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2度目のあーわかってないなぁ~と思う言葉

今、仕事を3つ掛け持っています。半サラしたのは2020年11月から。
今年の2021年6月からサードプレイスを住み開きという形でオープンする予定で、5月に引っ越しましたが、6月に入院。そして8月にも入院となり、9月中のオープンになりそうです。

2008年に福祉業界に飛び込み色々な違和感と課題を感じてきました。1社目は知的障がい者と関わる職場で理事長が当事者の母親だったし、私もヘルパー2級しかもたない無知だったので、色んなことを教えてもらうのとができて良かったんです。
ただ、1社目で初めて彼らと関わったときに『あ、私はこっち側の人間だな』と思ったことを鮮明に覚えています。今ではこっち側とあっち側があること事態がおかしいと思っています。
その後、高齢者は国をあげての取り組みがなされている、知的障がい者は診断された時点から親のネットワークがあり情報交換できる。
しかし、精神疾患は中途障がいであり、まさか自分が、まさか自分の家族がなるとは思っていないという人は多いんじゃないか。それは混乱している当事者はもちろん家族も突然のことでどうすればいいのかわからない。
精神科への通院にしり込みすることも多いでしょう。そんなことで、精神障害の方に関わっていきたいと働きながら大学に行くことになりました。
そこからいくつかの福祉事業所を経て、1社目に出会った同僚の年下先輩の職場で今は働いています。そこでも様々な問題があります。
これまで関わってきた1社目を除く福祉事業所では人権侵害やネグレクトやその他の問題が多かったのでよく話し合いをしました。
上司が私の感じている問題に対してなるほどと思える回答があれば、また考える術がありますが、なければ変える必要があるのではないかと思います。今、労災申請している会社は1年半位話し合ったでしょうか?その度に『直していきます』と言うもののなんのアクションもない。すぐに変えることができる小さなことさえしない。
そんな中で症状のコントロールが久しぶりにできなくなり、療養と復帰を繰り返すことになりました。
その時に私の直属の上司(この方も少し年下だったので言いやすかったというメリットもありました)は『とりあえず休んでください』と言います。私は正社員として働いていましたが、有給は始めの療養時にすべて当てたので、ということは給料は発生しません。そして一人暮らしです。『休めと気軽に言わないでください、給料がなけれな生活ができません。』と言うことで傷病手当受給へと繋がりました。

そして、今の元同僚年下社長も同じく
『そんなにストレスかけて申し訳なかった。取りあえず休んでください。』
そこで私は同じことを話すことになるのです。しかも半サラを選んだ生活なので、今ではすべてバイトで生活を成り立たせています。
『休めたらいいけど生活していかなあかんからなぁ。働かないと収入ないやん。』

その後、ホームの担当者28歳があまりにも酷い対応なので上層部を動かすためにアクションしました。
この事業所は職員とバイトは分断されており、情報が降りて来ません。
世話人と移動支援をしていますが、世話人に関しては酷くて、出勤したら入居者が2人増えていて夕食対応がてんやわんや。ホームLINEを作っているのですが使いこなしておらず、出勤した時にまた一人増えているといった状況でした。
新しい形体のホームで入居者が増える状態ですし、ほぼ初めてホームに入居する方ばかり。彼らが慣れていき、ホームの状況が安定するまで情報共有は頻繁にしてほしい。
ホームの責任者、ホームを取りまとめている責任者、そして元同僚の社長。個人個人に伝えても変化はない。というわけで、ホームのLINEには上層部が入っていることを確認し、課題と課題を解消するためにどんな行動をするのか送信しました。

これまでの福祉事業所でも話し合ってきましたが、上層部が何が虐待で権利擁護を理解していない。わかっているけど行動に移していないところは悪くなる一方なので、話し合いを重ねると共に上層部が改善するためのすぐにでも変えられる小さなアクションをおこすのか見極めています。そうでなければ劣悪な情況は変わらない、なにもしなければ悪くなっていく一方です。虐待や人権侵害を受けている利用者や入居者を見ているとストレス過多になり症状が現れます。私はこれまでたくさんの人を見捨てて来ました。自分の力のなさや不甲斐なさも何度も実感しています。

そして元同僚社長から話し合いの場作ったとのことで話し合いました。
『こんなにストレスをかけていたことを申し訳ないと思っている。給料は保証するから7、8月は休んで、9月から始めることをアドバイスをもらいながら協力してほしい』との打診がありました。
私の受け持つホームはそれでも先月3人辞めたので、
『ホーム大丈夫?今のところストレスコントロールできてるし働ける状況やから、ここに来てからもしんどいと思う状況が続く仕事は減らしてるし。働けるよ。まあ、会社の事情があるならありがたく受けさせていただきます。』
というわけで、現在のんびり期間となっています。
2つの仕事は引き続き行っていて、それでも主収入は元同僚社長の事業所なので、この期間に9月からオープンするサードプレイスのHPを作ったり、必要なものを揃えたりと準備をしようと思っています。

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子供の頃から生きていくことに違和感をもっていて、専門学校生の時の自己紹介で、『精神科病院に入院していました』と話した同級生に、あ、私も彼女と何か近い部分を感じるから自分も経験するかもなぁと思いました。

彼女から入院時のことについて話をしてもらう機会があり、“第3者に連れていかれる前に、怪しいと思ったら自ら受診する”ということを決めていました。
そして2年後社会人になりました。
社会に適応できず退職入社を繰り返します。
それでも当時は派遣が一気に広がった時期で奇跡的に仕事はほぼ途切れること無くできていました。

そこで出会う人は私の症状の波が酷いときにはほとんど離れていきましたが、その中でも離れず面倒を見てくれた先輩。その後も私の浮き沈みを見ながらも離れずに変わらず付き合ってくれた友達2人は今では親友です。信頼できる親友が2人もいることは、双極性障害になったからこそだなぁと思っています。

社会人1年目は専門学校での学びを活かせる印刷会社のデザイン部に配属後されました。
とても田舎だったので片道2時間かけての通勤。バスの始発では間に合わないので、原付免許を取得しました。
しかし、希望が大きかっただけに現実を受け入れることができなくて9ヶ月で退職。
その頃は常に離人症だったし辞める1、2ヶ月は眠れない睡眠障害と解離を繰り返していました。
病院に繋がったのは25歳。
母に『頭がおかしい‼️病院連れて行って』と言いました。1時的に回復し通院しなくても大丈夫と当時の医師に言われたかなぁ?通院はしなくなりましたが波はありました。
そして31歳頃にコントロールができず再受信し通院が再開します。
そこから1時激躁エピソードがあり『食べなくても眠らなくてもいい体を手に入れた』時は通院を自己判断で辞めました。3ヶ月くらい続いたでしょうか?覚えていないけど、夏服からコートに変わっていったので、かなり長期間だったと思います。
その後の波が凄くてラピットサイクラーだったんじゃないかと今は思います。
激鬱になった34歳で仕事ができなくなり『人生終わったな』と思いました。バリバリの希死念慮と自殺企図、そして殺人企図もありました←ヤバかった💦

小5の時におっさんに悪戯されやられずに逃げることができたけど、中学校でどう言うことかわかり男性恐怖症は15年は続きました。今でも歳上のギラギラした人は苦手です。
だから、中学1年生の時点で結婚という選択肢を失いました。すべての男性がそうなんだという認知の歪みができたんだと思います。
仕事以外に生きる道は無いと必死で働きましたが、症状の波に翻弄されて上手くいかない。
その影響と親戚に同じ障害をもった人がいます。いとこは自殺しました。親戚のおばちゃんは来るときはいつもハイテンションで多弁でした。今は70近いと思いますが、60歳前後でかなり重い状態だと聞きました。

今は福祉業界というブラックボックスの中で当事者として働くためにいくつかの資格を取ることで武装してこの業界に居続けています。
現在では自身でサードプレイスを作るところまで来ました。仕事は減らすかもしれないけど辞めません。サードプレイスが私の生活を支える唯一のものになってしまったら関わる人に対して、これまで辞めてきた職場と同じような障害者商売になる恐れを自分自身も持っているから。
自分の生活を他の場所で確保すること。自分の場所しか持たなかったときに、取り返しのつかない間違った方向に行くことを防ぐためです。
自分がこれまでに経験したことやそれらから培った知識をお金を払ってでも使いたいという方々がいれば誠実に対応していきたいと思っています。私と関わったことでお金が発生しても豊かな生活を実感できていると感じられるような個人個人の生活環境を整える関わりをしていきたいと思っています。

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