理念と実践(4)宗教形式の改革 「現代人物論 池田大作」小林正巳著(昭和44年9月25日)第20回
創価学会員は日蓮正宗の敬虔な信者である。したがって、朝晩「 御本尊」に向かって経を読み「南無妙法蓮華経」を唱える。 仏壇には「シキミ」( 常緑樹の一種)をそなえ,線香をあげ,ローソクを灯す。それは他の仏教諸宗源と同様、 数百年前からの一種のならわしなのだろう。だが、こうした形式について池田は、四十三年十一月の本部幹部会の席上、次のような原則的考えを明らかにしている 。
「シキミ について
「シキミ」は品不足で値上りし、地方によっては手に入りにくくなった。したがって場合によっては「 シキミの鉢植えを供えておいてもよい 。また 、どうしても「シキミがない場合は 、緑菓の草木でもよいし緑の葉の造花であってもよい。なぜなら「御書」には「シキミ」でないといけないとは書かれていない。それはあくまで後世になって作られた形式である。根本は、御本尊に題目をあげ、教学を学び、折伏をすることが第一義となる。形式は時代に即応して変えることが許される。日蓮大聖人の教えは、すべての近代人にとって納得できるもので、後世の信者がゆきづまるようなことをされるわけがない。
線香 、ローソクについて
線香、ローソクも絶対使わなければならないということはない。病院や外国など、場所によって鎌がられる場合もあるし、狭い部屋でローソクが危険な時もある。したがってローソクを電燈にしてもさしつかえない。要は御供養の精神が大事なのだ 。
仏壇について
仏壇も高価なものを持つことが信心が強いことにはならない。それでは伽藍仏法になってしまう。本当に御本尊を大事にする心のあらわれでなくてはならない。
葬式について。
葬式の合理化運動を唱える人がいるが、形式だけの葬式を改革しようとする考えには大賛成だ。われわれこそ葬式の最高の近代化をうったえるものであり、合理化の先駆者である。葬式に必ずしも僧侶を呼ぶ必要はない。日蓮正宗は葬式仏教でなく、現に生きている人がよりよく生きるための仏教だ。呼びたい人は呼んでもよいが、呼びたくなければ呼ばなくてもよい。それは本人、家族の意見で決めることだ 。
これらについて、日蓮正宗の総本山も、大聖人の根本精神につながる考えだといっている。
形式宗教の打破
要するに大事なのは信心であり,御書に示された仏法の思想哲学である。それにくらべれば形式は二義的なものにすぎない。だから時代時代の生活様式にもあわせて柔軟性をもっていってよい。現代の生活様式と矛盾してまで形式にこだわるならば、かえって教え自体を傷つけるという趣旨である。宗教上の形式主義の打破に積極的な姿勢を打ち出したことについて池田は「大聖人の仏法は永遠に合理性、近代性をもっている。形式主義にとらわれているならば、葬式仏教になった既成宗教と同一化する可能性がある」としている。
たしかに多くの人たちにとって、仏教という言莱から連想するのはまず葬式、お経、線香、供花、戒名。神道ならのりと、おはらいといった形式である。年寄りでもないと、自分の家の関係の宗派の名もロクに知らなければ、ましてその思想に対する関心もない。
遠い昔、庶民の信仰の対象だった著名な仏閣も、いまでは観光の対象に変わり、今日宗教と一般民衆を結ぶ機会といえば、葬式、結婚式、祭礼などの儀式ぐらいなもの。いうなれば一般既成宗教の形骸化である。
だが、そうはいっても、日本人のなかに古くから伝わってきたこの形式だけは、意外に根強いものがある。自称「無宗教」「無神論者」のほとんどが、結婚と葬式のときだけは宗教形式による。一つには 世間的な見栄もあるし、そうでもしないと、何となく格好がつかないということかもしれない。
また、男なら「〇〇院……大居士」女性なら「大姉」などという位の高い戒名をつけて貰うためと、あるいは葬式の際、上等なお経をあげてもらうために、余分なおカネを出したりするそうである 。
僧侶は僧侶で、その宗脈の教義を檀家の人たちにひざづめで説くわけではなく、民衆との接触では、いわば葬式や法事の御用間きと化しているのが実情だ。坊主丸もうけといったたとえは 、そういう実態に対する庶民の風刺とともに、抵抗しがたいものに対する一種のあきらめのニュアンスを含んだものに思える。
そう考えると、池田が宗教上の形式について示した積極的な姿勢は興味深いものがある。
合理的な姿勢
池田はこう指摘する 。
「大聖人の教えはもともと形式主義を打ち破られている。大聖人の衣も質素なものだったし、キリストだって、一生、菜葉服のようなものを着ていた。形式は教えを荘厳にするため、後世になって生まれたものに過ぎない。だからローソク、線香も、真心から出るものはよいが、本当は御本尊だけ、御書だけでよい。
一般的に、根本の思想をはなれた形式偏重が、悪影響をもたらしたことは歴史に照らしても明らかといえよう。キリスト教にしても、免罪符をめぐって旧教と新教の争いを起こした。旧教は牧師、教会、キリストを第一義とし、新教はバイブル(聖書)、キリストに 重きをおいたためだった。
日蓮正宗も御本尊、僧侶、寺院を第一義とする考え方だったが、戸田先生は、御本尊、御書を根本とした。そのうえで宗門の御僧侶を守る。化儀(形式)については、もっと簡索に、簡潔なものに戻していかなければならない。この点は本山も了解してくれているのでやりよい」
ここに日蓮の思想、哲学の永遠性、普逼性に対する池田の確信が現われている。池田が某宗教団体の若い女性信者の時代感覚にマッチしない服装をみて、「いつになっても、時代錯誤な形にとらわれているところに限界がある」と評したのを聞いたことがあるが、そういう池田は、学会員に対 しては、いつも時代の先端をいこうと指導する。
東京の信濃町の学会本部をはじめてみて、学校と間違えるものも多いが、池田の近代性はそうした面だけに限らない。一般の催しの場合、主催者の挨拶ではじまるのが普通だが、創価学会の文化祭は一切挨拶抜きではじまるというスマートな進行。会員の日常生活に対する池田の指導も合理的である点が特徴だ
いずれにしても、すべて宗教を非合理的なものの代名詞と考え、無神論者、無宗教を自称しながら形式からは脱し得ない人たちが多いのに比べ、宗教団体の代表者でありながら,形式主義を打破し、合理性に徹しようとする池田の姿勢は、きわめて対照的でもある。