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聞いてくれるだろうか。わたしの話を。(「狂わないでね。元気でね。」③)(完結)

 目を覚まし、暗い部屋でベッドに寝転んだまま、枕元のスマホでTwitterを開いた。
 内海くんのツイートが目に入った。
「Mさんに『狂わないでね』と言われた。落ち込む。俺はそんなにもやばいのか。」
 ゆうべのことを思い出した。わたしの気持ちも沈んでいた。

 きのう、わたしは伊沢くんと、内海くんを誘って新宿に飲みに行った。
 内海くんが先生に塾を追い出されて、かなりショックを受けているようだったので、励まそうとしたのだった。
 結果としてそれは大失敗だった。追い出されてなお、先生を慕っている、というか、依存しつづけている内海くんにとって、先生を否定的に見ているわたしと伊沢くんは、敵のようなものだったのだ。
 伊沢くんは内海くんに怒っていた。いまもたぶん怒っているだろう。
 そしてわたしはひどく後悔していた。
 別れ際、内海くんに向かって「狂ったりしないでね。元気でね」と言ってしまったことを。
 内海くんを見ているのが不安で、つらくて、ただそのせいで、そんな言葉を投げつけてしまったことを。

 なにかに、とくに、生身の人間に依存している人を見ると、わたしは不安になる。
 以前、そういう話をしたとき、伊沢くんはあっさり言った。
「おれそんなふうに思ったことない。松嶋さんは優しいんだよ」
 その日は日曜日で、わたしたちは新宿の、ビルの地下にあるタリーズのテーブル席でコーヒーを飲んでいた。伊沢くんとは塾で知り合ったときからなんとなく気がおけない感じがして、塾にいたころも、辞めてからも、電話で話したりときどき会ったりしている。
「優しいのかな」
「優しいよ。松嶋さんはさ」
 優しい。そう言われるのも不安になる。落ち着かない。なんとも言えずにコーヒーを啜っていると、伊沢くんがこんなことを言い出した。
「なんだっけ。Twitterで知り合った、ちょっと情緒が不安定な女の子の話、前にちょっとしてたことあったじゃん。好きな男にひどい扱い受けててっていう」
 情緒が不安定な女の子。わたしが伊沢くんと話すのが好きなのはこういうところだ。「メンヘラ」とか「病んでる」とか、そういう言葉をかんたんに使わないところ。
「うん」
「その子も、その男に依存しちゃってるから、心配してたんだよね?」
「うん。そうだね」
 わたしはTwitterで「アリアドネ」と名乗る、「お洋服づくり」が趣味だという18歳の女の子のことを思い出した。ひらがなの多い文章を書く、複雑な事情を抱えながら道に迷いつづけているような女の子。そんな女の子がネット上で使っている名前が「アリアドネ」というのはなんだか皮肉めいているような気がしないでもない。なにかのときDMで連絡先を交換したので、一時期アリアドネからは、よく、夜中にLINEが来た。だいたいいつも「すきなひと」の話だった。通話することもあった。アリアドネは涙声で15分から30分くらいかけ、いろいろなことをパン屑を落とすようにぽつぽつ話し、最後はいくぶん明るい口調で「おねえさんに聞いてもらえて落ち着きました。おやすみなさい」と言って終わるのだった。そういえば最近は連絡がこない。アリアドネはいまどうしてるんだろうか。
「その子、いま元気なのかな」
「わからない。最近、連絡がないなって思ってたところ」
「そっか」
 伊沢くんはそこでコーヒーを飲み干すと、レシートを持ってもう一杯オーダーしにレジへ行った。コーヒーが好きな人だ。本人いわく「コーヒーアディクション」らしい。
 新しいコーヒーのカップを持って戻ってきた伊沢くんが、椅子に座ると同時に「そういえば」と言った。
「さっきのさ、松嶋さんは優しいって話。おれ、コーヒー待ってるあいだに思い出したよ。塾でさ、松嶋さん、先生が犬くんのこと貶したときに、すげえ怒ったよね。ああいうのも、そうだよ。優しいからだよ」
 すこし間があった。
「──あのときのことも、そんなふうに言ってもらえるようなことじゃないよ」
 わたしはそれだけ言うと「わたしも、コーヒーおかわりしてくるね」と席を立った。そのあとは、まったく違う話をして、新宿駅のJRの改札口で、伊沢くんと別れた。

 ベッドのなかでそれらのことを思い出しながら、苦い表情になってゆくのが、自分でもわかった。「先生が犬くんのことを貶した」「私がすごく怒った」というのは「あのとき」のことに違いないと思ったからで、わたしにとって「あのとき」の行動は、それこそ「優しい」とはほど遠い感情から発したものだったからだ。

「あいつは、ホモだからなあ。内海は」
 先生が「あのとき」そう言い放ったことを、わたしはいまでも忘れていない。
 それは内海くんが塾を休んだ日のことで、先生はその日ずっと、内海くんの悪口をぐちぐちと言いつづけていた。
 いつごろからか、それは覚えていないけれど、先生は徐々におかしくなっていた。よく「人が変わったようだ」などということがあるが、「変わった」のか「抑えが効かなくなった」のか、とにかくやたらと攻撃的で異様な言動が目立つようになった。
 そんなことが続くうちに、塾を去る人は増えたし、先生の目つきはどんどん険しくなって、髪や肌も荒れていった。身体も、痩せるというより、やつれていった。病的でネガティヴな思考は、人の容姿を短期間でここまで衰えさせるのかとわたしは思った。
 のちに、かつて塾にいた人から、先生はあのころ個人的にいろいろあって精神的に追い込まれてしまったらしい、と聞いたことがある。しかしそれにしたって、先生が自分以外の人間を攻撃し、侮辱していい理由などあるはずがなかったし、わたしたちがそれにひたすら耐えるべきであるはずもなかった。
 そういう、それまでの積み重ねが「あのとき」にわたしのなかで爆発したのだ。
 内海くんを貶しつづける先生の声を聞きながら、わたしは椅子から立ち上がった。
 立ち上がって、緊張を抑えるために左の耳たぶを指で触りながら、声を発した。
「……あの」
 第一声は、無視された。
 ほかの塾生の何人かが、また、こいつ、なにをやらかすんだ、という顔でわたしを見ている。
「あの!」
 声をいくらか強めにした。先生はそこで眉をひそめ、わたしを見た。
「……え?なに?」
 わたしは、ぎゅっと耳たぶをつまんで、言った。
「──先生。それは、あまりにも、ひどいんじゃないかと思うんですけど」
「あん?」
 そう返されて、かっとなった。なにが「あん?」だろうか。
「いえ、あの、他人のことを、そういうふうに言うのは……ひどいと、思います」
 先生は、へっ、と、鼻息のような嘲笑をもらした。
「出たよ。いい子ちゃん発言」
 わたしは再度、かっとなった。こちらが「あん?」と言いたいところだ。と思いつつ、なんとか必死で自分を押しとどめた。
「おまえな。何様のつもりだ?」
 先生が言葉を発するたびに、首から上が熱くなり、ぼんやりしてくる。何様のつもりだ。それもこちらの台詞だ。何様のつもりだ。などと頭のなかではつぶやきながら、わたしはいったん口をつぐんでしまった。
「おまえはなあ、バカなんだよ。松嶋」
 先生の言い方は嘲りに満ちていた。言葉が続くにつれ、嘲りはあふれ、ほとばしった。
「松嶋。おまえはバカだよ。バカ。おまえのことだよ。聞いてるか?おまえ、バカのくせにプライドだけは高いよなあ。気分いいか?そうやって正義の味方を気取るのは気分がいいか?小心者のくせしやがって。なんだ、その、耳をやたらいつもいじくるのは?神経症かなんかか?わけがわからないんだよ。筋が通ってないんだよ。おまえの言うことは!最後までろくに喋れもしないなら最初からなにも言うなっていうんだよ!バカなんだよ。おまえは。バカだ。頭がおかしい。まともじゃないね。まったくまともじゃない。そんなおまえが正義の味方ヅラしたところで誰も感謝なんかしないし一目置いたりもしない。おまえのやることにはなんの意味もないんだ!黙っておれの言うことに従ってろ!ここはおれの場所なんだからな。おれの場所ではただひたすら黙っておれに頭下げて従ってればいいんだ!バカは引っ込んでろ。出しゃばってくるな!いいか!聞いてるのか、松嶋!」
 捲し立てながら、先生は丸めたノートで、ホワイトボードをバンバン叩いていた。いやな音がした。ほかの塾生は、一様にうつむいて沈黙している。
 わたしはぼんやりと立ち尽くしながら、だんだん「ばからしい」と思いはじめた。ばからしい。いまのこの状況がじつにばからしい。
 なんでわたしはこんな場所で、ホワイトボードを叩く音をBGMに、罵声を浴びせられているんだろう?
 なんでこんな相手に、こんなに何度も、バカ呼ばわりされているんだろう?
 先生がホワイトボードを叩く。それをわたしは、わたしへの暴力に等しい行為だと解釈した。なめられている。ものすごくなめられている。そう感じた。
 そう感じた瞬間、頭にきた。
 わたしは右手を力いっぱい握りしめると、机に叩きつけた。ごんっ。と、鈍い音がした。
 先生もさすがに驚いたのか、その直後、室内は完全に静かになった。
 その隙にわたしはバッグにペンケースとノートを入れた。部屋を出た。ドアを閉めたあとで「あっ、待て!逃げるのか!」という先生の声が聞こえたが、知ったことではなかった。
 次の講義には、わたしはふつうに出席した。先生はなにも言ってはこなかった。不気味だと思われたのかもしれないし、なにかべつの理由があったのかもしれない。ただ、わたしはもう、先生がなにを言っても抗議したりはしなかった。その後、年度末で、わたしは塾を辞めることにした。同じころ伊沢くんも塾を辞めた。伊沢くんが辞めた理由はわからない。訊いてみたことはあるが、言いたくなさそうだったから、詮索はしないでおこうと思ったのだった。

 あれこれ思い出したり考えたりしているうちに、時間は昼近くになっていた。だるい身体を起こして部屋の遮光カーテンを開ける。外は晴れて明るかった。
 食欲はなかったので、とりあえず熱い紅茶を淹れ、パソコンの電源を入れた。
 ふとアリアドネのことが頭をよぎった。
 Twitterを開くと、偶然にも「30秒前」に、アリアドネのツイートがひさしぶりに投稿されていた。画像だけのツイートだった。アリアドネと、スタンプで顔が隠れている細身の男の子(たぶん男の「子」だろう)が、おそろいの服に身を包み並んで立っている写真だ。
 アリアドネがわたしにLINEを送ってきていたころにつきあっていた相手は「おとうさんくらい年がうえのひと」だったから、この写真の子は、きっと新しい彼氏なのだろう。
 元気になったんだな。と思った。
 元気になったんだな。とは思ったが、元気になって、よかった。とは思わなかった。
 虚しかった。心配してきた時間が虚しい。そういう気持ちしかなかった。
 アリアドネのかわいらしい笑顔を見ながら、わたしは、いずれ内海くんも、いまの絶望を忘れて、新しいなにかに夢中になるときがくるだろうと思った。
 そうなったら、わたしはやっぱり、よかった、とは思わないだろう。ただ「狂わないでね」などとあのとき口走ったことが恥ずかしい、と、いまよりもさらに強く思うだろう。そしてただひたすら、自己嫌悪にさいなまれるだけだろう。
 わたしはぜんぜん「優しい」人間ではないのだ。
 先生が、わたしを罵倒したときの言葉が頭のなかに響いた。
「おまえ、バカのくせにプライドだけは高いよなあ」
「気分いいか?そうやって正義の味方を気取るのは気分がいいか?」
「まともじゃないね。まったくまともじゃない。そんなおまえが正義の味方ヅラしたところで誰も感謝なんかしないし一目置いたりもしない。おまえのやることにはなんの意味もないんだ」
 わたしは声に出してつぶやいた。
「先生の言うことは、当たってたな」
 われながら陰気な声だった。
 わたしはふいに、先生もわたしも、同じなのだ。と思った。あからさまに不安定な他人を見下すことで、自分を保っている。ベクトルが違うように見えるだけで、根は同じなのだと。
 そして、伊沢くんのような人が「優しい」と思ってくれるように振る舞ってみせるぶん、わたしのほうが先生よりも悪質なのかもしれなかった。

 ぬるくなってしまった紅茶のカップを握りながら、わたしはいつか、伊沢くんに、こういういろいろなことを打ち明けたい気がした。伊沢くんは、わたしの話を聞いてくれるだろうか。


(「狂わないでね。元気でね。」了)