに煌めいてさ。僕は、ほんとうは、ダムの中に暮らす人魚になりたい。」
「兄ちゃん」と呼びかけたあと、変だね、だとか、可愛いだとか、私が何と続けたかは覚えていない。

ただ最後の記憶は、兄ちゃんの瞳がエメラルドに輝いていたことと、「死ぬまで変われないんだよ」という言葉。


あんまり彼の微笑む顔が眩しくて、宝物にして胸に閉まっていたはずだったのに、すっかり鍵まで掛けていたようだった。

兄ちゃんは、変われたのかなあ。

見た目よりも遥に遠い境界線に飛び込んで、兄ちゃんの骨は縦に割れるくらいの大惨事だったのに、きっとそれにも気付かないでたゆたいながら死んだのだろう。

エメラルドの水底に沈むオフィーリアだな。美しい兄ちゃんによく似合っていると思った。


私は彼の絵を紙飛行機にして、ダムに投げた。けれど、それはすぐに、闇に吸い込まれて消えてしまった。

黒黒とした水面に飲み込まれる月が、まるで桂樹兄ちゃんに見えて、たまらなくなった。

──

月の泉
宮岡志衣

Twitter ( https://twitter.com/vitamin_Cchan_ )

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