見出し画像

時間をやり過ごしたイマイチ高校時代の話

明日から9月だ。



今は、授業数の関係もあり、関東でも9月に入る前に二学期が始まる学校が多い。

私の時代は8/31までは夏休みだった。


もともと集団行動が好きではなかったわたしにとって、学校生活が「超楽しい」と思えるまとまった時期は、小中高なかった。


だから、当然8/31はいつだってブルーだった。


いじめとか勉強ができないとか特筆すべき嫌なことがあったわけではない。

強固な絆のグループにいたわけではないが、仲の良い子もいたし、周りから見てそんなに孤立してたわけでもないと思う。
むしろ、誰とでも当たり障りなく上手くやろうという気持ちはあった。
が、それ自体も結構疲れたし、逆に親しい人を作りにくくするところがあると思う。


そんなわけで、学校生活(クラスメイト)の中ではいつも、「居心地の悪さ」があり、やり過ごすことを意識していた。
夢中になって誰かとなにかやった記憶はなく。(そういうのに憧れはあったけど)


短い時間に区切って時間が経って終わってくれることを待つ、それの繰り返しみたいな真っ暗ではないが、グレーなイメージだ。


なんでこんなにわたしはつまらないと思っているんだろう。
なんであんな風に友達と笑い合えないんだろう。
なんで作り笑いしてるんだろう。
結局は、上手くやれてない気がする。

みたいな。



自分がどこかおかしいのかなと思っていたしね。


でもたぶん、自分の周りにはいなかったかもだけど(いたかもだけど)、そういうことを考えて「今」が過ぎるのを待っている子供たちは、それなりにいただろうと思う。


わたしは公立中高だったが(わたしの時代は私立に行くのは少数派だった)、よくも悪くもいろんなタイプの子が集まっていた。


高校も意味あるのかな、軽く、辞めたいな~とか思う時期もあったけど、行きたい大学(学部)ができてからは、そのための手段と諦めもついた。


そして、滑り止めなしで受けた大学には現役で合格。
模試の判定では結構微妙な時もあったが、でも浪人はしたくないという気持ちで合格できたような気がする(lightな奇跡か?)。


そこで、今まで出会えなかったが、出会いたかった友達たちに会えたのだ。
(その一人については、過去のnoteに書いた)

とはいえ、これまでのわたしの他人との距離感を変えることができたわけではない。
だから、その友達たちと比べても、いささかパッとしない閉じた学生生活だったと思う。


でも、ここなら出会えるかもと自分が選んだ場所で、その人たちに出会い、ここに来てよかった、わたしはこれでいいんだと思えた。

その気持ちは、20年以上たった今のわたしにとっても、支えなのだ。



#エッセイ   #学校生活が苦手 #オープンになれない自分  
#やり過ごす時間 #求めていれば自分で選べる時が来る #昭和の小学生 #大学 #友達 #つまらない高校生活 #これがわたし  
#あの選択をしたから



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?