分身

 わたしが最初にそれと遭遇したのは、去年の12月10日だった。手帳に書いたから、日付まではっきりしている。

 夕方、駅から自宅へ向かう途中の横断歩道で、自転車に乗っている男が信号待ちをしていた。
 ダウンジャケットを着たその男の後ろ姿は、見覚えのある相手によく似ていた。よく似ている。と思ったと同時に、動けなくなった。
 信号が青に変わるまでの時間が、おそろしく長かった。青になっても、わたしは横断歩道を渡らずにその場に立っていた。気づかれるのを恐れたからだ。
 じきに自転車の男は見えなくなった。見えなくなったのに、まだ動けなかった。呼吸が荒くなっていた。あたりは暗く、空気は冷たかったが、全身、いやな汗をかいていた。気持ちが悪かった。気が遠くなりそうだった。なんとか耐えながら、信号がまた青に変わるのを待った。

 わたしは、オフ会でいちど顔を合わせた某作家と、同じく作家であるその妻から、半年間ほど、ネット上でのいやがらせを受けていたことがある。
 某作家の愛読者で、一方的に尊敬の念を抱いていたわたしにとっては、その日はじめて実際に彼らに会えたのはうれしいことだった。が、某作家も、妻も、独特すぎる雰囲気がよく似ている。とまず感じたことを思い出す。眼にも顔色にもなんというか冴えがなく、澱んでいて、荒れた池でも眺めているような気分になった。

 横断歩道で遭遇した自転車の男は、その某作家に、よく似ていたのだった。

 なにが悪くて彼らからいやがらせを受けたのかは、いまだにわからない。
 この場合に限らず、他人に嫌われる理由がはっきりわかることはすくない。あるいは、こういうふうに「わからない」で片付けてしまうことにあらわれている鈍感ぶりそのものが気に障るのかもしれない。
 いまならば、わからないものはしかたがないし、相手にとってなにかが悪かったのは間違いないにせよ、それがあれだけの攻撃につながるほど悪いことだろうか。と思うが、当時は混乱し、逆上し、嘆き、不安になった。なにが悪いのか知りたかった。知って、反省して、謝罪して、許してほしかった。必死だった。これも、いまならば、そんなにしてまで縁をつながなければならない相手だろうか。と思う。しかしこれまた、当時のわたしにとっては、必死になるべきことだった。
 夫はわたしを落ち着かせようとつとめてくれたが、わたしの混乱がおさまらないので、徐々にいらだち、声を荒げることもしばしばになった。当然だ。当然のことだが、わたしはそのためにさらに混乱し、絶望した。

 いやがらせは、ある日を境に、ぷつんと途絶えた。

 なぜ突然そうなったのか。これもわからない。想像するに、限界まで疲れきってしまったわたしが、そうなってようやくなにを書かれても完全に無視するようになったからかもしれないし、相手が夫婦ともに、そのころ新しい本を出すことが決まったからかもしれなかった。
 後者の想像が当たっているとしたら、いやだなあ。と思う。なんだかどこまでも勝手な気がするというか、相手の都合だけでいいようにやられたまま終わってしまった感しかないのが猛烈にくやしく、腹立たしくなるからだ。

 帰宅してすぐ、私は夫に、
「いま、狐狸さんにそっくりな人をそこで見たよ。自転車乗ってた」
と言い、夫は、
「狐狸さんはわざわざこんなとこまで来ないだろう。自転車で来るには遠いし」
と言った。それでその話は終わった。
 ちなみに私たちは、その作家夫婦を、なにか人外めいているという意味で「狐狸」「狐狸嫁」と呼んでいた。

 それからしばらく、わたしは狐狸のことも狐狸嫁のことも、なるべく考えないようにした。12月10日の夕方以降、狐狸に似たあの自転車の男を見ることもなかった。
 ところが、今年の2月5日、ぶらぶらと散歩をしていたときに、ふだんから人通りのすくない静かな道で、わたしはふたたび、遭遇した。

 12月にはじめて見たときとおなじダウンジャケットを着ていた。歩き煙草をしながら、なにか缶入りの飲み物を飲んでいた。狐狸だ。いや。狐狸ではない。それはやはり、狐狸に「よく似た」男だった。
 というのは、実際の狐狸は中年だが、そのダウンジャケットの男は、老人だったからだ。しかし、狐狸にあと15年ほど齢をとらせたらこうなるに違いない。と思った。対向するかたちで歩いていたから、顔が見えた。髪型も、眼鏡も、顔の輪郭も、狐狸だった。姿勢の悪さも、狐狸と同じだった。腕に、ナイロン素材の青い大きな袋を提げていた。なにが入っているのか、袋はパンパンにふくらんでいた。

 私はその顔を、なぜかじっと見てしまった。恐怖や不安は、まったくなかった。
 こちらが見ているものだから、相手もわたしを見た。しばらく見合った。互いに無言だった。
 私にとってはじつに長く感じられる時間だった。が、12月の夕方に信号待ちをしたときと同様、実際には、ごく短いあいだのことだっただろう。
 やがて「よく似た」老人は、道のわきの自販機に近づき、その横のゴミ箱に缶を捨て、駅の方向へ行ってしまった。

 帰宅してしばらくしてから、居間のソファーに座ってコーヒーを飲んでいた夫に、言った。
「外でまた、狐狸そっくりな人に会ったよ。すごく似てたけど、やっぱり違う人だった。齢とった人だったよ」
 すると夫も、
「ああ、それなら、おれが見たのと同じ人だな」
と言ったから、驚いた。
「え、同じ人って?」
「ダウンジャケット着た人でしょ。おれが見たときは、いつも駅に行くとき通る小さい公園で、なんでかわかんないけど突っ立ってコップ酒を飲んでたよ。齢があきらかに違うけど、顔とか姿勢の悪いところとかよく似てるなと思った」
「狐狸は煙草吸わないし、お酒も飲まないよね」
「うん。しかしまあ、似てる人間っていうのはいるんだなあ」
 そこで夫のスマートフォンが鳴った。仕事の電話のようだった。夫は話しながら、自室に移動した。

 結論としては「狐狸にたまたまよく似た人が、最近このあたりに越してきたか、なにかの理由で通って来ている」ということになった。「あまり、なんでもかんでも気に病むものじゃない」と夫が言った。

 しかしそれにしても、よく似ていた。といまでも思う。わたしはまたしばらく見ていないが、夫は近所に買い物に行くときなどに、ときどき見かけるそうだ。

 「ドッペルゲンガー」という言葉を思い出したこともある。しかしあれは本人が自身の姿を見る現象を指すのではなかったか。と思い、やはりこれは、たまたま似ている人がいて、たまたまそういう人に出会った。というだけのことなのだろう、と考えておくことにした。

 恐怖や不安はない。

 現に、すくなくともいまは、なにも起きてはいないのだから。
 なにも起きてはいない。
 すくなくとも、いまは。