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おれも同じだ。だから、(「狂わないでね。元気でね。」②)

 犬くんが、塾から追い出された。
 そのことを、おれは松嶋さんから電話で聞いた。松嶋さんは、犬くんのツイッターを見て知ったのだという。おれはSNSやブログのたぐいは一切やらない。
「ちょっと心配になるようなツイートを連投してたんだよね。落ち込み方が、なんだかとにかく、只事じゃない感じで」
 おれは松嶋さんの話を聞きながら、犬くんのことを思い出していた。
 「犬くん」というのはあだ名で、本名は内海信春というのだが、おれを含め塾にいた人間のあいだでは、もっぱら「犬くん」で通っていた。本人がいないところに限って用いられるあだ名だったから、彼は自分がそう呼ばれていることをおそらく知らないだろうが。
 内海信春が「犬くん」と呼ばれたのは、塾の主宰者であるところの「先生」への心酔ぶりが、塾生のなかでも群を抜いていたからだ。「崇拝」とか「新興宗教の信者」と言う者もいたが、内海は才気や知識量に恵まれているタイプではなく、はっきりいえば出来の悪い男で、講義中に先生に叱責を受けることが多かった。バカだなきみは。というように。ときに苦笑まじりに、ときに本気で蔑むように、とにかく彼はよく叱られた。
 ところが、ほかの塾生たちの前で叱責されるたび、彼はいつも顔に笑みを浮かべていたのだった。うれしくて仕方がない。そんなふうに見えた。彼の笑みに気づいたとき、おれを含む彼以外の塾生は戦慄に近いものを感じたと思う。ある日、講義が終わったあと、塾生のひとりが「『恋の奴隷』って歌がむかしあったけど、ちょっとあんな感じだね。あれは、犬だね」と言った。それから内海は「犬くん」になった。

 おれは犬くんよりもだいぶ前に塾を辞めていたが、それには犬くんも関係していた。
 おれが入ったころの塾は、まだ立ち上がったばかりで、先生も塾生も距離感を互いに探り合いながら講義が行われている感があった。なんでもそうだが、新鮮で、未知の部分が広がっていて、ほどよく緊張感があり、ほどよくよそ行きの顔を保つ必要がある関係は、うまくいく。
 そのころは講義が終わると、先生も塾生たちといっしょに、近くのファミレスに行くことがあった。そこで小一時間ほど、たわいない話をする。当時おれにとって、先生は普通に尊敬の対象で、好ましく思う相手だった。
 8月のある日、ファミレスに寄ったあとの帰り道、先生とふたりになったことがあった。おれは歩きながら、先生がむかし書いた文章のなかに、好きな言葉がある、という話をした。ある恋愛小説の「死と純愛」というテーマについて批判的に書いた文章だ。
「『死をもてあそんではいけない』『私はそうした薄汚い自己陶酔、自己憐憫には堪えられないのである。現実と現実を生きる全ての人間に対する冒瀆だと思うのである』──あれが、印象に残ってて」
「よくそんなの覚えてるね」
「なんていうか、心に突き刺さるような気がしました」
「自分では恥ずかしい気もするけどね。もともと、おれはあまり文章うまくないし、それはいまのきみより若かったときに書いた文章だから、へたなうえに青くて、目も当てられない」
 そんなことないです、などと言いながら、住宅の並ぶ静かな道を先生と並んで歩いていると、不意に懐かしい気分に包まれた。真夏の夜の、熱と湿り気を孕んだ空気の匂いが学生時代を思い出させた。仲間と遊んだ夜の匂い。そのなかのひとりにひそかに想いを寄せていたりした。そんな記憶とともに、胸の底にほのかに温かく、甘いものが流れてくる気がした。
 おれはそれからしばらくのあいだ、ひとり幸福な気持ちでいた。

 塾はある時期から、居心地のよくない場所になっていった。先生は明らかに塾生をバカにした態度をとるようになり、なにかにつけ他人の悪口をぶつぶつ言い、意味のわからない話を唐突に始め、性的で悪質な冗談を言うようになった。そうなった理由や事情はいろいろあったのかもしれない。ただ、塾生にそれをおとなしく受け入れてやる義理や義務はなかった。
 辞めていく塾生も出るなかで、犬くんこと内海は、先生からサンドバッグのような扱いを受けていた。犬くんはどんなときもやっぱり笑顔だったが、おれたちはそのぶん、はらはらさせられ、心配させられ、動揺させられ、苛つかされた。神経に悪い光景だった。
 そんなとき、犬くんがめずらしく欠席した。風邪をひいたそうだった。先生は、犬くんの文句をぐちぐちと並べていたが、突然こんなことを言い出した。
「あいつは、ホモだからなあ。内海は」
 その瞬間、どくん、と心臓が大きく跳ねた気がした。おれは思わず掌で口元を覆った。なにを言い出すんだ、と思った。
「おれのことが好きで好きで仕方ないんだよ。いつも講義のとき、あいつの視線がずうっと、こう、来るからさ。わかるんだよな。待ち伏せてる女みたいな。うっとうしいし気持ち悪いけど、いなければいないで、ちょっとものたりないような気もしないではないね」

 先生のその発言があった日から3カ月後、年度が切りかわるタイミングで、おれは塾を辞めた。
 辞めると決めたとき、おれは、あの夏の夜に感じた気持ちが、まだ「ほのかに温かく、甘い」程度であって、よかった、と思っていた。これがあともう少し熱くなっていたら、おれも犬くんのように陰で笑いものにされておかしくないような無様な真似をしていたかもしれないし、場合によっては、ほんとうに取り返しのつかない事態を招いていたかもしれない。それを回避できてほっとした、というのは、ひどい話かもしれないが正直な思いだった。
 おれと同じころ塾を辞めた松嶋さんに「伊沢くんは、どうして辞めたの」と訊かれた。答えることはできなかった。松嶋さんは、それ以上なにも言わなかった。そういう人だから、いまでもおれは彼女と友達づきあいを続けている。

 松嶋さんから犬くんの話を聞いたとき、じゃあ3人で飲みにでも行かないか、と言ったのは、おれだ。
 あのあと、というのはつまり、おれや松嶋さんが塾を辞めたあと、犬くんにも、心を傷つけられるような、決定的ななにかがあったのかもしれない。そんなことを、おれは考えたりしていた。
 金曜日の夜、約束した時間の10分前に店の前に着くと、犬くんと松嶋さんはすでにそこにいた。犬くんは、ぼんやりとしていた。元気がなさそうというか、生気がほとんど抜けたような、しおれた表情と姿勢で立っていた。
「いっぱい飲んでいっぱい食おうよ。きょうは、おれの奢り。この前ボーナス出たからさ」
「やった。あざーす」
 おれの言葉に、松嶋さんがめずらしくおどけた調子でそんな返し方をしたが、犬くんはやっぱり生気がほとんど抜けたような声で「ありがとうございます、どうも」と呟くように言い、へこり、と頭を下げただけだった。
 店に入って、座敷のテーブル席で飲みはじめてからも、雰囲気はぎこちなかった。犬くんに話を振っても、反応は鈍いままで、おれはだんだん苛ついてきた。
「きみさ」
 苛つきにまかせて口走った。
「なんできょう、きみを誘ったと思う?そういう態度、ある?べつにさ、いま、明らかに失礼なことされてるとか、そういうわけじゃないよ。じゃないけどさ。こっちとしては、気遣いを無下にされてるみたいで、いい気はしないんだよ」
「いや、伊沢くん、やめよう」
 松嶋さんが止めたが、苛立ちはおさまらなかった。そしてその苛立ちは、まもなく明確な怒りに変わった。犬くんがよりによって、こんなことを言ったからだ。
「ぼくは、先生に不満があるわけじゃないし、悪口も言いたくない。先生はたいしたことない人で、ひどい人かもしれないけど、ぼくは先生がそういう人だから好きなんです。そういう人だから、先生はぼくの先生なんです。もう塾にも行けないし、先生にも会えないことが、ぼくは、ひたすら悲しいんです」
 こんな怒りを感じたのはいつ以来だっただろう。一瞬、ほんとうに目が眩むほどの怒りだった。
 おれは先生に嘲笑されたおまえを、救ってやろうとしてたんだぞ。
 おまえの目を覚ましてやりたいと思ったんだ。
 なのにおまえは、おれが差し伸べたこの手を、払いのけやがった。
「……おまえ、気持ち悪いな」
 おれは最大限の悪意を込めて言った。
「そんなんだから追い出されたんだよ。おまえは」
 このバカ犬、とでも言ってやろうかと思い、いや、もっと、立ち直れなくなるほどひどいことを言いたい、などとも思ったが、かろうじてそこはこらえた。乱暴に伝票をつかみ、会計を済ませて店を出ると、そのまま駅に向かってぐんぐん歩いた。松嶋さんには、あとで連絡すればいい。そう思った。
 ひとり暮らしの部屋に着くと、服をそのへんに脱ぎ捨て、冷蔵庫に入っていた缶ビールを、いちどに2本飲んだ。そうしてシャワーも浴びずに、ベッドに横になった。

 うつらうつらとしていると、ふと、犬くんの言葉が聞こえた気がした。

 ぼくは先生がそういう人だから好きなんです。

「……ああ、いやだなあ」と呟いた。
 犬くんに怒りをぶつけたことを思い出した。その怒りに対する嫌悪が、自分のなかに少しずつ広がっていくのを感じた。
 おれは勝手に同一視していた。犬くんと自分を。
 好意の種類はおそらく違うし、好意をあからさまに出すか隠すかの違いはあったが「先生が好きなんです」と言う犬くんに、おれはずっと、自分を重ねて見ていた。
 犬くんが先生に嘲笑されたとき、おれは、おれ自身の気持ちが見透かされて、侮辱された。そう思った。おれは傷ついた。だから。
 犬くんを救ってやろうと思ったなんて嘘だ。先生の嘲笑に傷ついたおれを救いたい。ほんとうは、ただそれだけのことだったのだ。
 無様だ。
 ただそれだけのことなら、おれはあの場で、言うべきだった。自分で。先生に。他人を嘲笑うなと、言うべきだった。死をもてあそぶのが罪なら、他人からの好意や善意をもてあそぶことは罪ではないのかと、言うべきだった。
「犬くん」
 また、呟いた。
「犬くん、おれも同じだったんだ。おまえと。おれも同じだ。だから──」
「だから」その続きは、出てこなかった。なにを言いたいのか、すべてがそこで、曖昧になってしまった。でもおれは、繰り返した。
 おれも同じだ。だから、と。