シャネルの5番

 わたしの初恋は、シャネルの5番だった。
 文芸サークルの新歓コンパで、空いていた右隣の席に、誰かが座った。それと同時に、甘い匂いがふわりと漂った。花や蜜や白粉を混ぜ合わせたような、複雑な匂い。香水かな、と思った。
 匂いに惹かれて隣を見ると、色白の、縁の丸い眼鏡をかけた男子学生がいた。驚いた。匂いの甘さで、女の人だと思い込んでいたからだ。
 それから彼と話をした。彼は、わたしと同じ1年生だった。どこの学部か。好きな作家は。好きな音楽は。そんな話のあと、わたしは彼に「匂い」のことを訊いた。
「シャネルの5番」
「いつもつけてるの?」
「うん」
「どうして?」
 形見なんだ。彼は言った。ごくふつうの口調だった。表情もやわらかなままだった。でもその瞬間、わたしは自分が居酒屋の座敷にいることもサークルのコンパが行なわれていることも忘れた。形見。その言葉と彼の声と、シャネルの5番の匂いだけが、わたしのなかに残った。
 わたしと彼とは友達になった。本の貸し借りをしたり、食事に行ったり、相談しあったりする、ふつうの友達だ。関係を変えるようなことはなにも言わなかったし、言えなかった。彼のそばに立つと必ず、彼から漂うシャネルの5番の匂いがやさしくわたしを阻む。そんな気がした。不満ではなかった。黄金色の甘い霧に、阻まれながらも包み込まれているような奇妙な感覚も含めて、わたしは彼を愛していた。
 卒業後、彼とはいちども会っていない。