夢は煙とともに

 オリンピックの公式ロゴマークとキャラクターでラッピングされた電車が走っている。
 狭くて薄暗い喫煙スペースの窓からそれが見えたとき、いまごろ東京には世界中から人が押し寄せていたはずで、東京が世界の中心になっていたはずだったんだ。と彼は思った。
 それがこの有様だ。
 オリンピックどころではない。7月のいま、一時期ほどではないにせよマスクを着けないことは自殺行為扱いだし、東京から地方へ行く者は歓迎されない。陰鬱かつ窮屈な日々だ。
 窮屈といえば、と、彼は手元に視線を落とす。
 窮屈といえば、煙草も嫌がられる。オリンピックが近づくにつれ、美観と健康を損ねるという理由からか、喫煙可能な場所はどんどん減らされていた。それにダメ押しを加えたのが、予想外のこの騒ぎだ。喫煙者の死亡率は高いらしい。この喫煙スペースに来る者も、減っている気がする。
 増える死者の数。澱んだ空気に覆われた街。陰鬱かつ窮屈な日々。
 煙を肺に溜め、吐き出す。辛くて苦い、薄汚れた煙の味が、舌に残る。
 1964年は、と、彼はつぶやく。
 1964年。それは彼の両親が結婚する3年前で、それから7年後に、彼は生まれた。
 1964年は、こうではなかったのだろう。街は明るかったし、人も明るかったのだろう。未来があったのだろう。多くの人が、街を埋めるさまざまななにかを、日々つくりつづけ、未来のために働いていたのだろう。煙草を吸いながら。屋外で堂々と吐き出される煙は、きらきら光りながら、街を発展にみちびく機関であるところの人々の存在を、誇示していたのだろう。世界へ。
 しかし。
 いまは1964年ではない。
 ──そこまで考えたとき、彼は、手元の煙草の灰の長さに気づいて、あわてて目の前のスタンド灰皿に灰を落とした。もう1本吸うか。迷っていると、ドアが開いた。
「またサボってるんですか? きょうなんか、もう、3時間くらいいるんじゃないですか? ここに」
 営業の男だった。
「そんなわけないから。3時間はないって。人聞き悪いねえ」
「コロナになったとき、こわいですよ」
「それはお互いさま」
 営業の男は、くくく、と笑いながら、煙草をくわえた。
「そういえば、やるんですかねえ。オリンピック」
「どうだろうね」
 彼は、最後の一服を深く吸い込む。
「ぼくはねえ、やらなくてもいいと思うんですけどね」
 営業の男の言葉の意味を、彼はつかみそこねた。
「え? やんなくていいって、なにを?」
「いや、オリンピック。ぼく、好きじゃないんで」
「……ふーん。そう」
 彼はスタンド灰皿に煙草を捨て、ふと、営業の男に訊ねた。
「いま、何歳だっけ?」
「ぼくですか?」
「うん」
「なんで急に。48ですよ」
「そっか」
 じゃあお先。と片手を挙げ、彼はドアを開けた。ドアの外も、薄暗かった。
 いまはもう、1964年ではない。──もういちど口のなかでつぶやき、なんとなく、煙草をしまったシャツの胸ポケットを押さえた。肺がすこしだけ、痛んだ気がした。