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【俳句鑑賞】一週一句鑑賞 24.01.14

生まれかわっても石鹸さっきまで蜜柑

作者:髙田祥聖
出典:句具ネプリ 2021冬号

季語は「蜜柑(みかん)」で、冬。最も身近な柑橘類のひとつ。実家から段ボールどっさりの蜜柑が送られてきたり、台所にいつも蜜柑の籠が置いてあったり、猫と一緒に炬燵でぬくぬくしながら蜜柑を剥いたりといった光景は、日本のあちこちで冬の風物詩となっています。分類は植物ですが、ほとんど生活季語と考えても良いほど人々の暮らしに密着した存在であると言えるでしょう。

今回この句を取り上げるのは、初読時から読みが変化したからです。そして今後も変化するかもしれない。現時点での読みを文章として残しておきたかったのです。
初めて読んだときは、「蜜柑」から「石鹸」に生まれ変わったのだと思いました。「生まれかわっても石鹸でしたよ。ちなみにさっきまでは蜜柑でした。」という感じですね。ですが今は、前世が「蜜柑」、今世が「人間」、来世が「石鹸」という解釈が自分の中でしっくりきています。「今は人間だけど、これから生まれかわっても石鹸になっちゃうんだろうなあ。さっきまでは蜜柑だったし。」という感じです。この読みに変わったのは、生まれかわりを思考する能が「石鹸」には無いのではないかと思ったからです。石鹸は、前世についても来世についても考えることなく、黙々と“石鹸生”を全うしそう。前世・来世に囚われるのって、人間的だなと思ったのです。

なぜ「石鹸」で、なぜ「蜜柑」なのでしょう。これは読者が自由に想像して良いところだと思うので、僕の好き勝手な解釈を書いておきます。
「石鹸」は、たまたまそこにあったのだと思います。独り暮らしの簡素な洗面所。例えば、歯磨きの時間、他のこともできないし何となく生まれかわりについて考えを巡らせちゃったりして。そこにあった「石鹸」を見て、ああ自分はこのくらいの存在がちょうどいいな、と。摩耗して消えていく存在と思うとネガティブですが、悲嘆という感じではなく、本当にこの「石鹸」くらいでちょうど良いという、一種の満足感なのではないかと思います。なんというか、僕がこの手の陰キャだからそう思っちゃうだけなんですが、ネガティブな思考をすることに対してポジティブなんですよね。僕も来世は石鹸がいいかも。
「蜜柑」については、前世なので、そうありたい姿というよりは、自分を望んだのが「蜜柑」だったんだなという、身体的直感があるのではないかと納得しています。前述したように、「蜜柑」はもはや生活季語です。常に日常のシーンに置いてあって、何となくのタイミングで食べて、身体を共にする。そういう一種の相棒的な存在であって、「蜜柑」側がやがて人間を欲したのではないかと。句には「さっきまで」とありますから、赤ん坊に生まれかわったのではなく、今の年齢の自分に“転生”したのでしょう。だからこそ、身体に記憶が残っている。絆、というと少しずれてしまいますが、人間と蜜柑の間には、そうした断ちきれぬ本質的な繋がりがあるのかもしれないと、深読みしたくなってきます。

「石鹸」と「蜜柑」という、一見すると突拍子もない取り合わせ。それは実際突拍子もないのですが、間に「人間」の存在が入ることで、人間の持つ刹那的で浅い欲求と潜在的で深い欲求の両面を描いた奥行きのある作品になるのではないかと、そんな風に考えてみました。季語「蜜柑」の本意を考える一助として、僕の中に刻んでおきたい一句です。

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