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追い詰められる夢《ピアノ発表会と“融血症”》
誰かからピアノの連弾をお願いされた。「ピアノ教室の発表会で弾いてほしい」と。
相方は妹で、五歳児。妹が五歳児ならば九歳のはずの私は大人で、そんな私からすると簡単な曲だったが、なのに譜面を見ても音は浮かばず、かといってピアノを弾きに表に出ることは難しかった。
――奇妙な病気が流行っている。
細菌性で、血液を介して感染する。感染すると増血が進み、内臓が壊れ、血が溢れ出す。感染者はそのうち正気を失い、他者を攻撃するようになる。怪我を負わされた人間はもれなく感染する。
よりによってなんでこんな時にそんなものが。
「ユウケツショウは危険なんです」と、白っぽい服を着たおかっぱ頭の男児が言った。融血症と書いた紙を掲げながら。危険なのは症状を聞けばわかる。
「発表会は中止にならないらしい」と言うスーツ姿の見知らぬ男に、私は発表会の日取りを訊く。「今日の17時からです」
悩んでいるうちにそんなに時間が経ったのかと衝撃を受けながら、中止にならないのならば欠席する旨を男に伝えた。
男は「ダメです」と首を横に振った。私はどうやったって出なければならないらしい。
譜面を見る。音はやっぱり頭には入ってこない。それにだいたい私はもう何年もピアノに触っていない。
無理だとおかっぱ頭の男児と見知らぬ男に訴える。男はなおも首を横に振る。男児は困り顔でこう言った。「一緒にピアノのある場所まで行きましょう」
一回弾いただけでなんとかなるような気はしなかったが、発表会の会場は、ピアノがある場所の、その隣の建物らしい。
いずれにしても欠席が許されないのならば、行かなければならない。
自宅から表に出ると、目の前に黒い大きな穴があった。当たり前のようにそこを抜けていく男児と男を追って、その穴を抜ける。
その先は、薄汚れたコンクリートの建物がひしめく空間だった。どの建物も、屋上の手すりと、建物に張り付くように備えられた灰色の非常階段がやけに目立つ。私はその建物群のなかで、ひときわ高い建物の屋上にいた。
曇り空の合間に青空がのぞく。
男児と男に導かれて、隣の建物の屋上に飛び降りる。と、顔面のいたるところから出血した人間がぬわっと現れた。3人、いや、4人、5人。おぞましい見た目だったが、それ以上に、間髪入れず襲い掛かってくるのが恐ろしかった。
怪我を負わされたら、感染する。
目の前のを蹴り倒し、なおも掴んで来ようとする手を踏んで、次の建物に飛び移る。男児が「こっちです!」と叫ぶ。
ぞろぞろと現れるおぞましい人間を全力で避け、建物から建物へ飛び移り、男児について走りながらピアノのある建物の場所を問う。「一度帰りましょう」と男児は言った。帰ったところでまた出てこなければならなくなるのなら、このまま進んだ方がいいのではないかという旨のことを私が言うのを遮り、男児は困り顔で首を振った。「あの人、いなくなっちゃいましたし」
そういえば、スーツの男がいない。
感染して、群れに取り込まれたのかと訊ねると「逃げたのだと思います」と男児は言った。建物を下りてしまえば、元の場所、即ち自宅に帰れるらしい。男は非常階段を下りたのだろう。
建物に張り付いた非常階段を男児とともに駆け降りる。後ろから追ってくる“融血症”の人間。そして、とうとう下からもそれは現れた。
男児が階段の手すりを飛び越える。この高さから。たぶん、1階まで10階はある。だが、後ろから前から“融血症”の人間が迫り来ていて、途中の階へつながる非常扉は見当たらなかった。
意を決して飛び降りる。落ちていく感覚。浮遊感。その気持ち悪さより、私は手すりに身体が当たらないことだけを気にしていた。当たって怪我をしたら感染する。
着地の衝撃はなかった。そのまま男児とともに、地面にできた見えない穴に吸い込まれたようだった。
――家だ。
リビングとキッチンの間に男児がいた。ゴミ箱を抱えて。
なにをしているのかと問う前に、男児は「ごめんなさい」と、抱えたゴミ箱に血を吐き始めた。
男児は、怪我は負わされていないはずだった。ひょっとして空気感染をするのか? 空気感染をするとしたら、ここは安全なのか? 安全な場所なんてあるのか?
「正気です。僕は大丈夫。でも……」
続く言葉は、もう聞こえなかった。
目を開けて、顔を触る。濡れてはいなかった。光源に向け、かざした手も赤くはなかった。
おかっぱ頭の男児は助かったのだろうか、スーツの男は無事逃げおおせたのだろうか、五歳の妹のピアノの連弾の相手は誰がしたのだろうか――考えても答えなどないことを思いながら、私は今一度目を閉じた。
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